マルーン5の“サンデー・モーニング”の歌い出しを思い起こしてしまった“Orphans”、直系でこそないものの、tofubeatsの“水星”に至る“ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス歌謡”に準じるところもありそうな“Summer Soul”と、本作からの先行曲はどちらも、フォーマット化された音楽に慣らされた耳には、さしあたって、とてもポップなものに聴こえた。
そんな耳でこのアルバムに臨むと、一曲目“C.E.R.O”がまるで『ヴードゥー』のイントロだし、三曲目“Elephant Ghost”がアフロ・ビートであったり、と、このバンドは、ディアンジェロやコモンもその一員だった今は亡きソウルクエリアンズがかつて行なったような試みを再確認しようとしているのではないかと一瞬思ってしまった。“Tick Tack”などは、まるで、ア・トライブ・コールド・クエスト(メンバーのQティップもまたソウルクエリアンズの一員だった)の“エレクトリック・リラクセーション”のビートを生演奏アレンジしたかのような感触がある。そして、そのトライブを聴いてジャズに目覚めたテラス・マーティンを中心にした面々が、よりジャズのほうに振れ幅を広げたソウルクエリアンズ的な立場で音作りに貢献したのが『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』だった。
この2、3年のメインストリームのサウンド傾向の一つとして挙げられるものに、70年代の生演奏主体のベタなディスコではなく、そうした演奏に、研究・開発に進歩が見られたシンセやサンプラーやドラムマシンによるサウンドを組み合わせた80年代前半のポスト・ディスコ時代のサウンドへの再注目がある。恐らく、その背景と言うか、理由として考えられるのは、DTMが一通り浸透した次にどこに向かえばいいのか、何をヒントにすればいいのかと考えた場合、反動的に一足飛びに生演奏(の時代)に飛ぶよりも、とりあえず、ナマと打ち込みが混淆していた時代の音のほうが手がかりになりやすい、と無意識に考えた結果なのだろう。
一方、90年代末に、ソウルクエリアンズが、70年代ソウル/ファンクの多面的な再解釈(再評価)を生演奏を基調に意識的に行なったのは、R&Bのトラックまでサンプリングに依存してしまった90年代への大きな疑問に基づいていたわけで、例えば、ceroとして、打ち込みによる音楽制作そのものに対する疑問が何かしら生じたのだとしたら、参照するにはうってつけだとも言える。何しろ、ソウルクエリアンズの一員でもあるJ・ディラは、MPCを操るにしても、ビートを決してクォンタイズさせず、ナマでドラムを叩く時のような微妙な“ズレ”から生まれるグルーヴを追究していたくらいだ。
ceroが参照にしたものがあったとしたら、勿論、それは、ソウルクエリアンズの考え方やスタンスであって、サウンドの特色などではない。前述した三曲を聴いても、ディアンジェロらしさも、コモンらしさも、また、トライブらしさも、微塵も感じ取れない。それはヴォーカルのおかげだろう。例えば、ceroの場合、いわゆるフェイクに当たる部分についても、ソウル歌手などが、これみよがしに歌の技量を誇示する場面として設けられていることはなく、勢い余ってゴーストノート的に引っ張られているような風情だし、フォーマット化された音楽に慣らされた耳には、不安定に聴こえてしまう歌い回しも組み合わされていて、それが気になった途端に、演奏がいかにスムースでタイトであっても、楽曲全体としては確実にひっかかりが残ることになる。“Yellow Magnus (Obscure)”などで聴きとれるように、ここ数年の日本のラップの言葉の載せ方を学習した部分と歌との行き来が、規則性などなく、自由に行なわれたりしていることも、そこに含まれる。
そして、このヴォーカル・パートが耳にひっかかってくるように、ceroの描く歌詞世界での主人公に関わる“動き”は、実は必ずしもスムースではない。多くの曲で、砂から連想されるイメージが散らばっているのも気になるが、なんといっても、表面的には、クルマを気持ちよく走らせているかのように、あるいは、彷徨い続けているかのように思われがちだが、実際には、何度も、一時停止をしたり、立ち止まって考え込んでしまったり、移動を妨げるものが現れたり(“Narcolepsy Driver”)、実は動こうとしているだけで現実には動いていなかったり、といった展開になっているのが興味深い。視点についても、移動撮影に喩えて言うなら、対象から、長回しで遠ざかってゆくようなことはなく、急に引きの画になったり、逆に、寄りの画になったり、主客転倒したり、と、漠とした(それも“obscure”だろう……)不安や動揺という意味での“揺れ”(時に現実界と仮想界との間の“揺れ”)のほうが、好まれて歌われているように聴こえるのだ。この“揺れ”を安定した表現で聴かせようとした結果、到達したのが、たまたまソウルクエリアンズ的なものだったということなのだろうか。
ある特定の世代の聴き手にとって、ceroはその胸をざわつかせる音楽であり続けてきた。思えば、最初のシングル『21世紀の日照りの都に雨が降る』の時点からそうだった。現代の東京での暮らしを人懐っこく歌っているように見えて、節々から匂い立つ血と暴力の予感。カタストロフィの予感と言い換えてもいいかもしれない。例えば、こんなライン。「街のはずれ/テントが燃える」。アルバム未収のBサイドである“ディアハンター”――このメロウなトラックにさえ一抹の不穏さが感じられるのは、同名映画を連想させるがゆえだろうが、そのチョイス自体きわめて自覚的だったに違いない。モラトリアム期の柔らかな青さに染まる暮らしと、そこにこびりつく嫌な予感がないまぜとなった初期ceroの表現は、2010年から2011年初頭において、ある特定の世代が共有していた皮膚感覚そのものだったと言えるかもしれない。そして、1stアルバム『WORLD RECORD』のリリースからほどなくして、3.11が起こる。
2012年の秋にリリースされた2ndアルバム『My Lost City』における彼らは、そうした現実に呼応するかのように、そこでの喪失と鎮魂を踏まえ、カタストロフ後の世界を描き出すことに腐心する。“Contemporary Tokyo Crise”における「巻き戻しして」というライン、“さん!”における「いつでも/戻っておいで」というライン。こうした言葉に託された祈りに触れる度、いまだその切実さに胸を痛ませずにはいられない者もいるはずだ。
アルバム後、その制作にも深く関わったあだち麗三郎、MC.sirafuを加えての編成による一連のライヴ活動によって、バンドは『My Lost City』という作品に区切りをつけ、新たに厚海義朗と光永渉の二人をリズム隊に迎えることで、次へと向う。2013年末のシングル『Yellow Magus』はまさに新しい物語の始まりだった。中期トーキング・ヘッズを思わせる屈強なグルーヴ。前二作をつなげる船というモチーフが砂漠で朽ち果てているという強烈なイメージ。それはひとつの時代の変換をリスナーに印象付けるに十分だった。そして、次なるシングル『Orphans / 夜去』では、さらに洗練されたR&Bを披露。現時点のセクステットでのアンサンブルが研ぎ澄まされていく姿を印象づけることとなる。
この3rdアルバム『Obscure Ride』は、シングル二作での発展を押し進め、徹底してブラック・ミュージックへと取り組んだ作品。前述した“Yellow Magus”のアルバム・テイクにおける変化がその端的な一例と言えるだろう。以前にも増してファルセットを使った歌声と、さらにコクの増したバックビート、しっとりとしたジャジーなアンサンブルは、もはやインディというよりはコンテンポラリーR&B。1998年のア・トライブ・コールド・クエスト『ラヴ・ムーヴメント』~2000年のディアンジェロ『ヴードゥー』~2012年のロバート・グラスパー『ブラック・レディオ』と、故J・ディラの遺伝子を受け継いだリズムの潮流、あるいは、国内インディにおけるアーバン・ファンクネスの勃興――2013年の藤井洋平『バナナ・ゲームス』、今年1月の入江陽『仕事』、そして、このディケイドにおいて誰よりも果敢にそれを探求してきたランタン・パレード――そのどちらの系譜に位置づけようとも、今作はまぎれもなく最新型だ。
ふくよかな凸凹からなるグルーヴの狭間を縫うように、言葉はしなやかに紡がれる。もはや初期のヘタウマなチャームからは完全に脱却した高城晶平のフロウの滑らかさ。サウンドと歩調を合わせるように、リリックの文体も落ち着いた視線を獲得した。だが、もっとも特筆すべきは、その描写の対象だろう。過ぎゆく時間をどこまでも丁寧にしたためることで、日常と非日常の境界が曖昧になり、シームレスに浮かび上がる瞬間が幾度となく描かれている。蛍光灯が消え、数秒間、闇に包まれた地下鉄。次第に存在感を増すラジオのノイズ。仲間との宴の中、突如かかってきた無言電話。そうした日々の暮らしに忍び寄るこの世のものならざる存在が、どうにも聴き手の胸をざわつかせずにはいられない。
それにしても、作品中で何度も登場する“影なき人”とはいかなる存在なのだろう。黒沢清映画を連想する者からすると、とても心穏やかではない。だが、どうやらこのアルバムの世界観の中では、この存在は、現実と非現実のスイッチャーのようだ。停電した地下鉄の中で捨てたはずの手紙を渡す人。川原で焚き火をしている人たち。その存在を感じとる度、個々のトラックの主人公たちは今いる足場の揺らぎを味わう。“ticktack”の中で、ふとつぶやかれる「僕の知ってる、みんなはどこ行ったんだろう?」というライン。そして、主人公は、その“影なき人”を介することで、全知と忘却の旅――いうなればアカシック・レコードへとアクセスすることになる。
幾度となく思い出し、その当時の感覚を追体験しては、また忘れてしまうこと。思えば、その営みは、失われた誰かを悼むことと似ている。この『Obscure Ride』は、もはやこの世には存在しない人へ向けての柔らかな慈しみを色濃く漂わせる作品だ。『ヴードゥー』に代表されるブラック・コンテンポラリーが持つ、ひそやかな夜の祝祭のための音楽といったムード。それはこの作品にも貫かれている。
今作において、ceroが幾人かの先達から受け継ごうとしたのは、サウンドの諸要素以上に何よりもそうした弔いの宴の感覚なのではないだろうか。ゴトンガタンという地下鉄の音に次第にリズムが重なっていき、ゆっくりと宴の扉が妖しく押し開かれることで始まるアルバムは、最終曲“FALLIN”において穏やかに満たされた境地へと着陸する。「会えてほんとうに嬉しかったよ」と。一時間に及ぶ死者との対話のあと、聴き手はその孤独の尊さを噛みしめることになるだろう。そして、生きていることを誰よりも思い出すに違いない。