ローレル・ヘイローが昨年リリースしたデビュー・アルバム『クァランティン』。そのアートワークに飾られた会田誠のイラストは印象的だった。『ハラキリ・スクールガール』と題された原画のタイトル通り、切腹や介錯する女子高生が一枚絵の中に犇めき合うその少女たちの群像は、同時に、“彼女たち”を連想させた。その“彼女たち”とは、時期を前後して台頭を見せたエレクトロニック・ミュージックの女性アーティストたちのことだ。グライムス、ジュリア・ホルター、ゾラ・ジーザス、マリア・ミネルヴァ、ジュリアナ・バーウィック……そして〈ノット・ノット・ファン〉/〈100%シルク〉を主宰するLAヴァンパイアズことアマンダ・ブラウン。2010年代以降も活況が引き続くUSアンダーグラウンドから大挙浮上した“彼女たち”は、ラップトップやMPCなどハードウェアにハンド・マイクを携えたDIYなスタイルで、そこにシーンと呼べるようなある種の様式を現象化させた。
もちろん、それは“彼女たち”によるオリジナルというより、たとえばローリー・アンダーソンやビョークの面影を彷彿させ、それこそドリス・ノートンやスザンヌ・チアーニといった女性電子音楽家の遺産にルーツや背景を辿れるものだろう。しかし、そうした“彼女たち”の台頭は、かたや同時期に台頭したチルウェイヴが男子優勢的なシーンだったのとは対照的に、少なくとも現代のエレクトロニック・ミュージックの文脈にもうひとつの極を作り出した点で重要なことに思われる。そして、血飛沫や臓物のグロテスクな描写とは裏腹にあの絵の少女たちが浮かべる恍惚や愁いの表情は、荒々しいノイズやハードなダンス・ビートを纏いながら、“彼女たち”が紡ぐシンセの多彩な音色と美しいメロディ、あるいは情感の豊かなヴォーカル/コーラスとシンメトリーな関係を呈していた。
さて、ヘイローの〈ハイパーダブ〉から2作目となるニュー・アルバムの『チャンス・オブ・レイン』だが、作品を聴いてまず気付かされるのは、デトロイトやイギリスのテクノに影響を受けたというミニマルでヘヴィなビートやエディットもさることながら、やはり彼女のヴォーカルが完全に排除されていることだろう。こうした方向性は、ベルリンのミニマル・シーンからの影響も窺わせた先行EP『ビハインド・ザ・グリーン・ドア』の時点で示され、本作はそれをさらに突き詰めたものといえるが、とはいえ、『クァランティン』のイメージ、それに代表曲の“ストレングス・イン・フリー・スペース”や“スーパーシンメトリー”で聴けたディスコ歌謡、バーウィックさながらのヴォーカル・ワークからすれば、これは大きな驚きに違いない。
もっとも、これまでもヴォーカルは使われど、初期に〈ヒッポス・イン・タンクス〉からリリースされた『キング・フィリックス』や『アワー・ロジック』、あるいはアンビエントなコラージュを散りばめた〈NNAテープス〉の『アンテナ』においてさえ、ヘイローの主眼はあくまでビートのプロダクションと、それとシンセ・ラインやサンプルを組み合わせたサウンドのテクスチャーにあり、そもそも『クァランティン』以前のライヴはインストゥルメンタルのみで歌うことなどほとんどなかったと聞く。そして、『クァランティン』以降のツアーでは即興を中心としたステージが意識的に組まれ、そのライヴ用のセットと機材がそのまま本作の制作には持ち込まれたそうだ。つまり、そうしたツアーの経験をスタジオにフィードバックさせながら、結果的に初期のスタイルへと回帰することで(いわばソング・オリエンテッドな『クァランティン』に対して)ダンス・オリエンテッドな発展を遂げたのが本作、ということができるかもしれない。
最近のヘイローの発言で興味を引いたのは、それは「歌う」ことでその歌詞が書かれた時の気持ちや場所に連れ戻されたくない、というものだった。『クァランティン』制作時の彼女がタフな状況に置かれていたらしいことは当時のインタヴューでも語られていたが、先頃カヴァーを飾った『ワイヤー』の記事で彼女は、『クァランティン』の歌詞自体はフィクションであると断った上で、自分がヴォーカルを使うのはあくまで機材では作り出せないサウンドを表現するため、と語っている。ともあれ、彼女が選択したアプローチは、先に名前を挙げた女性アーティストたちの多くが作品を重ねるごとにヴォーカルの比重を増し、歌へと傾倒を深めていくのとは対照的で興味深い。
ヘイロー自身が「アンビエント/アブストラクト・テクノ・レコード」と呼ぶように、本作が打ち出したカラーはシンプルで鮮明だ。しかし、同時に本作は、彼女が辿ったキャリアやルーツを炙り出すような多様性も見せる。たとえば、アシッド・ハウスに〈ソフトウェア〉周辺のニュー・エイジなシンセ・アンビエントが塗された“アインノーム”は、彼女が過去にワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのダニエル・ロパティンとジョエル・フォードのユニット、ゲームスと共演を果たした繋がりを思い起こさせるかもしれない。あるいは、“メルト”のミュージック・コンクレート風アブストラクトを締めくくるクラリネットのスピリチュアルな響きに、地元ミシガンのアリス・コルトレーンの作品へと想像を馳せることも可能だろう。あるいは、“セレンディップ”に脈打つハーシュなノイズ、随所に散見できるインダストリアルな手触りは、彼女がウルフ・アイズとも同郷である事実に気づかせてくれる。実際、昨年には別名義のキング・フェリックスとしてバーニング・スター・コアやピート・スワンソンとスプリット盤を制作するなど、ニューヨークの〈ノー・ファン〉界隈やポスト・インダストリアルとも一脈通じる彼女である。いや、そもそも本作を動機づけた「即興」という発想自体、キャリアを始める以前に大学のインプロ系ジャズ・グループで活動していた彼女にとっては身体に染み付いたものといえ、それこそフリー・フォームなスタイルへの順応性は、ロパティンやジェームス・フェラーロらと共作した『FRKWYS Vol. 7』(2011)においても証明済みだろう。
であるからこそ、もしもここに彼女のヴォーカルが組み合わされたらどんな音楽が生まれていたのか……という思いが、本作に対する評価とは別に残らないでもない。たとえば、彼女も共感を寄せるベルリンのホリー・ハードンが昨年リリースしたデビュー・アルバム『ムーヴメント』における、ヴォーカルとテクノロジーの融合の野心的な試みを聴いた後では、その思いはなおさら募る。ともあれ、それが変化や進化することを求めた結果である以上、彼女の選択を最大限に評価したい。
ローレル・ヘイローのことを初めて知ったのがいつだったか、はっきりとは覚えていないが、おそらく2010年のコンピレーション・アルバム『レット・ミー・シャイン・フォー・ユー』だっただろうか。ウィッチ・ハウス(……覚えてますか?)なるジャンルの発信地となったレーベル、トライ・アングルからリリースされたこの作品は、当時薬物所持などの罪状で収監されていた女性歌手のリンジー・ローハンに捧げられたもので、オート・ヌ・ヴやワンオートリックス・ポイント・ネヴァーといったアーティストに混じって、ローレル・ヘイローもリンジーの“サムシング・アイ・ネヴァー・ハド”のカヴァー(というか再解釈)で参加していたのである。アルバムにはご丁寧に“これはリンジーの釈放を願うものではありません”という但し書きまで添えられており、まったくもってタチの悪い冗談と言うしかなかったが、参加アーティストの中でローレル・ヘイローが唯一の女性だったということも、彼女に対する“魔性の女”的なイメージを助長させていたのかもしれない。もっとも、エイフェックス・ツインや電気グルーヴを例に挙げるまでもなく、この種の露悪趣味、というかブラック・ユーモアは、古くからテクノ・ミュージックにつきものだった。ただし、先に名前を挙げたようなアーティストの場合は、それが幼児性の発露として聴き手にファニーな印象を与えるのに対し、ローレル・ヘイローの音楽からはもっと成熟した、周到な悪意のようなものが感じられるのである。端的に言えば“笑えない”のだ。
そんなイメージは、昨年〈ハイパーダブ〉からリリースされたアルバム『クァランティン』のアートワークに会田誠の「切腹女子高生」を使用していたことによって決定づけられるのだが、そこへ来て本作『チャンス・オブ・レイン』のこのアートワークである。もはや不快感をもよおすほどだが、しかしそこには、意外な事実が隠されていた。ジャケットのアートワークは画家である父親から彼女に渡されたもので、グスタフ・マーラーの交響曲第2番“復活”がモチーフになっているというのだ。それはしばらく部屋の壁にかかったままになっていたが、彼女はいつかその画にふさわしい音楽を作りたいと思っていたそうで、本作でようやくそれを形にすることができたというわけだ。アンビエント・ポップ風だった前作から一転、本作では自身によるヴォーカルを排し、ライヴ・トラックを再構築したアブストラクトなテクノへと変貌を遂げているが、それは決して新機軸というわけではなく、デトロイトの隣町アナーバーで生まれ育った彼女にしてみれば、むしろ慣れ親しんだ、懐かしさを伴うものだったに違いない。そんなアルバムの冒頭と最後には、エルガーの“エニグマ組曲”を意識したというエレクトリック・ピアノによる小曲が配されており、大部分がプログラミングによって制作された本作において、数少ない人間味を持って機能しているが、ハードなマシーン・ビートの中から、彼女が幼い頃に学んでいたというクラシック・ピアノのフレーズが甦ってくるようなタイトル曲は、間違いなくアルバムのハイライトだと言えるだろう。
だが、そういった背景がありながらも、ローレル・ヘイローの音楽は決してノスタルジーに流されることはなく、むしろ安っぽい感傷を徹底して排除しているようなストイックさがある。そこが彼女の知性でもあり、また底意地の悪さでもあるのだが、お世辞にも趣味が良いとは言えない彼女の作品から目を背けることができないのは、リンジー・ローハン同様に、決してお行儀がいいだけでは終わらない邪悪な本質のようなものを、彼女が抱えているからなのだろう。