人間という生物種に終わりをもたらすのは、細菌かウイルスか悪性腫瘍かだと思っている。その手の本はゴマンとある。そういった本を読んだから、とかではなく、なんとなくそう思っている。しかし坂本慎太郎の『ナマで踊ろう』が言っていることはちがう。人類に終わりをもたらすのは人類自身(が生み出したもの)だ、ということを寓話として『ナマで踊ろう』は描いている。
『ナマで踊ろう』の音楽的なテクスチャーや質感、空気感はゆらゆら帝国の『空洞です』を経た『幻とのつきあい方』とそれほど大きく変わっているわけではない(いや、もちろん「音楽」的な変化はある。でも、これはトーンとかテクスチャーの話だ)。熱くもなく冷たくもなく、かといって「平熱」と言えるような単純なものではないような――あえて言語化するならひたすら「なまぬるい」温度のトーン。0か1か、みたいに2値化された価値判断を巧妙に避け、その間隙にするりと侵入するような音を坂本慎太郎は念入りに作り込んでいた。そして、そこで歌われている言葉はあらゆる確信的な物言いをドロドロに溶かして宙ぶらりんにしてしまうようなものだった。まるで音に寄り添うように。
でも、まず言葉がちがう。『ナマで踊ろう』の言葉はその多くが確信的(あるいは笑えない皮肉)だ。小学生でも理解できるような単語と言葉の運び方しかここにはない。だから、このアルバムの言葉は平坦でまるで深みがない(『幻とのつきあい方』や『まともがわからない』の言葉はいくら掬いあげても零れていってしまう砂や水のようで、いま思えば複雑なものだった)。しかし、だからこそあらゆる言葉がなにかの暗喩として読むことができるような大きな余白を孕んでいる。
“未来の子守唄”では「かつてこの国には/恐ろしい仕組みがあった」と歌われている。「恐ろしい仕組み」とはなんだろう?“めちゃくちゃ悪い男”における、甘言で誘い「妙なものを売る」男はだれ?様々な災害に見舞われたとしてもやめられない「あれ」とは(“やめられないなぜか”)?あるいは「あれ」をやめられない「俺」とは?『ナマで踊ろう』は様々な問いを聞き手に突きつけている――でも、ひょっとしたらそれらの答えの大半を僕らは知ってしまっているのではないだろうか(すくなくとも、僕たちがとても恐ろしい目に遭った元凶であるところのものや仕組みをいろいろな場所へ売りつけようとしている男がだれだかは、ある程度は想像がつくだろう)。
上に書いた奇妙になまぬるい質感、テクスチャーの探求は『ナマで踊ろう』で1つの頂点に達していると言ってもいいだろう。軽快で小気味良く、聞いていてただひたすらに心地よいレコードだ。というか、むしろ快も不快も喚起されない音像かもしれない(そういう意味ではサン・アロウの作品の隣に置いてもいい)。しかし、ひとたび言葉(とまるでひねったところのない記号的なアートワーク)に触れてしまえば、このレコードはまるでゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーのそれと同じようにも聞こえてくる。坂本慎太郎はロボットになったほうが「うまくやれる」ことを知りながらも、なお現代社会を憂えている。『ナマで踊ろう』はまったくもって冷静に聞けるレコードではない。さあ、どうしたらいいだろう、僕たちは?『ナマで踊ろう』は非常にシンプルな回答も最後に用意してくれている――ただ、それは笑えない皮肉かもしれないけれど。
ノストラダムスは今、何を考えているのか。自らの予言によって未来の人類が右往左往する様子を雲の上から眺めて、ほくそ笑んでいるのだろうか。それとも、何の気なしに発した言葉が深読みされてしまって、困惑しているのだろうか。
ゆらゆら帝国と、バンド解散後の坂本慎太郎を取り巻く状況にも、それと似たようなことが言えるだろう。東京都国分寺市で近所の友人たちとアングラなサイケデリック・ロックをやっていた彼らが、コーネリアスこと小山田圭吾のお気に入りとして紹介された頃からいつの間にやらヒップな存在として祀り上げられ、坂本慎太郎がマイ・ブームとして挙げた瞬間から、これまで見向きもされなかったような音楽がトレンドになってしまう、そのこと自体がひとつのカルトであり、脅威でもあった。
そんな彼が“スーパーカルト誕生”なる曲を歌うのだから、こちらも色々と勘繰らずにはいられない。思えば坂本慎太郎は常に中古レコード屋における墓場、つまり埃を被ったジャンルを掘り起こし、死んだはずの音楽を生き返らせてきた。ゆらゆら帝国におけるGSやクラウト・ロックもそうだし、ソロになってからのAORやインナー・ファンクだってそうだ。だから彼が最新作でムード音楽という秘境に足を踏み入れたのは、至極当然な成り行きだったのかもしれない。
本作の制作にあたって、坂本は小山田圭吾の実父の三原さと志が在籍した日本のハワイアン・バンド、マヒナスターズから多大な影響を受けたそうだが、名プレイヤー初山博の弾くヴィブラホンのせいだろうか、アルバムを聴いた後に残る“心地良い絶望感”は、ゆらゆら帝国というよりはむしろ、ジャックスのメンバーがバックを務めた70年代〈URC〉のグループ、休みの国を思わせるものだ。陽気なはずのバンジョーやスチール・ギターは空しく鳴り響き、感情のないロボットのようなムシ声コーラスが、聴く者の不安を煽る。それは誰もが知っている音楽のはずなのに、空っぽのショッピング・モールや廃墟と化したアミューズメント・パークのように、以前とは違った意味を持って聴こえてくるのだ。そしてここでの彼は、荒廃した未来から“かつて栄えていた場所”を描くというSFの手法を借りて、管理化する社会を危惧している。
打ちひしがれている人たちに妙なものを売りつけるという“めちゃくちゃ悪い男”を聴いて思い出したのは、森進一“おふくろさん”の作詞で知られる川内康範が脚本を手掛けた70年代の特撮ヒーロー番組『愛の戦士レインボーマン』だ。日本人抹殺を目論む悪の組織“死ね死ね団”は、御多福会(おたふくかい)という新興宗教を通じて偽札をバラ撒いて日本経済を破綻させ、“キャッツアイ”なる麻薬を飲まされた主人公の大和タケシは発狂してビルの屋上に上り、「お~い、魚は釣れたか~!」と叫ぶのだった。極端にカリカチュアライズされてはいるが、それはまさに現代の日本そのものではないだろうか。
ただ、そういった批評性を抜きにして楽曲だけを取り出した場合、本作を純粋に楽しめたかと聞かれると、正直よくわからない。そもそも彼の歌声がこの種のラウンジ・ミュージックに向いているとは言い難いし、ポリティカルなメッセージを孕んだ歌詞は、ムード音楽のムードを(おそらく意図的に)台無しにしている。もちろんそれが強烈な個性を生んでいることも間違いないが、全体主義に警鐘を鳴らしているはずの本作が盲目的に崇拝されるのだとしたら、それは新たな全体主義を生むだけだ。
だからこそ、アルバム中もっともストレートに心情を吐露する“好きではないけど懐かしい”が余計印象に残る。ここでは「どうでもいいようなことが奪われていく」と歌われているが、もしかしたらそれこそが、彼が本当に言いたかったことなのかもしれない。“地震”や“独裁者”のような過激な言葉に気を取られてしまいがちだが、その裏に流れているのは、どうでもいいもの、あってもなくてもいい音楽への偏愛(執着)だ。
“ナマ”という言葉には、“現場”という意味も含まれる。踊ることが許されなくなりつつあるこの国で、“ナマで踊ろう“というフレーズは、なにやら遠い昔の記憶のように、甘美に響いてくるのだ。