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  • 未来よ こんにちは(2016)
    directed by Mia Hansen-Løve by TSUYOSHI KIZU February 24, 2017 1
  • EDEN/エデン(2014) directed by Mia Hansen-Løve by TSUYOSHI KIZU February 24, 2017 2
  • サラエヴォの銃声(2016) directed by Danis Tanovic by TSUYOSHI KIZU February 24, 2017 3
  • 雨の日は会えない、晴れた日は君を想う(2015) directed by Jean-Marc Vallée by TSUYOSHI KIZU February 24, 2017 4
  • わたしは、ダニエル・ブレイク(2016) directed by Ken Loach by TSUYOSHI KIZU February 24, 2017 5
  • 1981年生まれの女性監督、ミア・ハンセン=ラヴは年若くして、すべては過ぎ去っていくことをその作品群で繰り返し描いている。50代の哲学教師の女性が夫から離婚を切り出されたことで、唐突に孤独と直面することになるこの映画はたんに中年女性の「おひとりさま」問題に特化したものではなく、誰の身にも必ず訪れる別れを静かに見つめたものだ。彼女、ナタリーには愛する家族も、築いてきたキャリアも、鬱気味の母親の世話をするという役割もあった。だが、すべては自分の手のなかからこぼれ落ちていく……この無常。ひとつ興味深いのは、かつて彼女は68、69年の革命に身を置いたことがあり、それはもう過去のことなのだと彼女自身の口から告げられることだ。つまり、20世紀の理想主義がもうとっくに喪われたものであることが個人史とかすかに重ね合わせられながらここでは宣言されるのだ。だけど、ナタリーもわたしたちも過去へは戻れない。「特別な教え子」であるハンサムなアナーキスト(!)と車のなかでウディ・ガスリーの歌に耳を傾けるシーンの美しさ。だがこの豊かな時間もまた、過去になるのだろう。そのメランコリーを抱えながら、しかし、「未来」と題されたこの映画の余韻はどこまでも温かい。そして、女優イザベル・ユペールが何度目かの黄金期にいることを証明する一本でもある。

  • ハンセン=ラヴ監督の前作にあたる本作に対して、音楽好き……とりわけクラブ・ミュージックのリスナーからは不満の声も耳にした。曰く、「DJの人生をあんな悲惨なものとして描かないでほしい」、と。たしかにそうした意見も理解できる、が、これはあくまでも監督の作家性が優先された結果なのである。主人公のDJは監督の実兄がモデルとなっており、90年代前半のパリ、つまりダフト・パンクが世界的に有名になる前夜のパーティからこの物語は始まる。そしてダフト・パンクが世界的なアクトになっていくいっぽうで(そのことは映画ではほとんど語られない)、主人公のポールは何人かのガールフレンドとの恋、華々しいキャリア、同じ夢を見た友人、そして音楽への情熱さえも……ひとつひとつ喪っていく。抗うことはできない。だが彼の半生を「悲惨」などと言うことは、本当は誰にもできないはずだ。その一瞬の光もまた、ここには封じ込められているから。煌びやかな『ランダム・アクセス・メモリーズ』の傍らで隙間に消えていった「メモリーズ」があることを、この映画はそっと差し出している。

  • ボスニア紛争を限定的なシチュエーションで巧みに描いた長編デビュー作『ノー・マンズ・ランド』(2001)以来、従軍経験も持つダニス・タノヴィッチ監督はヨーロッパ社会派としてのキャリアを着々と築いている。映画によってスタイルを大胆に変えながら、しかし極めてシリアスな社会問題をつねに描いていることがその作品群では一貫していると言えるだろう。本作はサラエヴォ事件から100年を記念した式典が催されるホテルを舞台にした群像劇で、ホテルのマネージャー、従業員、来賓、VIP、ジャーナリストらの姿が描かれるが、そこではいくつかの対立が図式的に用意される。つまり、経営者と労働者、母と娘、男と女、そして政治的立場の相違……そういった構図が俯瞰的に映し出される様はどこか超然としており、ロバート・アルトマン『ショート・カッツ』(1993)と比較されるのもなるほど頷ける。だがタノヴィッチの映画の底にあるのは社会に対する消えない怒りだ。グローバル企業が生み出したシステムの暴力を描く『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』(2014)も上映されるので、併せて観ていただきたい。

  • キャリアも私生活も充実していた男があるとき妻を事故で喪い、悲しみが訪れないことで自分の空虚さに向き合う――という物語は、ごく近いところでは西川美和監督作『永い言い訳』(2016)とほぼ重なっている。本作においてはその後のアクションが破壊へと向かうのが西洋的だと言えなくもないが、疑似家族的な存在を見つけることで、多くの人間が課されている「役割」など大したものではないことに気づく……という点では共通している。つまり、きわめて現代的な問いを内包したドラマ作品だ……物質的に満たされてしまったわたしたちは、では、何を求めて生きているのだろう? また、自分自身をいったん破壊することで取り戻すというモチーフは、ジャン=マルク・ヴァレ監督の前作『わたしに会うための1600キロ』(2014)と同様だ。それは現代においてどこまでも贅沢で、しかしどうしようもなく切実な問題なのだろう。脚本が技巧的に作りこまれ過ぎていることがやや気になりはするが、監督による軽やかなテンポの演出によって軽妙さは確保されている。

  • このタイトルを見て、『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(1998)を思い出さずにはいられない。つまり、ケン・ローチの映画において労働者、市民、貧者、あるいは弱者――は、「名もなき者」などではない。ブレイディみかこさんが言うところの「地べた」で生きる彼らにはしかし、ひとりひとりに固有の名前があり、それぞれの喜びや悲しみがあり、人生があり、そして尊厳がある。そこで彼らは「弱者」ではない。イギリスのこの頑固な作家はただただそればかりを描いてきた。これが遺作になるのかもしれない。だがいっさいブレていない。本作は初老の大工であるダニエル・ブレイクが心臓の病により倒れ、医者に働くことを止められるが、国からの援助を受けられない――そんなごくごく小さな出来事を描いたものだが、同時に貧困にあえぐシングルマザーとのたしかな心の交流も綴られている。脚本のポール・ラヴァティとのコンビも盤石で、映像のスタイルは相変わらず武骨だが、だからこそ観る者の胸に直接迫ってくる。この映画がカンヌで最高賞に輝いたのはヨーロッパの政治的な季節を示す以上に、何よりもケン・ローチの愚直なまでの信念への称賛である。

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