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森は生きている 森は生きている (P-Vine) by SOICHIRO TANAKA
JUNNOSUKE AMAI
October 10, 2013
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森は生きている

未来、それは深い霧が立ちこめる無数の過去の集積の中から、
再生という青空に向けて一直線にそびえ立つ雄々しき尖塔

ハイハットのカウントに導かれて、ひとつめのコードが鳴った瞬間にほのかな戦慄が走る。抑えた3連のリズムに乗せて、ビロードの手触りを持ったテンション・コードがひとつ、またひとつと紡がれていって、次第に形作られていく淡い虹色のタペストリー。たった2分43秒の間、ほぼリフレインらしきものはない。ヴァース、ブリッジ、新たなヴァースと、ゆったりと、だが、次々と曲は進行していく。コーラスらしきパートが始まったと思いきや、やおら唐突に終わる。すべてを何よりも雄弁に語る余韻がそれに続く。イントロもなければ、アウトロらしきアウトロもない。常套句的なポップスの構成をまったく無視した完璧なポップス。アルバム冒頭の“昼下がりの夢”、もうこの1曲だけで十分だろう。今ここは新時代だ。

サウンドは至極乱暴に言うなら、アメリカーナ。60年代と70年代をまたぐ時期のサザン・ロック、ソフト・ロック/チェンバーポップを基調にして、さまざまな語彙が「2013年のポップ・ミュージック」として縦横無尽に交錯している。ハモンド・ソロに導かれて、勇壮なトランペットの響きが聞こえてきた時、思わずはたと考え込んでみる。はて、ここはどこだ? これは、ありきたりな日常の中で、一瞬にして辺り一面を包み込んでしまう40分間の白昼夢。だが、このレコードが鳴っている間だけは、確かにこの武蔵野の部屋はどこか時空を超えた場所に変わる。構築的なソングライティングと、そこに縛られることのない自由度のある演奏。芳醇なサウンド・ヴォキャブラリーが惜しみなく駆使され、日本語の響きと音節の美しさを証明していく。リリックはいまだしかるべき語彙を探しながら、固有のスタイルを試行錯誤している段階ではあるものの、新たなイメージの扉にしっかりと手をかけている。ディレッタント的感性を突き詰めた膨大な音楽的知識、幾度となく繰り返されただろうセッションから育まれた確かな演奏力に支えられているにもかかわらず、演奏と録音はお行儀よく収まってはいない。ヤング・ソウル・レベルとしてのやんちゃさが耳に眩しい。実際、このアルバムを前にして、興奮と驚きを感じずにいるのは本当に難しい。きっと佐野元春先生なら、こう言うね。素敵じゃないか。

すべての音楽的な記憶はネットを介して並列になってしまった? いやいや、「ぶれることのない固有の歴史認識」という羅針盤さえあれば、すべてを飲み込んでしまいそうな膨大なバックカタログが眠る音楽的記憶という大海原には、こんな風に確かな航路がくっきりと浮かび上がる。ポップの新天地に辿り着くことが出来る。我々の音楽的な未来は、過去という捨て場所に困るゴミで溢れたディストピアなどではない。このバンドは見事にそれを証明している。そう、未来とは、深い霧が立ちこめる無数の過去の集積の中から、再生という青空に向けて一直線にそびえ立つ雄々しき尖塔だ。

意識的に封印された名曲“New World”の中で、ミイラズが「音楽性が進歩してないと思うんだ」と、この国のポップ音楽の惨状を憂いでいたのは今は昔。時代はすっかり変わった。このアルバムは、ここ数年の内に、この国には90年代初頭の渋谷系~98年世代以来の豊饒な音楽文化が花開くだろうことを予見する、もっとも最適なサンプルだ。ここ10数年の間の、くるりの孤軍奮闘っぷりもようやく報われるに違いない。2013年の日本のポップ・シーンの最前線はここにある。

現実とは日々の営みの積み重ねによってだけ培われるものではない。キテレツな空想、ファンタジックな想像力、ありえないアイディアこそが現実をダイナミックに変革する起爆剤たりえる。新たな想像力だけが、新たな表現だけが来るべき現実を予見し、準備するんだよ。現実なんて、それを後から追いかけていく程度のもの。そんなもの気にしてられるか。現実の映し鏡以上でも以下でもない表現など、今すぐドブに捨ててしまえ。表現は、想像力は、現実の悲しみを糧にして、これから先の喜びを描き出し、未来をぐいぐいと牽引していく。この、森は生きているの1stアルバム『森は生きている』が描き出した今はまだどこかフラジャイルで消え入りそうな世界に共振した、新たな感性と想像力が確かな未来を作っていくだろう。泡沫と消える定めの夢は、時として大輪の花を咲かせることを、これまでの歴史が証明している。

文:田中宗一郎

20世紀音楽の水脈を継ぎ、日本語ロックに
新たな息吹をもたらした、純音楽精神のみずみずしい結晶

『ユリイカ』の頃か、ジム・オルークがインタヴューで「second generation Americana」という言葉を持ち出していたことが印象深い。その対象としてオルークは、チャールズ・アイヴズ、ヴァン・ダイク・パークス、ジョン・フェイヒィの名前を挙げて、自身の作品、ひいては音楽愛の形成にまで影響を与えた彼らの偉大さについて語っていた。当時のオルークは、それまでの即興やコラージュを多用した実験的な作風とは趣を変え、まさにルーツ音楽やアメリカン・ポップスの伝統的な作法を露わに打ち出し始めた時期にあたる。件の作品は、つまりオルークが自らを「third generation Americana」と位置付けた作品と受け止めることができるものだった。

森は生きているの演奏を初めて観たとき、思い出したのがこのオルークの言葉だ。正確には、その会に題された「ぼくら、20世紀の子供たちの子供たち」というフレーズが彼らへの興味を強く喚起させた。森が奏でる響きの豊かさとは、オルークに準えるなら、個人的な音楽体験を音楽史的な連続性において捉えようとする造詣の深さ、と言い換えることができるかもしれない。それも、たとえばその日対バンだったもう一組の子供たちの子供、失敗しない生き方が雑多な音楽体験を雑多なまま編んだような凹凸感を魅力とするなら、森はもっとシームレスで体系化された音楽体験を感じさせる。メンバーが影響や愛着を公言する名前は、それを紐解くヒントを与えてくれるが、もちろん、森の音楽はレトロスペクティヴな好奇に止まるものではなく、いわば参照と参照の行間、系譜の余白にこそ独創の妙味が宿るものであることは言うまでもない。

アルバムの中でもとくにお気に入りが、6曲目の“ロンド”だ。ギターのアルペジオとシェイカーが和やかに併走する導入部から、鍵盤がやおら主張を始め、ラッパも交えた賑々しい合奏へとクレッシェンドしていく終盤へ。コントラストの美しい曲構成は“光の蠱惑”も同様だが、途中挿入されたユーモラスなノイズがささやかな印象を残す。70年代ウェスト・コースト・サウンドとモダン・アメリカーナ、さらにはチェンバー・ミュージックのデルタを示すようなサウンドからは、ウィルコやガスター・デル・ソルの反響に交じって、ベイルートやアイアン&ワインとの共鳴も聴こえてくるようだ。あるいは、サンバやアフロ・キューバンの熱気も含んだリズムに、メンバーの別プロジェクトである發展の“Theme”とエキゾチカを重ね聴くこともできるかもしれない(余談だが、發展の“#1”の奇想めいたコラージュはフェイヒィの“Requiem for Molly”を彷彿させる)。他にも、“断片”のジャジーなポップ、“日々の泡沫”の滋味溢れるオルタナ・カントリーもいい。

昨年のEPの時点で円熟味すら漂わせていた森の音楽だが、本作は、それこそ次の子供たちの新たな参照先ともなり得るような、2010年代のクラシックに挙げられる一枚だろう。

文:天井潤之介

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