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MUTANT Arca (Traffic) by MASAAKI KOBAYASHI
AKIHIRO AOYAMA
November 20, 2015
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MUTANT

アーティストとしてのアルカの純度を高めた作品。
それを「突然変異」と名付けた真意とは?

グラニュラー・シンセシス。この音響合成手法によって生み出される音楽が、アルカの生み出す楽曲に、かなり近く聴こえるのでは? 不気味とか、なんかスゴいとか、そういう感覚的なものとは別のところにある、アルカのあのサウンドってなんなの、あれ? という、わだかまりに素直に応じて、探りを入れているなか、現状で、行き当たった先にあったのが、これだった。

グラニュラー・シンセシスとは、サンプリングの一種、ではあるものの、サンプリングされるのは、千分の一秒から500分の一秒ほどの長さの、音の粒、というか、音の顆粒(ほぼマイクロ・サウンド)。で、それらは、現実的には、音ですらない。そして、その音の顆粒の集合体を並べ替えたり、プレイバックする際にスピードや位相や周波数等を操作することで、サウンドスケープ的な広がりを生み出したり、逆にピッチを上げることで、極端に凝縮され(たような)予想もつかない、新たな音色が突如、生じることになる。

生きているような、とか、音の生命体、等という表現は大げさだとしても、一曲内で、何かしらのきっかけで特定の音が、複雑怪奇な速度で、多種多様に生成/増殖してゆくような『ゼン』でのアルカのサウンド・プロダクションに慣れてしまった今となっては、この音響合成手法の先駆者であるオラシオ・バッジオーネによる“Agon”(1998年)やカーティス・ローズによる“ハーフ・ライフ”(1999年)等を、好奇と納得が入り混じった気持ちで聴くことが出来るのではないだろうか。また、YouTubeには、この手法をわかりやすく伝えようとしたのか、白鳥の湖(チャイコフスキー)のオルゴール版に、グラニュラー・シンセシスを施したものまでアップロードされているし、彼らの作品の祖型と言われている、クセナキスによる1997年の“Analogique A + B”の場合、まだデジタルではなく、テープを使って作られたものではあり、ストリングスがメインなので、感覚的にも馴染みやすいかもしれない。

とはいえ、実際のところ、アルカが、どこまで、このグラニュー・シンセシスという手法を意識しているのかどうか、全くわからない。それに、音色の面だけをとっても、先行者たちのそれに比べ、随分洗練されているし、位相や残響にも、こだわりまくっている。

そこまでを踏まえて、本作を一通り聴いてみると、前作『ゼン』において、1曲内で展開する、アルカなりのストラクチュアが確立されていたことがわかる。というのも、今回のアルバムでは、基本的に、主眼は(ストラクチュアそのものは変えることなく)テクスチュアの差別化に向けられているように聴こえるからだ。そして、サンプリングされている音そのものが、例えば、人の声や歌の一部なのか、チェンバロなのか、ピアノなのか、ギターなのか、それとも、テクスチュアとして、それらの音が聴こえている(ような気がしている)だけなのか、一瞬おぼつかなくなってしまう。そんな瞬間が、あちこちに潜んでいるのが、本作の面白さであるし、アルカ独自のスタイルが畳みかけられるように表現されているとも言える。

テクスチュアの差別化に集中したことは、前作における“シーヴェリー”のような、ダンスあるいは既存のビート(あの曲の場合、タラショ)に直結してしまうような曲を、今回のアルバムからは、完全に排除したことからも見て取れる(勿論“シーヴェリー”は、ダンス・ビートとしては、あまりに魅力的だが)。そこまでの集中が、アルカの禁欲なのか、貪欲なのか、よくわからない。が、ミュージック・ヴィデオ(MV)にしても、圧倒的にアルカ自身の「姿態」を曝け出す映像にシフトしている。前作までは、それこそ、グラニュラー・シンセシス的な、と形容出来る映像表現をメインにし、「ゼン」というクリーチュアを出現させ(自らの理想を仮託? し)ていたことを思い返すと興味深い。

そうなると、アーティストとしてのアルカの純度をより高めたとも言えそうな本作に、敢えて『ミュータント』と名づけたのは、単なるおふざけなのかもしれない。ただし、クセナキス(故人ではあるが)や、グラニュラー・シンセシスによる作品作りに邁進している作曲家たちからすれば、こんなにポップな作品を作り上げてしまうアルカのことを「ミュータント」と呼ぶ以外ないのかもしれない。

文:小林雅明

他との関わりを通して絶えず変容していく人間存在の美を
エレクトロニクスに刻む、極めて人間的なアート・フォーム

アルカことアレハンドロ・ゲルシは、本作の発表に先行して“ソーイチロー”、“エン”、そして“ヴァニティ”の3曲のヴィデオを公開している。それらは全てアルカ自身が制作しており、本人出演の粗く生々しい映像が収められた、エロティックでフェティッシュな代物だった。特に“ヴァニティ”のヴィデオに至っては、アルカのボーイフレンドであるダニエル・サンウォルドが手持ちカメラを回しており、アルカと彼の生活を性的な面も含めて覗き見るような、極めてパーソナルでインティメイトな仕上がりとなっている。これらのヴィデオを見る限り、長年のコラボレーターであるジェシー・カンダがディレクションを務めた前作『ゼン』以前のハイファイで近未来的なヴィデオ群と比べると、本作での表現ベクトルは全く真逆を向いているようにも思える。

タイトルになった「ゼン」が、彼の中のジェンダーを超越したオルター・エゴを指し示す言葉だったことからも伝わるように、前作はアルカが自身のインナースペースへと深く潜航して作り上げたとても内的な作品だった。一方で、本作は「ミュータント=変異体」というタイトルにもある通り、外部との関わりを通してたゆまず変容していくアルカの意識の流れをサウンドにしたかのようなレコードと言えるのだろう。ジェシー・カンダのミドルネームから名づけられた“ソーイチロー”や、出身国ベネズエラの母国語であるスペイン語で「感謝」を意味する単語を冠した“グラティチュード”といった楽曲のタイトルには、自身の現在を形成してきた周囲の人々への思いが込められているのだろうし、“シナー”=罪人、“アンガー”=怒り、あるいは“ファゴット”=ゲイへの蔑視的呼び名といったタイトルには人間存在の持つ負の側面も刻まれている。

ただ、それらが対立項的なコントラストで描かれるのではなく、あくまで渾然一体のものとして小宇宙的な世界観を形成していることが、アルカの創出する音楽の凄みに違いない。人間の感情が喜怒哀楽の4種類で完璧に分別できるわけではなく、その狭間で多様なグラデーションを描いているのと同じように、アルカの音楽も様々な音像が対立や共存、調和を織り成しながら短いスパンで絶えず変化を遂げていく。アルカのことを、「エレクトロニック・ミュージックの未来」や「ポスト・インターネット時代の象徴」と見る向きは多いだろう。勿論、それらは全て間違いではないのだが、僕にとってアルカの音楽は、常識や理性で測る美醜を超えたところにある、人という生命の複雑に入り組んだ美しさをエレクトロニクスによって表現しているという点で、極めて人間的なアート・フォームに思えてならないのだ。

文:青山晃大

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