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TO BE KIND Swans (Traffic) by RYUTARO AMANO
JUNNOSUKE AMAI
May 15, 2014
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TO BE KIND

アメリカ音楽の地下水道を行く白鳥たちによる
薄汚く美しい、言葉そのものの意味でのオルタナティヴ・ロック

白鳥たちは死んだ、と20世紀の暮れに自ら言い放った白鳥たちは、21世紀の最初のディケイドを沈黙でやりすごした(もちろんエンジェルズ・オブ・ライトを含むマイケル・ジラの活動が止むことはなかった)。しかしその後白鳥たちは、生きながらにして死の崇高な、甘美な極点を描き出すかのような峻厳なレコード、『マイ・ファーザー・ウィル・ガイド・ミー・アップ・ア・ロープ・トゥ・ザ・スカイ』(2010年)とともに蘇った、というのはあまりにも堅苦しい導入ではあるが、スワンズの21世紀に入って3作目となる『トゥ・ビー・カインド』の枕詞としては相応しい。

正直に言えば、『マイ・ファーザー~』以前のスワンズについて1989年生まれの僕はよく知らない。彼らのカムバックとそれに伴う再評価とともに過去のカタログを聞き漁ったくらいだ。それでもアンダーグラウンドから吹き出し、ゼロ年代半ばにひとつのモードを作ったいわゆるフリーク・フォーク(デヴェンドラ・バンハートはシャネルのモデルを務めるまでに至った)の隠された真の生家として、ジラの〈ヤング・ゴッド・レコーズ〉とエンジェルズ・オブ・ライトは異様な存在感をたしかに放っていた。白鳥たちが沈黙しているあいだに〈ヤング・ゴッド〉は粛々とスワンズのカタログのリイシューを進めることで、彼らが再び飛び立つための水場を築き上げていた。

フリーク・フォークと入れ替わりながらアメリカで浮上したのはスフィアン・スティーヴンス、ボン・イヴェール、そしてフリート・フォクシーズといった、(見知らぬ過去への)ノスタルジーを少々抱えた「良き」(と言ったら語弊があるだろうか)、新しいフォークだった、と僕は思っている。しかし「再臨」したスワンズはフリーク・フォークとは異質の奇妙な異物感を放っていたし、ましてやボン・イヴェールやフリート・フォクシーズとはコインの表と裏の関係にある。『タイニー・ミックス・テープス』で『マイ・ファーザー~』は「New Weird America」(=フリーク・フォーク)ではなく「Old Horrific America」の表現であると書かれている。言うなれば、ボン・イヴェールやフリート・フォクシーズの音楽の真裏を通っている忘れられた薄汚い地下水道を、優雅に、奇妙に、イカれたスピードで駆け抜けているのがいま現在のスワンズである。

あの素晴らしき傑作『ザ・シアー』(2012年)はそのロック表現の極点、と思われた。しかし、スワンズはさらに果てのその先を切り開いてみせている――最新作、『トゥ・ビー・カインド』において。『トゥ・ビー・カインド』でスワンズは『ザ・シアー』よりもさらに洗練と深化を重ね、より厳しい荒れ野を行っている。『マイ・ファーザー~』や『ザ・シアー』で見せていた「フォーキー」な表現はここでは消え去っている。

実に恐ろしい“ジャスト・ア・リトル・ボーイ(フォー・チェスター・バーネット)”や“ア・リトル・ゴッド・イン・マイ・ハンズ”、“オキシジェン”を聞いてほしい。マイケル・ジラは歌ってすらいない。狂気からくるのか、あるいは憤怒によるものなのか、なんとも判断のつかない唸り声や咆哮でシンプルな言葉を発声しているのがただ録音されている。単調で暴力的なフレーズを繰り返す演奏は、巨人が立ち上がるように次第にヴォリュームと過剰さを増していき、周囲を塗りこめるようなホーンやエレクトロニクスのノイズや様々な楽器が音の壁を築き上げていき、ある極点に到達して突然瓦解する。30分以上に渡る組曲“ブリング・ザ・サン/トゥーサン・ルーヴェルチュール”は、21世紀のスワンズが試みてきた表現の集大成的な作品だ。

ジラは『エレキング』のインタヴューでゴスペルへの共感を語っているが、終わりの見えない反復によって次第に混沌を構築していくスワンズの演奏は、構造上はゴスペルと非常によく似ている。2時間超の大作『トゥ・ビー・カインド』はいわば、ジラの宗教的でスピリチュアルな言葉に塗り固められた死というゴールへと欲動するゴスペルである――ただし、ジラの言葉は祝福でも福音でもなく、呪いのような否定と混乱の言葉だ。“シー・ラヴズ・アス!”でジラがわめき散らす「ハレルヤ!」という言葉の響きは、なんと逆説的なことだろうか。

これは、言葉そのものの意味での「オルタナティヴ(・ロック)」である――だから、もはやこれはロックではない。30年に及ぶスワンズの非ロック的表現の試みは、地下水道と直結した未踏峰の高みへと登りつめている。あまりにもノイジーで、薄汚れていて、奇妙なまでに美しい場所だ。昨年の来日公演で叩きつけられたあの恐ろしい音の塊の記憶が蘇ってくる。『トゥ・ビー・カインド』がスワンズの最も素晴らしい、最も恐ろしいレコードであることは間違いない。

文:天野龍太郎

キャリア史上最大の充実期を迎えたスワンズの、バンドとして
血肉一体のパフォーマンスを記録した最高傑作の一枚

マイケル・ジラは、スワンズが「インダストリアル」や「ノイズ」「ドローン」といった形容でカテゴライズされることへの違和感を繰り返し口にしている。とりわけ再始動以降それが顕著な裏には、それこそUSアンダーグラウンドからの再評価という文脈に安易に回収されることでその意義が矮小化されかねないことへの警戒心も窺える一方、そもそもジラにとっては自身の音楽がその手の謂れを受けるゆえんなど意識の端にもない、なかったというのが正直なところなのだろう。メロディやハーモニーを度外視した初期のサウンドについて、ジラによればそれはメンバーに演奏の素養が乏しかったゆえであり、ほとんど“ノン・ミュージシャン”の集まりに近かったスワンズは、その意味で正しくノー・ウェイヴの末席にふさわしかったと言える。

それでもジラにとって、ニューヨークで活動を始めた当初にグレン・ブランカと出会えたことは、幸運であり、あらためて重要な転機だったに違いない。ロックンロールとミニマリズムを背景に登場した最初のコンポーザーとされるブランカだが、一連のギター・オーケストラ作品で披露された反復楽節の多用やトーン・クラスター~ドローンのスタイル、暴力的なクレッシェンド、何より不協和音を組織するアンサンブルの掌握術/統率力(ステージでのエキセントリックな振る舞いを含めて)は、スワンズの青写真に重要な示唆を与えてあまりあるものだった。実際にブランカのオーケストラに参加したこともあるジラは当時その音楽的なアプローチについて理解できなかったそうだが、しかし、制作現場を共にすることで自ずと授かったであろう薫陶の大きさは、たとえば同時期に発表された『フィルス』『コップ』といったスワンズ初期作品との間にフィードバックを確認するまでもなく、想像に難くない(逆にブランカが90年代初頭に発表したメタル・パーカッショニストの重鎮ゼヴとの共演盤はスワンズへの返答のようだ)。そして、あれから30年以上が過ぎ、スワンズの再始動をすっかり軌道に乗せたジラと、今ではアコースティック・ギターでソロ・パフォーマンスも行うブランカの2014年の近影は、とてもよく似ている。

「唐突なはじまりと中断、(略)速くなったり遅くなったりするテンポが特徴であり、高い性的緊張感を作り出している。性急に接触したり、一時的に退いたりすることにより、期待感を持続させるのと同じだ」。これは、ジラとロサンゼルスのアート・スクール時代の友人だったキム・ゴードンによる80年代初頭のブランカのライヴ・パフォーマンスについての評だが、この言葉は30年後の現在のスワンズについても当てはまるように思える。

再始動以降、20分台や30分台の楽曲が平然と並ぶほど重厚長大化が進むスワンズのサウンドだが、テープ・ループや具体音への傾倒を見せた『サウンドトラックス・フォー・ザ・ブラインド』等の90年代後半の作品と比べると、曲の構造自体はむしろシンプルで、ミニマルに削ぎ落とされた印象が強い。スワンズのロン・アシュトンことノーマン・ウェストバーグの荒々しいシングル・コード、ソー・ハリスらドラム/パーカッションが強固なグルーヴを築き、ブランカよろしくジラが強弱法のタクトを振るいピークを演出する現スワンズのストロング・スタイルは、(別稿の通り)初期のモノトナスなマナーへの揺り戻しも見せつつ、さらにツアーを通じた錬成を重ねることである種のボディ・ミュージックとさえ呼びうる肉体性を宿すに至っている。そして、「スワンズ全キャリアの頂点」とジラが自負した2012年の『ザ・シアー』に続く本作『トゥ・ビー・カインド』において、34分強のヴォリュームを誇る“ブリング・ザ・サン/トゥーサン・ルーヴェルチュール”は、ついに今回スタジオでライヴを行いそれをそのままレコーディングする方法も採られたと聞く、その一連の最大の成果にふさわしいだろう。延々と続くリフ・パートをとば口に、クライマックスを引き伸ばし、圧迫と高揚を繰り返しながら展開する集団演奏のモノリスは、ストゥージズ『ファン・ハウス』のメタリックなフリーフォーム&フリークアウトを暗転させ、まるでギャスパー・ノエかラース・フォン・トリアーのサイコ・ドラマをその巨影に映し出すかのようだ。

かたや、リード・トラックの2曲“ア・リトル・ゴッド・イン・マイ・ハンズ”、“オキシジェン”は、『ザ・シアー』以降の飽くなき演奏によって果たされたグルーヴの練熟、リズム・セクションの深化を雄弁に物語る。レコーディング・プロジェクトの様相も呈した活動休止直前期をへて、再びバンド/コレクティヴへと回帰した現在のスワンズにとって「グルーヴ」は実際にジラの口を衝いた最頻度のキーワードに違いないが、たとえば“シー・ラヴズ・アス”のターキッシュなパーカッションとは異なり、“ア・リトル・ゴッド~”の裏拍も意識したリズムとフレーズのドープな反復は、絡みつく女性(ジラの婚約者ジェニファー・チャーチ)のバック・ヴォーカルと相俟ってR&Bやファンク・ミュージックのそれに近い。ギターを弾いたジラはナイル・ロジャースを意識していたそうだが、ともあれ、過去にもフェラ・クティやハウリン・ウルフへのリスペクトを公言してきたジラのファンク/ブルース解釈らしきものをそこ見ることが可能だろう。あるいは、ジラが威勢よく吼え散らす“オキシジェン”は、さながらマザーズがバッキングを務めるJB’s“アイ・ゴット・トゥ・ムーヴ”のポスト・パンク・ヴァージョンだろうか。

ちなみに、“オキシジェン”や前述の“ブリング・ザ・サン~”をはじめ本作の楽曲の多くは、『ザ・シアー』のツアーのセットリストに早い段階で組み込まれ(昨年の初来日公演しかり)、その模様は昨年発表のライヴ盤『ノット・ヒア/ノット・ナウ』で聴くことができる。そうした意味では、前作から本作への流れは自然なもので、両作はあくまで地続きの関係にあると言えるのかもしれない。しかし、アンサンブルの拡張やサウンドのプログレスがキャリアの総覧/反芻とほとんど等しかった前作(“ザ・シアー”、“ア・ピース・オブ・ザ・スカイ”)に対して、それこそ「期待感を持続させる」アプローチにミニマルでプリミティヴな志向も際立つ本作は、再始動から時間と経験をへて、バンドの血肉がいよいよ馴染んできたという手応えを強く感じさせるものだ。ジョン・コングルトンのようなプロパーのプロデューサーを招いたのもそうした余裕の表れなのかもしれないが、ツアーを通じて実演とコンポーズが同時進行で行われる流動的な体制が敷かれながらも、2枚組2時間強のヴォリュームを一曲一曲魅せていくアルバムとしての構成力は、前2作と比べて群を抜いている。セイント・ヴィンセントやリトル・アニーらゲスト陣の抑制の効いた存在感も素晴らしい。

再始動から4年をへて、スワンズは今、名実ともにキャリアの最盛期を迎えている。そして、ジラが牽制しようとも、現在のスワンズがUSアンダーグラウンドにとってのひとつのロール・モデルとなり得ている事実は揺るがない。『トゥ・ビー・カインド』はその地位をより盤石なものとすることを疑わないが、一方、スワンズと並行してソロ活動も断続的に行うジラの動向が気になる。80年代にスワンズが大きな音楽的転回を見せたのは、結成から5年後にリリースされた『チルドレン・オブ・ゴッド』だった。本作のリリース直前にはソロ・ツアーが行われたようだが、そもそも反動的なきらいのあるジラだけに、そろそろ何かが起きてもおかしくないかもしれない。

文:天井潤之介

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