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TYRANNY Julian Casablancas + The Voidz (MAGNIPH) by AKIHIRO AOYAMA
MARIKO SAKAMOTO
November 05, 2014
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TYRANNY

斬新さと未来を求めて止まない偏執狂の本領発揮
ストロークスの定型を大きく逸脱したキテレツな問題作

ロック・バンドというのは、デビュー時のイメージが鮮烈であればあるほど、得てしてその呪縛から逃れることが難しくなるものだ。ある意味、ストロークスはその典型例に当てはまるバンドと言えるだろう。エクスペリメンタルな側面を極めた2006年の『ファースト・インプレッション・オブ・アース』以降、ストロークスのメンバーはバンドの活動休止期間を利用してソロ活動やサイド・プロジェクトに精を出すようになったが、それらは全て、どこかしら1st『イズ・ディス・イット』~2nd『ルーム・オン・ファイア』のイメージがちらつく、「ストロークスっぽさ」の残る作品ばかりだった。また、バンドが5年振りの復活を遂げた『アングルズ』や目下の最新作である『カムダウン・マシーン』にしたって、プロダクション面では相変わらず野心的な試みが散りばめられていたにも関わらず、大半のリスナーにとっては件の「ストロークスらしさ」がどの程度戻ってきているのかという点が最大の関心事になっていたのは間違いない。

例えば、アークティック・モンキーズが長い時間と作品をかけることによって同様の呪縛を払拭して新たなバンド像を確立してみせたのに対し、ストロークスは多くのメンバーにとってもリスナーにとっても、いまだ初期に決定付けられたイメージが無意識的な基準のまま固定化されているように見える。しかし、その中でもジュリアン・カサブランカスは常に他と全く違うベクトルの未来だけを見ていたのではないか。ジュリアンのソロとしては2作目、ザ・ヴォイズとの名義では処女作となるこの『ティラニー』を聴くと、改めてそんな思いが強くなる。本作は、端的に言って『ファースト・インプレッション・オブ・アース』以来の問題作であり怪作だ。

ストロークスにしろソロ前作の『フレイゼズ・フォー・ザ・ヤング』にしろ、これまでジュリアン・カサブランカスが携わってきた作品には常に独特のフューチャリズムが感じられた。それが通常のバンド・サウンドではあり得ないような奇天烈プロダクションの妙を生んできたことは間違いないが、本作ではその実験精神が極端に強まっている。リード・シングルの“ヒューマン・サッドネス”は10分を超える楽曲で、モーツァルトの“レクイエム ニ短調”をサンプリングした摩訶不思議なバラード。その他も4~6分台の長尺曲が多数を占め、ハードコアやメタルからインダストリアル、エレクトロニカ、民族音楽に至るまで、多くの要素が次々と顔を覗かせていく。

また、これまでの作品に見られたフューチャリズムがどこか無邪気で、それ故のチャームを持ち合わせていたのに対して、本作における未来観が薄暗く、頽廃的で混沌としたものに変化している点も興味深い。ジュリアン自身は本作を「ある意味プロテスト・レコードだ」と語っているが、本作における専制君主や大衆を食い物にする巨大企業といった歌詞のイメージは確かに世界の現状に対する怒りやフラストレーションに端を発しているのだろう。ただ、現代に巣くう病をテーマにしつつも、あくまでフューチャリスティックなイメージを纏い表現している点に彼の本質が垣間見えると思う。過去や現在よりも、未来。安心や安定よりも、斬新さや未開地の開拓を求めて止まない偏執狂こそが、ジュリアン・カサブランカスなのだ。

本作は、徹底してエクストリームで珍妙な作品である。それゆえに、聴く人によって著しく評価の異なるレコードではあるだろう。この振り切れ方に心酔する人もいれば、もはや訳が分からないという人もいるかもしれない。冗談みたいにフリーキーな音楽性に笑い転げている人もきっといるに違いない。ただひとつだけ断言できるのは、本作がストロークス関連のディスコグラフィの中でも、最もストロークスの定型から逸脱した野心的なレコードであり、同時にジュリアン・カサブランカスの「らしさ」が最大級に発揮されたレコードだということだ。

文:青山晃大

ジャングルへようこそ

ストロークスの前作5thのリリースはとにかく地味だった。タイトルからして「落ちぶれマシーン」じゃ出鼻からガス抜きされるし、アルバム向け取材およびツアーも無し。ヴィンテージな録音用テープの箱を模したジャケットにしても「ハイ、出来ました」とスタジオからレコード会社に届けたそのままの形でパッケージされたノリで、デザインや意匠を剥ぎ取った「プロダクト」という――確かにレコードだって商品なわけだが――現実を突きつけてくる。

この戦略は当人たちにとっては「露出/宣伝しないでどこまで届くか賭けてみよう」の実験のつもりだったというし、ネガ&シニカル一辺倒ではないのだろう。しかしあのリリースが無言裏に放っていた「これでアルバム契約満了(=さらばメジャー)」と言わんばかりの開き直りとフテくされ気味なヴァイブは無視できないし、メディアにそっぽを向かれるのは勿論下手したらファンからもブーイングが生まれかねない。しかしストレートに本音を吐くことのない彼らが珍しくあれだけはっきり不機嫌をアピールしたのは、「もう『いい子ちゃん』でいるのは止め」のメッセージを伝えたかったからだろう。本格的に自分たちのやりたいことをやりたいようにやるフェーズ=トレンドの推移や話題性/セールスの上下といった周辺要素に左右されるグレー・ゾーン層に迎合することなく、コアな聴き手たちへとギアをシフトしたと言える。

本体ストロークスのそんな現行スピリットと連動するように、ジュリアン・カサブランカスの5年ぶりのソロ2作目『ティラニー』も八方美人をうっちゃってレフト・フィールドに向かっている。たとえばヴィジュアルでアイドル色を前面に押し出していたように、前作『フレイゼズ・フォー・ザ・ヤング』は彼にとってのポップという概念とコマーシャル性をとことん押し進めた1枚だった。80年代のキース・フォーシー仕事(ビリー・アイドル、サイケデリック・ファーズ他)を思わせるシンセ+ハード・ロック・ギターによるきらびやかなポップネスと、エルヴィス・プレスリーの系譜を引くカントリー・ソウル/クルーナーの伝統――水と油な2要素を融合させた「ジュリアン流ポップ・ミュージック」はずば抜けてユニークで素晴らしかったが、そこから(恐らく彼が狙っていたであろう)「新たなポップ・スター」は生まれなかった。

あの作品に対する消極的なリアクションが奇しくも明かしたのは、ジュリアンの感性はA:先に行き過ぎあるいはB:遅過ぎ=どちらにせよ天然にエキセントリックなもので、ポップなニーズの真芯からはズレているということだった。完全にAのケースだと思っている筆者としては、斬新なアイデアに興奮するのではなくむしろそれを警戒し、なじみのあるサウンドを求め続けるポップ・ファンのコンサバさを目の当たりにしたようでゲンナリさせられた。当人はそれ以上にショックだったことだろう。嗚呼、モダン・エイジはかくも遠い。

――と開き直ったわけではないだろうが、『フレイゼズ~』のキャッチー&ノリのいいビートと心地よいノスタルジーやメランコリーは脇に押しやられ、『ティラニー』は耳を苛むノイズと怒りを基調に据えたチャレンジングな内容になっている。1曲目こそ近年のストロークスのレパートリーとしても通用しそうだが、夢中歩行を思わせるこのトラックのスローに下降していくアウトロはさながらここから先の約60分に待ち構える悪夢への覚悟を促す警告だ(ご丁寧に歌詞には「これは万人向けじゃない/これは誰のためでもない」というフレーズまである)。

細部まで音楽的に振り付けされた前ソロのスタイリッシュさやストロークスの均整のとれたサウンド・デザインの美は見当たらないし、ことごとくオフなサウンドがランダムに広がる。80年代産近未来ディストピアン映画に登場する悪者/チンピラ集団みたいなルックス(英『Q』マガジンによる「デフ・レパードのローディ」という傑作な形容も捨てがたいが)に恥じることなく、新たに結成されたザ・ヴォイズはブラック・フラッグ/ミスフィッツ/ミニストリーばりのエレクトロ・パンクでダーティ&ブルータルに聴き手を追い立て、壁にぼこぼこバウンスさせていく。お化け屋敷ライドじゃあるまいし。

映画のついでに書けば、この作品を聴いていると『ダーク・ナイト』でヒース・レジャーが演じたジョーカーが浮かぶ。ジョーカーが恐いのはルールや常識が一切通用しないからだが、メタルなギター・ソロ、冗談か本気か判別不可能なベタなシンセ・リフ、ファルセットにデス声と安定しないヴォーカル、どぎついサウンドの加工、強引な転調やメロディのペースト、不気味なアンビエンス、アフリカン・ビート……と「何でもあり」なこの作品も、普通だったら成り立たちそうにないアイデアを衝突させ、セオリーを破っていく。アンチ・ヒーローのフリーキーな迫力とぎりぎりのメロディックなバランスでカーヴを切るスリルに満ちた音楽であり、「有りものではなくシーンに欠けているものを明らかにすることで聴き手を覚醒させていく」という彼の信念も伝わってくる。

とはいえそれはネットが存在しないテニス試合のようなのとも言えるし、「エキセントリックなカオス」あるいは「自己満足」との評もあるだろう。しかし本作について「ストロークスの連中にこれを押し付けることはできない」と語っているように、この人の理性は健在だ。かつ、パーソナルなヴィジョンと音楽的なオブセッションに落とし前をつけるべく異なるバンドを編成し、既存のアイデアの延長や趣味ではなく異なる音楽的コンセプトを提示する=ソロをやる意義――さもなくば、なんだかんだ言ってもストロークスの頭脳である彼がわざわざ部外活動に手を出す必然性は無いだろう――にも回答を出している。

そのパーソナルなヴィジョン~アルバムの契機として、長らく抱えてきた社会や政治、資本主義の暴力に対する失意やフラストレーションがあげられていた。「独裁」「僭主制」を意味するタイトルやアート・ワークはブッシュ政権時代とその余波に今も喘ぐ現アメリカへの思いを反映したものだろうし、ポエティックとも暗号とも言える歌詞にしてもパラノイア/挫折感/アグレッション/抑圧といった具合にダークで重苦しいイメージを浮かび上がらせる。そう考えれば時にホラー・ショーを思わせるハラショーに無軌道な本作のサウンドは、グロテスクで理解を越えた現代を妥協無しに音で描いたサタイアと言える。

先にも書いたように、この人は誤解/曲解に辟易しているからかインタヴュー他でめったに本音を明かさない。作品に関するストレートな説明やナルシスティックな語り~ロックに求められる壇上からのドグマも垂れないため、一緒に遊んでくれる広報官ロッカーが好きな一部のメディアからは「空虚」「何も言うことの無い退屈なシンガー」とこき下ろされもする(その意味で、バンド名のVoid=虚空/無効というのは皮肉なジョークともとれる)わけだが、それはパーソナリティの欠如をごまかす煙幕ではなく音楽そのもので表現し語らせ、聴き手に自主的な解釈・消化を促す自由意志の尊重の顕われだと思う。

即時の満足やすぐ飲み込める解答を出さないと「意味不明!」と批判すらされる今の時代、まわりくどい行き方ではある。しかし、白黒つかない曖昧さやミステリーがあるからこそアートは我々を惹きつけるんじゃないだろうか? たとえばジュリアンと縁のあるファレルが世界的なポップ・スターに転じるきっかけとなった“ハッピー”――疑問の余地のないポップさ/分かりやすさは認めるものの、陽気さの背後に貼り付いたシニシズムにゾッとさせられる曲だ――に合わせてゾンビのように手を叩くよりは、この奇妙で複雑な作品にタックルすることを望むという人たちがいることを信じたい。

文:坂本麻里子

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