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CAPS LOCK CAPSULE (Warner) by JUNNOSUKE AMAI
MASATARO TAKEUCHI
SOICHIRO TANAKA
November 29, 2013
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CAPS LOCK

CAPSULE史上、最大の問題作が占う
中田ヤスタカのネクスト・ステージとは?

自分が読んだかぎり、本作に関するインタヴューにおいても中田ヤスタカは、いつものようにサウンドそれ自体についてはあまり具体的に語ろうとしていない。それよりも、制作にいたった経緯やそこでの姿勢、これまでのディスコグラフィと対置したときの作品の見え方、さらには「聴かれ方」やそのシチュエーションについて語る中田ヤスタカは、とても雄弁だ。

そのギャップというか対照的なやりとりは、よく言われるプロデューサー気質が云々というものなのか、それとも音楽家として一線が引かれた態度の表れなのかわからないが、ともかく、作品のプレゼンスという部分で中田ヤスタカは相当に自覚的であることが窺える。このCAPSULEはもちろんのこと、一連のプロデュース業においても大半で作詞・作曲からスタジオ・ワークまで一括して請け負う中田ヤスタカのスタイルはよく知られているところであり、そうして作品のクオリティ・コントロールを握り続けてきたキャリアの中でそれは強く意識づけられたものであることは想像に容易い。だから穿った見方をすれば、あえて語らない/語られないということも含めて、中田ヤスタカからはすでに提示されている――ということなのだろう。

カフェ・ミュージックやミッド・センチュリー・ブームともアジャストした初期のボッサやラウンジ路線をへて、2006年の『FRUITS CLiPPER』や続く『Sugarless GiRL』を機に、CAPSULEは現在のイメージを決定づけたエレクトロ・サウンドへと傾倒を深めていく。印象的だったのは、当時のエレクトロ・シーンが、いわゆる音楽畑を端緒としたものではなく、たとえば服飾系の学生や美容師といった人種の間で支持されたカルチャーだったことの重要性みたいなものを中田ヤスタカが語っていたことだ。

実際、その手の人種が客として自分のイヴェントに詰めかけていたという中田ヤスタカにとって、それは説得力のある現場感覚だったといえるのかもしれない。あくまでひとつのエピソードに過ぎないが、それでもここからは、当時のCAPSULEのエレクトロが、周囲のダンス/クラブ・ミュージックのマナーやトレンドへの目配せとは異なるものとして中田ヤスタカの中では位置づけられていたであろうことが窺えて興味深い。もちろん、とはいえ海外のエレクトロニック・ミュージックの流れも意識されていた部分は少なからずあっただろうが、たとえば当時〈キツネ〉や〈エド・バンガー〉界隈と積極的に交流を見せていた他の日本のエレクトロ勢と比較すると、もっと屈託を感じさせるというか、そうした海外との同時代性や参照性の間には独自の皮膚感覚が挟み込まれていたことを想像させるフックが、中田ヤスタカのサウンドにはあるように感じられる。

そのフックとは、いうまでもなく、パフュームや近年ではきゃりーぱみゅぱみゅのプロデュースを通じて、結果的にJポップの市場に開かれたプロダクションをCAPSULEと並行して手がけてきたこととも関係するものだろう。もっとも、CAPSULEと比べてより広い層のリスナーを意識こそすれ、大衆に迎合するような配慮は微塵もなかったとしても、そうしたある種の芸能界的な競争原理にも晒される緊張感が、アンダーグラウンドやインディのスモール・サークルには回収されきらない「余剰」を研ぎ澄ましたところも存外にあったのではないか。いや、そもそものポテンシャルが必然的にオーヴァーグラウンドとの接点を呼び寄せたと見た方が正しいのかもしれない。ともあれ、自他を問わず長けたプロデュース含めて、特定のジャンルや評価の文脈に拠ることなく俯瞰的なスタンスを維持し、多様なレイヤーを跨るサウンド・ワークは、逆に一貫した中田ヤスタカの流儀といえるものに違いない。

これまでのCAPSULEとは大胆に異なる、いわば「実験的なサウンド」が配されたアルバムになることが事前情報として伝えられもした本作。そのことが最もわかりやすく具体的に示されているのが“ESC”で、いわゆるドローンやミュージック・コンクレートが組み合わされた2分強の小曲は、なるほど、従来のハードエッジなエレクトロ~EDMのサウンド・イメージからは予想のつかない驚きをもたらすものだろう。クラスター&イーノを彷彿させる“HOME”のピアノとエレクトロニクスの牧歌的なハーモニーは、そうした変化を告げる本作の幕開けにふさわしいが、他にも、ザ・ブックスあたりのサンプリング・フォークトロニカに似た“12345678”、あるいは、マニュエル・ゲッチングやリンドストロームにも通じるコズミック~バレアリックな “DELETE”や“SPACE”など、印象的なトラックが断続的に並ぶ。中田ヤスタカは本作について、ライヴで演奏することを想定して作られたアルバムではなく、「内なる盛り上がり」のための音楽といった言い方をしているが、そうした内省的な高揚感を喚起させる反復とミニマリズムは、直接的な形態こそ違え、それこそUSアンダーグラウンドのシンセ・ウェイヴやレイムらポスト・インダストリアルといった海外の「実験的なサウンド」にも傾向を見出せるモードであり、その符号は作品の背景や「聴かれ方」の補助線を様々に想像させて面白い。

もっとも、それらのトラックは、それだけ取り出せば確かに大きな変化を伝えるものかもしれないが、前後のトラックとの流れの中に置かれた印象は、不思議と違和感がない。たとえば前述の“12345678”も、本作の収録曲で最もCAPSULEのパブリック・イメージに近いだろうエレクトロ・ポップ・チューンの“CONTROL”や“SHIFT”に挟まれて聴いたとき、むしろ際立って感じられるのは、ヤスタカ・ワークスのファンにはパフュームの“575”も連想させるようなヴォーカル処理の繊細な妙味ではないだろうか。シングルカットするように曲ごとの存在がピックアップされるのではなく、アルバム一枚を通じてロングピースを形成するような作品構成は、いわゆるバックグラウンド・ミュージックとしての映画のサウンドトラックにも近い感触かもしれない。

パフュームが本格的に海外進出を果たし、あるいはきゃりーぱみゅぱみゅのアルバムが『ピッチフォーク』や『タイニー・ミックス・テープス』のレヴューで取り上げられるといった状況で、中田ヤスタカ/CUPSULEに向けられる海外からの視線というものも、今後クローズアップされていくに違いない。そういう意味で、本作はタイミング的に海外からのアテンションが最も高い中でリリースされたCUPSULEのアルバムといえる。最近の海外メディアで受けたインタヴューでは、将来的に映画音楽の制作に積極的に関わりたいといった展望も語っていた中田ヤスタカだが、奇しくも内容的にも本作は、新たなマーケットに向けた試金石となる作品といえるかもしれない。

文:天井潤之介

2010年代J-POPを代表するNo.1プロデューサーによる、
J-POPへの、そして自分自身へのアンチ・テーゼ

「例えばこの机の上に今たくさん物が乗ってて、この状態はキャッチーじゃないんです。でもほかの物をどかしてコップ1個だけにしたらみんながコップを見る。それがキャッチーだと僕は思ってて。それがポップかどうかはわからないですよ」――「キャッチー」と「ポップ」の違いについて、中田ヤスタカは『ナタリー』のインタヴューでそう説明している。「僕はポップである必要はそんなにないと思うんですよ」とも。

とすれば、パフュームやきゃりーぱみゅぱみゅといった、すでに世界規模の成功を果たしているアーティストのプロデュース・ワークは、「音楽はキャッチーであることにどこまで特化できるのか」という問いに対する、情熱的な、いや、パラノイアックなまでの実験だったのかもしれない。しかもその熱意は、(筆者が推測するところでは)キャッチーであるためにあらゆる手段を尽くすK-POPの貪欲さに刺激され、ここ1~2年ほどでさらに激化している。実際、十八番のエレクトロ・ハウスにバッキバキのEDMマナーを精力的に取り入れた“Spending all my time”などをインストールしたパフュームの『LEVEL3』は(おそらくは戦略どおりに)海外各国で受け入れられたと言うし、『ニューロマンサー』、もしくは『ブレードランナー』からヴェイパーウェイヴにまで受け継がれている欧米人のいい加減な日本解釈に対する釣りないしサービスとも言える、ネタとしてのエキゾティシズムを随所に振りまいたきゃりーの『なんだこれくしょん』は、アメリカの有力な音楽批評サイト『タイニー・ミックス・テープス』において、(おそらくは想定外だろうが)三島由紀夫の切腹に喩えられた(マジかよ!)。

しかしこれらは、あくまでもすでに数十万人かそれ以上のリスナーを抱える売れっ子プロデューサーとしての役割を果たしたに過ぎない。そして、同じ役割をCAPSULEとして背負うつもりが全くないことは、中田が昔から一貫して発言していることでもある。親愛なる『サイン』マガジンの読者たちよ、驚くな。CAPSULEの新作『CAPS LOCK』は、中田ヤスタカによるアンチ・中田ヤスタカ、現在のJ-POPを代表するプロデューサーとなった男によるアンチ・J-POPだ。

まず驚くのは、声のほぼ完全な消失。歌の断片化は近作で意識されていた新傾向だったように思うが、こしじまとしこのヴォーカルがメロディとともにパキっと立ち上がってくる曲は、ついに一曲もなくなった。辛うじて“CONTROL”や“SHIFT”がその代役を務めているが(この二曲はiTunesでも人気)、声の鳴り方は徹底してアブストラクト。トラックの鳴りも、例えば前述の“Spending all my time”なんかに比べればどことなくロービットのピコピコ風で、今や「“渋谷系”系」と俗称されるピチカート・ファイヴ意識のデビュー作『ハイカラガール』の冒頭を飾った謎のインスト曲“サムライロジック”をようやく迎えに行けた、と言うか。しかも、当時は歌唱パートとトラック・パートを分ける前提があったハズだが、パフュームやきゃりーぱみゅぱみゅでの成功以降、バランスを取るためにあえてそれを拒否し続けていたら、歌唱もトラックも渾然一体となってしまった、みたいな。歌はない。ないけれども、ダーク・エレクトロ“DELETE”でさえもメロディアスに響く。あるいは、フィールド・レコーディングをドローンとして聴かせる“ESC”は、「4つ打ちもいいけど、眠れない夜に聴く時計の針の音もアガるよね」とでも言いたげだし、エンディングを飾るドラマティックな“RETURN”は、さながら久石譲のテクノ解釈だ。ここには4つ打ちもメロディもあるが、アップリフトな衝動も、歌のキャッチーさもない。それがごく自然と両立されている。

すごく中途半端な言い方をすれば、J-POPのセオリーにも、ダンス・フロアという現場の欲望にも隷属しない、とても宙に浮いた作品である。もちろん、レーベル移籍を踏まえ、キャプスロック・キーでカプセルの表記をすべて大文字に変えた転機ということも大きいのだろうが、今の中田がこれをやる意義は大きい。逆に、中田くらいに成功しなければ、こういう仕掛けもまた意味をなさないのか、という寂しさを感じてしまうにしても。あえて言うなら、全体的にリズムが少し仕事をサボっているようにも思えたが、売れっ子・中田ヤスタカへのカウンターまでをも自ら生み出さなければならない状況のキツさを察すると、そこは責められないか。5年ほど前、今はなき音楽誌『リミックス』で「評価が見えているものは作りたくない」という趣旨のことを話していた中田を覚えているが、本作を聴く限り、それは今も変わっていないのだろう。この男、やはり相当ひねくれている。インサイダーの見えざる抵抗は続く。

文:竹内正太郎

派生的に現在のポップ・ミュージックの状況を痛烈に批判する、
作家自身のエゴも意図も感情さえ見えない摩訶不思議な1枚

書くことがない。何を書いたとしても、説明にしかならない。それ以上に、聴けば済む。だからこそ、何も書く必要がない――もし理想の音楽に出会ったとしたら、多分、そう感じるのではないか。そして、本来なら、優れた音楽とは、そうあるべきだ。いや、むしろそういうものだろう。だが、昨今の音楽批評の世界では、学理的な説明に注目が集まり、いわんや音楽にまつわる状況について書くことが脚光を浴びていたりする。こうした状況というのは、単純な話、そこで語られているポップ・ミュージックがどれも音楽的に貧しいものでしかないからではないか。圧倒的なポップ・ソングが存在せず、ネタとして、コミュニケーション・ツールとしてしか機能していないからこそ、そんな風に誰もが語りたがるのではないか。このアルバムを聴いて、思わずそんな考えがよぎった。この作品は語りづらい。正直、書くことがない。何を書いたとしても、説明にしかならない。そして、勿論それは、とても喜ばしいことだ。

かつてザ・フーのピート・タウンゼンドが同世代きってのテクニックを誇る敏腕ギタリスト、ジェフ・ベックをして、こんな内容の発言をしたことがある。「彼の表現力は本当に素晴らしい。誰にも真似することが出来ない。だが、問題は、彼には何ひとつとして“表現すべきこと”がない、ということだ」。納得である。だが勿論、これはタウンゼンド自身の何かしらの嫉妬からの発言であるのも確か。しかし、表現力ばかりが過剰に突出して感じられる音楽家というのは確かに存在する。もしかすると、『ファンタズマ』以前の小山田圭吾などもそれに当てはまるかもしれない。だが、だからこそ、彼の音楽は魅力的だった。それに、ピート・タウンゼンドが言うところの「表現すべきこと」がある音楽家が素晴らしいかと言えば、実際のところ、必ずしもそうでもないことは明らかだ。むしろ逆の場合の方が多い。例えば、ある種のメッセージ・ソングの場合、音楽が何かしらのメッセージを伝えることに奉仕するあまり、すっかり辟易させられてしまう場合も少なくない(ただ実のところ、優れたメッセージ・ソングというのは、そういう類いのものとは違っている)。

特に音楽というアートフォームの場合、果たして作家は何かを表現しようとして、音楽を作っているのか? あるいは、聴衆はその「表現された何か」を受け取るために、それを聴いているのか? そうした問いに対する絶対的な解答は存在しない。例えば、その場の空気をなごませるという目的だけで存在する所謂「ミューザック」を、目的だけが肥大したものとして切り捨てるのには無理がある。あるいは、小川のせせらぎや木立の擦れ合う音といった自然音を、誰かが耳で楽しんだとしたら、それは明らかに音楽だ。特に、そうした自然音をフィールド・レコーディングしたサウンドを組み込むことがポップ・ミュージックのひとつの手法として一般的になりつつある今現在においては、話はさらにややこしくなってくる。

だが、いずれにせよ、例え、それが「何も表現していない」としても、音楽には存在意義がある。何の目的もなく、ただ鳴らされただけだとしても、それを聴く誰かがいるだけで、音楽は意味を持つ。何故なら、音楽に何かしらの意味や価値を与えるイニシアチブというのは、音楽家ではなく、リスナーにあるからだ。

中田ヤスタカというプロデューサーには、その内面やエゴを感じさせない透徹した不気味さがある。ドロドロとした不気味さではなく、静まりかえり、澄み切った湖のような不気味さだ。確固とした作家性がありながら、明らかにそれを当の本人が少しも大切なものとしては意識していない風に感じられる。こだわりはあっても、そこに一切こだわり続けない冷血さにも似た無頓着さがある。あるいは、彼のプロデュース作品から、創作に対するパッション以外の部分で何かしらの彼自身のエモーションを汲み取ることも難しい。例えば、彼のプロデュース作品であるパフュームやきゃりーぱみゅぱみゅの楽曲がかもしだす何かしらのエモーションに対して、中田ヤスタカその人が感情移入する姿を想像するのは難しい。実際のところ、彼女たちの個々の楽曲が何かしらの喜びやセンチメントを描いていたとしても、それをまるで人間的な感情の揺らぎに対して無慈悲な科学者ように、まったくの他人事として、それをプロデュースしたからこそ、そこで組み換えられたシンガーたちの声とサウンドは、多くのファンを感情的に揺さぶるのではないか。

本作へと進もう。おそらく大方からすれば、大幅な転換を感じさせる問題作として位置付けられるだろう。アルバム・タイトル同様、8つの楽曲には、“CONTROL”、“SHIFT”、“RETURN”といった具合に、PCキーボードの各種キーの名前がタイトルとして冠されている。どこか意味を拒んでいるかのようでいて、実際のところはむしろタイトルと音楽との組み合わせにおける恣意性を楽しんでいるのだろう。ポリリズムも含め、リズムは多彩だし、さまざまな工夫がこらされているにもかかわらず、どこか一筆書きの素描画のように感じられるモノクロームのサウンド・テクスチュア。カットアップされ、断片的にコラージュされた声。プロダクション的には、比較的ダンス・ミュージックのマナーを踏襲しながらも――「実験的」という言葉は敢えて使いたくはないが――所謂ポップスの手法を逸脱する様々なアイデアと手法が凝らされている。モーターの回転音のループは言うに及ばず、フィールド・レコーディングされた自然音を使ったミュージック・コンクレート風トラックにはおそらく誰もが耳を疑うに違いない。時折、ポップスの常套句を知りつくした卓越したポップの担い手としての顔を覗かせるトラックもあるにはあるが、大半のトラックは敢えて言うなら、実験的。だが、けして退屈させることなく、全8曲36分の間に、聴き手の耳を驚かせ、楽しませ、時には感情の襞を刺激する心地よいフロウがある。

自然音のフィールド・レコーディングという意味からすれば、コーネリアスの『ポイント』、サンプル音のカットアップという意味からすれば、ドリアンの最新作『ミドリ』といった、何かしら比較しうるアルバムはあるかもしれない。だが、ある意味、感情的に無味無臭とも言えるこのアルバムには、果たして何かしらのエモーションが込められているのだろうか。少なくとも、ここからピート・タウンゼンドが言うところの「表現すべきこと」を見いだすのはとても難しい。敢えて大袈裟な言い方をするなら、シニフィエなき、シニフィアンとして成立している作品だと言ってもいい。

敢えて悪く言うならば、知識と技術がひたすら上滑りしていくような作品であり、良く言えば、知識と技術だけを表現することに成功した見事な作品だ。どちらとも言えない。例え、作家がどんなことを意図していたとしても、その意味と価値を決めるのは聴き手だからだ。だが、もしかすると、そこかしこのロック・ミュージシャンが、「この曲には僕自身のこんな感情を込めたんです」といった発言を耳にする度に、思わず鼻白まずにはいられない者もいるだろう。結局のところ、聴き手からすれば、そんなことはどうでもいいからだ。だが、そうした向きからすれば、この作品の存在には、少しばかり胸が空くような気分にさせられるのではないか。

この不思議な作品の価値を無理やり決める方法はふたつある。ひとつは、作品の内容を作家の意図と照らし合わせること。勿論これは筆者の立場からすれば、とてもつまらないことだから、敢えてしない。もうひとつは、リスナーとしての自分自身の文脈に無理やり照らし合わせることだ。おい、そんな無茶な話はないだろ、と言うなかれ。普段、我々が音楽を楽しみながら無意識に行っているのは、まさにこうした、作家からすれば、無慈悲で、残酷極まりない作業なのだから。

多くの音楽家はランダムなパルスの連続に、何かしらの規則性を与えることで、何かしらを表現しようとする。だが、かつてオウテカの二人はこんな風に言った。「僕らの音楽は何をも意味しない」。こうした文脈から、僕はこのアルバムを楽しんだ。ただ、もし仮にこうした文脈の中で、この作品を聴くなら、非常に興味深くはあるが、聴くべきものはもっと他にあるかもしれない。所謂ポップスとして聴いたとすれば、この作品はやはりどこか中途半端だろう。だが、あまりに僭越ではあるが、少なくとも必ず彼らの次回作は手に取ることになるはず。そう思わせるに十二分な、中田ヤスタカがクリエイターとしての才能を十二分に発揮したアルバムだ。

文:田中宗一郎

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