既に知っている人も多いだろうが、ジャック・ホワイトのソロ2作目となる『ラザレット』のヴァイナルは「ウルトラLP」と称され、多くの斬新な試みが詰め込まれている。A面は内側から外側に針が回る仕様になっており、外周にはエンドレスで鳴り続けるグルーヴが刻印。レーベル部に刻まれた短い隠しトラック。A面とB面で異なるカッティングの採用。盤が回ることで浮かび上がる天使のホログラム。B面は針の落とし方によってアコースティック・ヴァージョンとエレクトリック・ヴァージョンの2つの異なるイントロが用意されている、等々。誰もがスマートフォンを持ち、消費者1人1人が手の中で気軽にインターネットや技術の革新を享受・体感できるようになった今の時代に、アナログという制約の多いフォーマットを用いて他の誰にも出来ない新しいモノを生み出す革新的な創造性。それこそが、ホワイト・ストライプスの頃から一貫して追求してきたジャック・ホワイトの美学であり、「ウルトラLP」の試みは彼の音楽やアートへの向き合い方を見事に象徴している。
「制約」こそがアートにとって最も大切な要素だと、ジャック・ホワイトはこれまでにも多くのインタヴューで語ってきた。ホワイト・ストライプス時代には、技術的には優れたドラマーとは言えないメグ・ホワイトを相方として、ほとんどのレコードを2~3週間という短い録音期間で制作。ギター・ドラム・ヴォーカル以外の楽器の使用さえほとんど無かった『エレファント』以前の作品から、ピアノやマンドリン、マリンバを敢えて重用してみせた『ゲット・ビハインド・ミー・サタン』、スコティッシュ音楽やマリアッチといったアメリカ以外のルーツ・ミュージックの要素を取り入れた『イッキー・サンプ』と、ホワイト・ストライプスのレコードは作品ごとに異なる地平へと足を踏み入れながらも、ほぼ全ての作品でコンセプチュアルな縛りが見られる。それもジャック・ホワイトの言う「制約の美学」の一端だっただろう。
しかし、ソロでのキャリアを始めてからの彼は、ある側面においてその「制約」を解き放っているかのようでもある。前作『ブランダーバス』は、ナッシュヴィルに立ち上げたレコード・ストアやヴェニューを含む〈サード・マン・レコーズ〉の拠点にある自身のスタジオでレコーディングされ、その製作にはツアーのバック・バンドを務めたメンバーを中心に総勢20名弱のミュージシャンが参加。アナログ録音へのこだわりやブルースへの敬愛といった彼の根幹は残しながらも、多くの人間を招き入れ明確なコンセプトを設けずに作られた同作は、アイデアと情熱に満ち溢れたジャック・ホワイトという天才のカオティックな頭の中がそのまま鳴っているかのような、膨大な情報量と熱量を放つ1枚だった。
この最新作『ラザレット』も、概ね前作の延長線上にあり、その方向性をさらに推し進めた作品と言っていいだろう。ジャック・ホワイトにとって、今作は1年以上の制作期間を費やした初めての作品だという。それにより、音楽性は前作よりもさらにフリーキーに多様化しているが、それが決して散漫に映ることなく、どの曲を取ってもジャック・ホワイトの色が刻印されているのはさすがだ。例えば、先行公開された“ハイ・ボール・ステッパー”は歌のないインスト・ナンバーだが、落雷のような凄まじい音色で鳴るファズ・ギターを聴けば一発で彼だと分かるはず。一般的な想像の範疇にあるバンドマンのソロ転向とは全く異なる方向に行きながらも、個のエゴや美学が全面に横溢しているという点でジャック・ホワイトのソロ・アルバムとしか言いようがない。ジャック・ホワイトのソロ・キャリアは、凡夫には想像することさえかなわないような特異な次元を今なお突き進んでいる。
ホワイト・ストライプスが解散を発表して3年。このたった3年の間に、ラカンターズやデッド・ウェザー、ソロ名義で残された大量のディスコグラフィも、あるいは、主宰する〈サード・マン・レコーズ〉を通じた数々の仕事も、ジャック・ホワイトにとってはホワイト・ストライプスの埋め草だったのかもしれない。例の『ローリング・ストーン』誌上での騒動と後日の釈明からは、ホワイト・ストライプスがメグへの片想いに始まり、そして片想いのまま終わった、その事実を今も引き摺るジャックの未練がありありと感じられた。ジャックの中ではまだ、ホワイト・ストライプスは完全に終わった過去ではないのだろう。
しかし、ホワイト・ストライプスとしてのふたりの関係は、解散の発表より前の2007年のアルバム『イッキー・サンプ』の時点ですでに終わっていた、と見るのがおそらく正しい。
ホワイト・ストライプスは活動当時、ある種の「決め事」をみずからに課していたことで知られている。その決め事とは、「3」つの要素に還元できるホワイト・ストライプスの十分条件のようなもので、たとえば「黒/白/赤」で統一されたヴィジュアル・イメージ、「ギター/ドラム/ヴォーカル」からなる編成といった基本原則が、文字通りのルールや制約としてその活動を規定してきた(※作品を重ねる中でいくらかの「例外」を含みながらも)。「3」という数字について「何かを成立させるために必要最低限の数で、自立するために最低限必要な数」と説明し、「“構成”こそクリエイティヴの源」と語って憚らなかったジャックにとって、その決め事とは、「水平線/垂直線/三原色」による抽象主義を謳い、2ndアルバムのタイトルにその機関誌名「De Stijl(※オランダ語で「様式」の意味)」が引用された20世紀初頭の芸術運動、新造形主義に準えられた、彼らなりの美意識の実践でもあったのだろう。
対して、そうした決め事がいくつかの場面で大胆に破られたアルバムが『イッキー・サンプ』だった。ホーンやバグパイプといった異種楽器の使用、それに伴う外部プレイヤーの招聘、さらにオーヴァーダブ/ポスト・プロダクションの導入など、それまでの「3」を加算・乗算するアプローチが要所で執られた『イッキー・サンプ』は、「今回初めてだったのは、他のカルチャーの音楽を取り入れたってこと」と語ったジャックの言葉に象徴的な通り、いわば「必要最低限」という純血性が保たれてきたホワイト・ストライプスの“混血化”を意味した。これ以降、メグがレコーディングに消極的な態度を取り続けたことが解散の引き金となった経緯は知られているが、結果的に最後のスタジオ録音となった『イッキー・サンプ』によって、ホワイト・ストライプスはホワイト・ストライプスであることを放棄したに等しい、といっても過言ではない。
来年で40歳を迎えるジャック・ホワイトの本作、2ndアルバム『ラザレット』のストーリーは、ジャックが19歳の時に書いた詩や戯曲の原稿から着想を得たものだという。その話に興味を引かれたのは、そもそもジャックが決め事の類いにこだわるようになった原点には、彼の10代の頃の体験が深く関係しているからだ。
ジャックが自身の音楽半生を振り返る際、18歳の時に聴いたサン・ハウスの“グリニング・イン・ユア・フェイス”が自分の運命を変えたというエピソードとともに、1970年代生まれの、アイルランド系白人である自分がデトロイトでブルースをやることへの引け目のような感情が併せて語られてきた。いわく「最高の音楽形態」、「本物の音楽の伝統」と信じて疑わないブルースを、自分のような人間にやる資格はあるのか。そのような屈託から逃れるための回答が、ジャックにとっては件の決め事だったといえ、つまり、自身が必要最低限と考える「構成/様式」をブルースから取り出し、その鋳型にみずからをはめ込むことで、誤解を恐れずに言えば「本物」=ブルースを“擬態”する。そこには、自分のような人間がブルースをやることがいかにフィクショナルな行為か、そしてそのブルースはいかにフィクショナルなものにならざるを得ないか、いや、もはやフィクショナルなものとしてでしか今の時代にブルースは存在することができないのではないか――という、前後して2000年代の初頭に登場したロックンロール・リヴァイヴァリストとも共有する重い認識が窺え、ホワイト・ストライプスを結成するまさに前夜だった10代後半のジャックにとって、その自覚は切実なものであったことは想像に難くない。
過去のツアーに帯同し気心も知れた手練のマルチ奏者を揃え、フィドルやマンドリン、ペダルスティール、シンセなど多彩に楽器を並べたふくよかな音色は、そんなホワイト・ストライプス時代にジャックが抱えた屈託などはるか遠くに忘れさせてくれる。なかでも全編で多用されたフィドルの素晴らしさは、カントリーやブルーグラスから室内楽やクラシックまで、ジャンルを選ばぬ楽器本来の汎用性の高さにもあるが、その生き生きと奏でられる存在感が本作の多様な音楽性を象徴しているように感じられるところにもあるだろう。“ハイ・ボール・ステッパー”と“テンポラリー・グラウンド”のコントラストはさながら、デトロイトのエレクトロニックなブルース・ロックを培いつつも、祖国のマイケル・コールマンに辿るブリティッシュ・トラッドのルーツをも隠し持つ、ジャックの懐を広げた作家性を映し出す本作の両極。ブルースもまた、黒人教会の賛美歌が白人社会の音楽や文化と交わることで世俗化され発展を遂げてきた歴史を持つものだが、ここでのジャックはまるで、いわば“混血音楽”としての大文字のアメリカ音楽を忌憚なく謳歌しているようだ。
ヒップホップのライムを意識したというタイトル曲の“ラザレット”も面白い。ヒップホップといえば、ジャックは少年時代、アフリカ系やヒスパニック系が多くを占めたデトロイトの郊外で自分だけがランDMCを聴かないガキだったと聞いたが、隔世の感というかな、なるほどそれらしい饒舌な節回しを披露している。たとえばベックが、似たような文化的・人種的にも雑多な環境で育ちながら、むしろその雑多性にまみれて同化することで自身の個性を獲得し、同じく思春期の終わりにブルースと出会いミュージシャンとしての血肉を形作っていったのとは対照的に、ジャックはブルースの「純血」を守ろうと努めた。その頑なさが、かつてホワイト・ストライプスの活動を通じて築き上げられたジャック・ホワイトという音楽家だったとするなら、余談だが昨年ベックの新曲をジャックがプロデュースして〈サード・マン・レコーズ〉からリリースするといった両者の近況は、レコーディングでプロトゥールズも使われたという本作を聴き解くうえで補助線を引く興味深いエピソードといえるかもしれない。
ジャック・ホワイトのソロはキー・カラーが「青」なのだそうだ。かつてブルースの「青」には、生まれながらにして故郷の記憶やルーツが失われたブルース・エイジのアフリカ系アメリカ人の疎外感や憂鬱が刻まれていた。「21世紀のブルース・マン」を標榜するジャックだが、『ラザレット』のアートワークを飾る「青」は、前作『ブランダーバス』のそれと比べてぐっと色味を増して感じられる。