いまなお「史上最高のTVシリーズ」との呼び声も高い『ブレイキング・バッド』(2008-2013)のスピンオフ・シリーズにして、前日譚。シリーズの人気キャラクターだった悪徳弁護士ソウル・グッドマン(ボブ・オデンカーク)がいかにしてペルソナとしての「ソウル・グッドマン」になったのかを、『ブレイキング・バッド』に登場した個性的なサブ・キャラクターを散りばめながら描く……のだが、ファン・サービスに終始する凡百のスピンオフとはまったく異なる次元で、『ブレイキング・バッド』から通じる「悪とは何か」という主題を緻密な脚本で語りきる。引きこまれる美しい構図とライティング。俳優たちの見事なアンサンブル。メキシコとの国境近くのニューメキシコ州アルバカーキを舞台に麻薬カルテルが描かれるのは『ブレイキング・バッド』同様だが、本シリーズでは弁護士が主人公であることで、「法」――アメリカを定義するもの――を外れることの善悪の価値に揺さぶりをかけるのだ。終わったばかりのシーズン5では、ジミー(のちのソウル・グッドマン)の公私にわたるパートナーであるキム・ウェクスラー(レイ・シーホーン)が「生の実感」(これも『ブレイキング・バッド』から繋がる主題である)を深い部分で得ることで、やっとの思いで勝ち取った銀行との仕事に疑問を抱くようになっていく。これがリーマン・ショック以前の物語であることを踏まえると、そうしたところも示唆的だ。アメリカの優れたドラマはいつだって、「アメリカとは何か」をえぐらずにはいられないのである。2021年に放送予定のシーズン6で完結が決定している。
このパンデミック下において、世界的な人気を巻き起こしているNetflix発ドキュメンタリー・シリーズがこれ。ジョー・エキゾチックを名乗り、トラをはじめとした猛獣を扱う動物園を開いている男の数奇に満ちた生が語られるのだが……いきなり、ジョーが殺人依頼の容疑で逮捕されるところからドキュメンタリーは始まる。その相手は、大型ネコ科動物の保護を標榜している〈ビッグキャット・レスキュー〉の創設者キャロル・バスキン。彼女がジョーを動物愛護の観点で批判していたことから、かねてから対立していたのである。ただ制作陣が彼女を追っていくと、なんと過去に3番目の夫が不可解な失踪を遂げていた(!)ことが明らかになる。この辺りからこのドキュメンタリーは現実味すら飛びこえて過激なマフィア闘争の様相になっていき、アメリカでまともに生きられない人びとのサヴァイヴァル劇へと突入していく。下世話に面白すぎる。ジョーはキャロルを中傷するカントリー・ソングをリリースするなど(MVが強烈)はっきり言ってメチャクチャなことをやっているが、ただ、彼は保守的な田舎に生まれたゲイ男性で、その過激な言動も生き延びるための手段だったのかもしれないと思ったり……。タイプの若い男にクリスタル・メスを与えて恋人にしたとか、2016年の大統領選に出ようとしていたとか、本当にメチャクチャなんだけど。まあ何にせよ……アメリカの狂気が凝縮されたような、2020年はじめの「現象」である。
オバマ夫妻が設立した〈Higher Ground Productions〉も制作に関わっている本ドキュメンタリーからもまた、アメリカの現在が見えてくるだろう。リーマン・ショックによって閉鎖されてしまったオハイオ州の工場を中国企業が買収。そこでは経営者も労働者もアメリカ人と中国人が入り乱れることになり(トップは当然中国人だが)、文化衝突だけでなく、労働問題を引き起こすことになっていく。長時間労働や危険な作業も辞さない中国人労働者たちに対して、アメリカ人労働者たちは過酷な境遇に不満を持ち労働運動を立ち上げるのだが、そのことで立場を越えて融和しようとしていた彼らが引き裂かれてしまう。なんとも生々しいが、これがアメリカの「現場」のリアルなのだろう。どうしても中国が悪者に見えてしまう部分があるが、そこは世界経済のパワーバランスが変化したことに対するアメリカの恐怖感が反映されている。状況はパンデミック以降でますます如実に変化していくだろうから、本作はつまり、パンデミック直前のグローバル資本主義の姿を切り取った作品と言える。アカデミー長編ドキュメンタリー部門受賞作。
『マスター・オブ・ゼロ』の脚本(一部監督)で知られるアラン・ヤンの初監督長編作。かつて台湾の労働者だった青年がアメリカでの暮らしを夢見て渡米し、そのことで失ったものを過去と現在を織り交ぜて描く。アメリカ映画で幾度となく描かれてきた移民の物語なのだが、昨今のアジア・ブームと同期することで今様の味もほのかに感じられる。アラン・ヤン自身は台湾からの移民二世であり、移民である親の世代の物語を子どもの世代から描くという点でも、もはや生粋の「アメリカ人」である自分のルーツを探っているという点でも現代的だ。とくに娘とうまく向き合えない父親の姿が描かれる現代のパートでは、西洋社会にすっかり溶けこんでいる子ども世代に対して、東洋と西洋の間でいまなお引き裂かれている親世代のギャップが巧みに織りこまれている。ルーツとしてのアジア探訪なのでもちろんルル・ワン『フェアウェル』(『タイガーテール』主演のツィ・マーも出演)と併せて観たいし、移民によって成り立っている国・アメリカを現代的な視点からこそ回顧しているという意味では、ジョン・クローリー『ブルックリン』辺りと並べてみてもいいかもしれない。
(※物語中盤で起きる重大な出来事に触れている内容です。未見の方はご注意ください。)
2010年代アメリカにおける『罪と罰』だった。そう言っていいと僕は思う。過ちを犯し続けた人間が、愚かな行為を繰り返してきた人間が、それでも生きることはできるのか……を、優れたストーリーテリング、ユルい絵柄と笑いで問うてきたアニメーション・シリーズが、ついに幕を閉じた。
そもそもは「90年代は人気を博していたが、いまは落ち目になってしまったセレブの自堕落な日常」という軽めのノリで始まったコメディ・アニメだが、ボージャックそのひとの内面を掘り下げていくうちに、アディクション、トラウマから来る抑うつ、被害者が加害者になってしまう悪循環といったヘヴィな主題を持つようになってしまったのが『ボージャック・ホースマン』だ。ポップ・カルチャーにおけるジェンダーの問題など社会批評的な側面も高く評価されている作品ではあるが、それはあくまで表面的な一部でしかない。最終章となったシーズン6では、ボージャックが過去に犯してきた数々の罪――なかでも自分が原因となってしまったサラ・リンの死に、ボージャック自身がどう向き合っていくかが中心となる。社会的に「キャンセル」されるのがボージャックにとって良いことなのか? でなければ彼は、どうすればその罪を償えるのか? 当然答えは、簡単に出ない。
この最終シーズンの問題を僕がひとつ指摘するとすれば、ラストから2話目で視聴者を煽るようなショッキングなエピソードを入れたことだ。幾分やり過ぎだったのではないだろうか――サラ・リン風に言うと、「That's too much, man!」だ。ダメ中年ボージャックに精神的に同一化して本シリーズを観てきた僕の恋人は、このエピソードでかき乱されて「こんなショウ嫌いだ!!」と泣き叫び、逆に最終話では拍子抜けしてまったようだった。ラストから2話目でエモーショナルな高みに達してしまい、最終話でその落としどころを見失ってしまったのだ。だからストーリーの顛末というよりはむしろ、過度にエグみのあるエピソードを入れてしまったことには疑問を呈しておきたい。
それでも『ボージャック・ホースマン』は……苦難に満ちた人生が「続いてしまう」ことの厳しさと悲しさ、そしてもしかすると喜びをも示唆して終わっていった。そのことには、シリーズを息を呑んで見守ってきたいちファンとして感謝したい。僕は2010年代で起きた様々な問題にケリをつけるつもりで最終シーズンを観たが、本作は「問題は解決しない」と当たり前のことを告げて幕を閉じたのだった。そう、2020年代は2010年代で起きたことをリセットして始まるわけではない。わたしたちはその続きに生きている。だから……、そうだ。『ボージャック・ホースマン』は、わたしたちの混乱に満ちたこの10年を、幾多の問題を内包させたまま祝福してしまった物語だった。