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THE SHAKES Herbert (Hostess) by AKIHIRO AOYAMA
YUSUKE KAWAMURA
June 04, 2015
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THE SHAKES

ポップなダンス・レコードの中に忍ばせた、
複雑な現代社会における人の在り方に対する問い

ハーバート名義では06年の『スケール』以来のフル・アルバムとなる本作は、「9年振りのダンス・レコード」と銘打たれている。近年では、マシュー・ハーバート名義でそれぞれに異なる一つの事象を扱った『ワン』三部作や、未完に終わったマーラーの交響曲第10番の再構築など、コンセプチュアルな実験的作品のリリースが続いていたが、ひとまずは本作がハーバートにとってダンス・ミュージックに回帰したアルバムと言えるのは間違いない。ただ、『スケール』以前のダンス・レコードにおいても、常に政治的/社会的な問題を提起する様々な仕掛けを忍ばせてきた彼のこと。本作も、リリースに先駆けて一週ごとにYouTubeにアップされた全曲のヴィデオ・クリップの映像と合わせて見れば、ただフロア・オリエンティッドなトラックの羅列に留まらない複雑な奥行きを感じることの出来る、いかにもハーバートらしい一枚となっている。

アルバムの前半には、ラヘル・デビビ・デッサレーニとエイド・オモタヨという男女の新鋭シンガーをフィーチャーした、ポップでソウルフルなハウス・トラックが並ぶ。ただ、それに付随する映像に映るのは、微動だにせず駐車した車の中に座ったままの男、時折遠くを通り過ぎる車のライトくらいしか明かりの射さない夜、所狭しと敷き詰められたミニカーの上を悠然と歩く怪獣のようなカメといった車のメタファーである。その次に並んだホーン・セクションが印象的な“スマート”には、テレビの通販カタログを延々とめくり続ける映像が添えられている。それらの映像と祝祭的な音楽の対比には、物質主義的な現代社会についてのメタフォリカルな視線が感じられる。

アルバムが後半に進むにつれ、ビートはしだいに曖昧になり、アンビエントな質感が空間を支配するようになっていく。それに同期して、選ばれた映像は生命的な息吹を感じさせるもの(眠る男、色とりどりの花、子供の存在をほのめかす家の一室など)へと変化する。音楽は安息的にも感じられるが、総じてどこかに居心地の悪さや不安を掻き立てるトーンで、残酷な美しさを湛えている。9曲目の“セイフティ”は戦争についての曲で、eBayで購入した弾丸と貝殻から出した音が使われているという。そこにも美しさと残酷さの対比があり、テクノロジーの発展と共に複雑さを増す人の営みについての相反性が込められているのだろう。

ハーバート曰く、本作は彼にとって最も親密でパーソナルなレコードだというが、類い稀なコンセプチュアリストである彼にとってのそれは、単純に自分の半径100メートル以内の世界を意味しているわけではない。ただ、音楽的に快活な前半部とアンビエントな中盤~後半部の間に位置する4曲目“スマート”に、彼が本作を親密でパーソナルだと称する意味が透けて見えるように思う。本作中もっとも奇妙なポップさを持つ同曲のヴィデオで映し出されるのは、パン、タバコ、クスリ、ワインの前に座る女性の腕。彼女は三つの嗜好品を手にした後、パンだけを残して目の前の夫の手を握る。そこで表現されているものは明確だろう。モノや情報で溢れかえった現代で、結局のところ人は何を指針に生を謳歌するべきなのか、彼は問うているのだ。

文:青山晃大

ハーバートの受難
いやそれでもその才能は輝いている

ここ数年は原点回帰とも言える動きを見せているハーバート。本作もまたそんな感覚の新作と言えるかもしれない。

まさに欧州におけるハウスというか、エレクトロニック・ダンス・ミュージックのゲームをひとつ変えてしまった1990年代のハーバート。ゴスペルとディスコの熱気を払い抜け、ひたすらハウスのグルーヴをテクノの音色になじませ、クリック・ハウスやディープ・ミニマルの青写真を作ってしまった1st『100 Lbs』(1996年)前後の音。ここにジャズのムードとヴォーカルによって、新たなディープ・ハウスの支流を作ってしまった『アラウンド・ハウス』(1998年)~『ボディリー・ファンクションズ』(2001年)。このあたりへの回帰、感覚を取り戻そうとしている、聴いているとそんなことが頭をよぎるアルバムだ。

2000年代以降のハーバートは、コンセプト・アートとしての実験音楽を推し進めていく。ある種、ポップ・ミュージックとしてのおもしろさやコンセプト・アートとしての道筋、そのあたりが良きバランス感覚で結実したのがビッグ・バンド『グッバイ・スウィングタイム』(2003年)といったところだが、個人的にはその後、実験とポップのバランス感覚を失い、10年にわたって少々迷走の時期に入るような感覚がある。勿論、本作につながる『スケール』(2006年)のようなポップな作品もあったが、やはりもっとも印象が強かったのは、ポップ、クラブ、豚とコンセプチャルに展開した『ワン』三部作シリーズであったし、『ザ・シェイクス』の直前にはシリア内戦をテーマにしたミュージック・コンクレート~ノイズ的な『ジ・エンド・オブ・サイレンス』(2013年)と、とっつきにくい印象は否めない。

実験的なテクノ~ハウスのウィッシュマウンテン、レディオ・ボーイ、そしてサンプリング・スポーツ的なドクター・ロキットなど、キャリアの初期は、DJカルチャーの匿名性と多名義の利便性を生かしてコンセプチャルな仕掛けで好き勝手遊んでいたというイメージが強かった。が、特にビッグ・バンドでの成功以降、そうしたコンセプチャル・アート的な文脈もハーバート名義、つまるところ旧来の音楽ビジネスらしい、ひとりのアーティストへと集約させていくこととなった。そのあたりに難があったんじゃないかと、2000年代後半から2010年初頭に関してはそんな自ら招いた受難の印象。

中道であるはずのハーバート名義が、レフトフィールドにも、ポップにもいる。勿論それがマシュー・ハーバートというアーティストなのだが、「ハーバート」名義ひとつが背負うにはあまりにも広すぎるイメージだ。そのあたりを解消しようとしたのが、2012年のウィッシュマウンテンの復活だと思うのだが、それもなんだかバズったとは言いがたい。

こうした動きをおそらく収束させるため、いま原点回帰なのかもしれない。

2014年、ひさびさとなる通称『パート』シリーズを復活させる。これはもともと1st『100 Lbs』へと集約したシリーズで、まさにハーバートの原点とも言えるスカスカのハウス・グルーヴを具現化した初期の傑作シングル・シリーズだ。復活したシリーズも、初期の彼らしいハウスの魅力と通じる作品群となっている(『パート6~8』)。ジャズに走る前の『アラウンド・ハウス』あたりの感覚を現在の音にアップデートし、シカゴ・ハウスのファンクネスを彼なりに展開したようなハウス・グルーヴを響かせている。シカゴ・ハウス・リヴァイヴァルの機運にも乗り、それこそフロアにひさびさに凱旋することになった。

と、そんな流れのなかで、ヴォーカル系ハウス・トラック多しの発表でリリースされた本作。『パート』のまとめで来るかなと思ったら、そんなことはなく、新規の全編ヴォーカル・トラックで埋め尽くされている。ヴォーカルはハーバートのお膝元〈アクシデンタル〉からリリースしているポストロック~ダウンテンポ系バンド、ヒジュラのラヘル嬢、そしてエイミー・ワインハウス、カインドネスなどの作品にコーラスで参加しているエイド・オモタヨという、男女ヴォーカル。ちなみに、どちらも前述の『パート』シリーズに参加しております。

サウンド的には、作品の方向性は2006年の『スケール』のその後、といったところだろう。ポップな歌モノだ。リリースに至ったいまにおいても、彼のリリースにしては拍子抜けするほどコンセプチャルな情報は出て来ない。せいぜい、本人が監督を務めている、全曲PVぐらいのものである。楽曲タイトルにしても、アブストラクトなタイトルが並び、その意思を推し量るには少々情報が少ない。

構造を言えばハウス的な楽曲は多いが、『パート』シリーズに比べればそのフロアへのファンクネスの趣向性は少々弱い。が、驚くほど明快なポップ・ミュージックを提示した作品だ。最新『パート』シリーズで感じられた「これがハーバートだよな」という喜びの感覚が希薄なのはたしか。これがどこから来たのかと言われれば、やはりダンスフロアとのバランス感覚をハーバートの作品に求めていたところではないだろうか。本作はそうしたバランスを少々ひっこめ、ポップスへと一歩踏み込んでいる。実験主義に突っ走ったのちに、ダンスフロア、そしてポップスの狭間でそのバランス感覚を取り戻そうとしている、そんな印象を受けるアルバムだ。それでも“ミドル”のようなハッとするようなトラックもある。そのあたりはソングライターとしての才能はひしひしと感じさせる。さて、次はどうでるのか?

文:河村祐介

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