何度も映画や舞台になってきたストーリーの最新版。ブラッドリー・クーパーが初の監督作にレディ・ガガを迎えました。もっとも近いのはバーブラ・ストライサンド主演の76年映画とはいえ、さらにディープに踏み込み、人と人の間で音楽と愛が生まれるさまを映している。もっと言えば、スターが誕生するのは人が「声を発する」瞬間なのです。それが歌となり、大衆のイマジネーションを捉え、人生の苦しみが別のものに変わる。そのメタモルフォーゼはガガが体現しつつ、音楽を生きているのは、実はブラッドリー演じる自己破壊的な男だったりもする。彼が兄から「声」を盗むという背景を加え、地声をまったく作り変えた演技には驚きました。逆にレディ・ガガからはよりリアクティヴで自然な演技を引き出しているのも効果的。カントリー・ロックを基調に男女の濃い情愛が描かれるので、映画ではシシー・スペイセク主演作『歌え! ロレッタ愛のために』(80)を思い出したりも。音楽で例えるならニール・ヤング、スプリングスティーン、パール・ジャム。アメリカのひとつの原型がモダナイズされ、琴線に触れてくるので涙は必至です。レディ・ガガにも新たな方向性を見出した一作。
クリスマスに無関心な私もこれは見てしまいました。エズラ・クーニグによる不思議なアニメ『ネオ・ヨキオ』の特別編。あいもかわらずリッチなキッズが「一番魅力的なバチェラー」となるのを競う並行世界のNYで、主人公カズ(ジェイデン・スミス)はいつになくメランコリックです。というのも仲間は祝祭シーズンに自前のブランドを売り出し、ライバルのアルカンジェロ(ジェイソン・シュワルツマン)はカズを陥れようと策略。訪れてきた伯母は家族の秘密を明かし、ネオ・ヨキオは悪魔の襲撃を受けるのです。とまあ、要は神が不在な宗教的祝日において、さまざまな消費活動のもと、人々の欲望が制御不能に。エズラらしいジョークは字幕で追えないほど細かくなり、例えばヴェトモンがコラボした高価な病衣をファッション・ブロガーのヘレナ(タヴィ・ゲヴィンソン)が着たりしていました。鍵となるのはエズラの新曲“フレンド・ライク・U”。真の友情を求めるこの曲は、他のどんなプラットフォームでもまだ聴けません。あいかわらず謎多し。
ネオ・ヨキオでは音楽もファッションも、コミュニティさえも消費主義で繋がっていますが、70年代末のNYにそんな金はなく、若者たちは発想によって動き、ケミストリーで繋がっていました。サラ・ドライバー監督による、若きジャン・ミシェル・バスキアのポートレート。ジム・ジャームッシュのパートナーでもある彼女は、当事者が見たバスキアの変遷を、彼の恋人や友人、シーンにいた人々の証言のコラージュにしています。それは失われた街へのラブレターでもある。社会状況によって荒れた街が新たな音楽、アート、ファッションの触媒となったことがじかに伝わってきます。ヒップホップとパンクとニューウェイヴはどんな位相にあったのか。文学とストリートはどう交差したのか。「コラージュ手法を生んだのはコピー機の進化」などなど、当事者にしかわからないディテールが次々出てくるのが刺激的です。と同時に、そこにあるアイデアのほとんどが商品化されていることに愕然としたりも。ただバスキアのカリスマは、いまもそれを超越する自由さを放っています。
ライアン・クーグラー監督が『ロッキー』シリーズのスピンオフとして『クリード』(2015)を発表したときには、使い切ったフランチャイズをまだこんなふうに再生できるのか、と新鮮な驚きがありました。この続編ではクーグラーが監督から降り、彼らしい端正さはなくなったものの、脚本をドラマ『ルーク・ケイジ』のチェオ・ホダリ・コーカーが担当。さらにスタローンも脚本に加わって、オリジナルが持っていた熱いいなたさもよみがえりました。まあでも、結局マイケル・B・ジョーダンとテッサ・トンプソンが並ぶだけで無敵なのでは。こんなにセクシーでかっこいいボクサーとシンガーなんて、まさに夢カップルです。話の主軸は以前ロッキーに敗れた旧ソ連のボクサー、ドラゴの息子がクリードに挑むリベンジ・マッチ。筋書きはほぼ予想通りに進むものの、だからこそオーソドックスな物語に加わったアップデートが光る。私はクリードの育児シーンにやられました。テッサ演じるシンガーのサイドストーリーももうちょっと見たかったところ。音楽は前作に続き、チャイルディッシュ・ガンビーノの相方、ルドヴィグ・ゴランソン。
人は外見で判断されるけれど、自己像はまた別物。結局はセルフ・エスティーム=「私ってイケてる」という気持ちをどう持ち、更新していくかが大事なのです。そのプロセスをテーマにした、イケてるエンパワメント・コメディ。エイミー・シューマー演じるレネーは見た目に自信がなく、仕事でも恋愛でも積極的になれない。なのにある日、ジムで頭を強打すると、突然ナイスバディの美女に変身するのです! 普通のコメディならいわゆる「入れ替わり」や特殊メイクが登場するところですが、レネーはレネーのまま、美女として振る舞いはじめる。それによって笑いとともに、「美醜じゃない、セルフ・イメージ次第なんだ」という主張が鮮やかに表現されるのです。そのあとのドタバタも、エミリー・ラタコウスキーらゴージャスな女たちが吐露するコンプレックスも、リアルな状況に答えを出す姿勢が素晴らしい。「世間とはそういうもの、しょうがない」という日本的なメッセージは見当たりません。女性が見るとポジティヴになるのはもちろん、男性にも見てほしい。レネーの恋人役なんて「いま求められるのはこういう彼氏」みたいな男性像だったりします。ルッキズムの呪縛を解く一歩として。