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WHITE WOMEN Chromeo (Warner) by YOSHIHARU KOBAYASHI
MASAAKI KOBAYASHI
June 03, 2014
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WHITE WOMEN

アーバン&メロウなディスコ・ファンクを偏愛してきた二人が、
時流を察知し、それを鮮やかに乗りこなして作り上げた最高傑作

エレクトロクラッシュ~エレクトロの文脈と緩やかにリンクしつつも、ジャスティスやデジタリズムのようにシーンのど真ん中で脚光を浴びることはない。主役というよりは脇役。かつてのクローメオに対する一般的なイメージは、おおよそそういったところだろう。なにしろ彼らが探求していたのは、80年代のエレクトロ・ファンク、ブラコン、AOR、ディスコ・ブギーと呼ばれるような音楽。ある時期からヘヴィ・メタル化が一気に推し進められ、暴力的なサウンド一色となったエレクトロの世界において、クローメオのセクシーでメロウで洒脱な音楽性が肩身の狭い思いをしていたのも無理はない。だが、世の中の流れはすっかりと変わった。この二人組は、今や時代の先端へと躍り出ようとしている。

ダフト・パンクの『ランダム・アクセス・メモリーズ』を筆頭に、ファレル・ウィリアムスのソロや一連のプロデュース・ワーク、ジャスティン・ティンバーレイクやブルーノ・マーズのオールドスクール志向、更に言うとトロ・イ・モアやパラ・ワンのアーバンなファンク・ポップ化など――ここ一、二年の間に登場した作品によって、80年代ディスコ/AOR再評価の空気が広く共有され始めているのは間違いない。おそらくは、日本におけるアーバン&メロウなシティ・ポップ再評価も、この流れと決して無関係ではないだろう。そして、つまるところそれは、クローメオが10年以上前から偏愛してきた音楽に、ようやく世間も光を当て始めたということでもある。

約4年ぶりの新作となる『ホワイト・ウィメン』は、この好機を逃してなるものか、と言わんばかりの気合の入り様だ。ソングライティングに関しては、間違いなく過去最高の充実度。とりわけ、元LCDサウンドシステムのパット・マホニーが参加した“セクシー・ソーシャライト”から始まる前半4曲の勢いたるや凄まじい。いかにもクローメオなファンク・ポップの連続だが、そのサウンドは驚くほどキャッチーで洗練されていてビッグ。決して悪い意味ではなく、そこには彼らの野心が漲っている。後半はやや息切れする嫌いがあるものの、80年代パワー・バラードのような“ロスト・オン・ザ・ウィイ・ホーム”や、アトモスフェリックなシンセ・ポップの“オールド・45s”など、聴きどころは少なくない。また、前作に続いての参加となったソランジュを始め、ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラ・クーニグやトロ・イ・モアといった、ゲスト陣の人選も的確。今回はスケジュールの都合で実現しなかったらしいが、ハイムにも声を掛けていたという事実からも、クローメオが現在の自分達が置かれたポジションとそこでやるべきことをしっかりと把握しているのが窺えるだろう。

流行り廃りに左右されることなく、5年後も10年後も変わらず80年代マナーのエレクトロ・ファンクを続けていくであろうクローメオだが、今がひとつの勝負時であるのは間違いない。そして、それを敏感に嗅ぎ取り、最高傑作と呼ぶにふさわしい作品を作り上げたのは称賛に値する。本作はアメリカで初登場11位という見事な記録を叩き出したが、それも全く不思議ではないだろう。時代の波が来たことを察知した彼らは、それを自らの意志で更に引き寄せ、鮮やかに乗りこなすことで見事に浮上してみせたのだ。

文:小林祥晴

ディスコ/ブギー“再発見”の動きともリンクしつつ、独自の
ファンクを探求してきたデュオによる、更なる自分らしさの追及

裏をかいている、つもりはないはずだが、このクローメオの新作は、ダフト・パンク、ファレルあるいはダック・ソース(や、もしかしたらカイリー・ミノーグ)なんかのアルバムと一緒くたに語られにくい内容となっている。そもそも、クローメオはアルバム・デビュー時から、周囲がまだエレクトロクラッシュを引きづっている中、平然とファンクを打ち出していたのだ。彼ら自身、2枚目でのブレイクは、当時普及中だったブログのサポートなしには考えられないと語るが、ディスコ/ブギーとよばれる“再発見”の動きもまた、同時期にブログにより加速され、クローメオもその枠の中で取り上げられた。この“再発見”は、平たく言えば、なぜかバカにされがちなディスコ・ミュージックの中から、極上のファンクを発掘し、既存の評価を書き換えてゆく作業だ。2009年に発表された、『DJキックス』のミックステープ・シリーズでクローメオの二人が担当したイタロ・ディスコで始まる盤の選曲の一部は、ディスコ/ブギー的な価値観に基づいていた。

キーボードやシンセを主体とした彼ら自身が作る音楽そのものは、そういった“再発見”されたファンクを含んだ上での、むしろ、大枠でのファンクに準拠している。しかも、エレクトロニック・ファンクと呼ばれた。一方、件のディスコ/ブギー的な発掘対象は、エレクトロ・ファンク登場寸前までの楽曲にほぼ限られている。クローメオは、今聞き返すと、試行錯誤ぶりが如実なデビュー作を経て、次の二枚で、ザップ/ロジャーでお馴染みのトークボックスが、いかに自分達のファンクに必要不可欠なのかをリスナーに強く印象づけることに成功している。エレクトロ・ファンクを根幹に据えたエレクトロニック・ファンクというわけだ。

とはいえ、通算3作目に当たる前作では、前半ファンク後半歌ものという構成をとり、決して自分達のスタイルに安住しなかったし、“J'ai Claque La Porte”に至っては、母国語がフランス語とはいえ、あのクローメオが、なぜヴァリエテ(=フランスのチャートに入ってくる歌もの全般)みたいのを演ってるの?的な違和感というかインパクトをもたらした。それに比べると、本作はアルバム全体がほぼ同一のトーンで統一されているようにも聞こえる。そして、気がつけば、トレードマークとも言うべき、あのトークボックスはいったいどこに?(出てはくるけれど)というほどの扱いだ。その一方で、今クレジットを見て初めて気づいたのだが、80年代のエレクトロ・ファンクを語る時には欠かせないエムトゥーメイの女性ヴォーカリスト、タワサ・エイジーが4曲で関わっている。エレクトロ・ファンクの内包の仕方がこれまでと違ってきている。

前作までは、例えば、シンセの音色をイタロ・ディスコで使われていたものと同一のものにしつつも、楽曲の構成込みで、自分達のファンク・スタイルで押してゆくのが基本だったが、例えば、6曲目の“プレイ・ア・フール”は、逆に、イタロ・ディスコの楽曲構成を初期設定にして、そこに乗っていくようなスタイルになっていて、そのやり方は、そのすぐ前の“ロスト・オン・ザ・ウェイ・ホーム”でも同じだ。こっちの曲では、クローメオがエレクトロニック・ファンク・デュオとして知られていることを忘れてしまうほど、デイヴ・ワンの歌声が、往年のF.R.デイヴィッドあたりのそれと重なり、80年代ユーロ・ディスコ/シンセ・ポップ・サウンドとの相性の良さが感じられる。そこに、7曲目も加えれば、全盛期のF.R.デイヴィッドの曲がAORとして聴かれたのと同じように、今後の彼が扱われるかもしれないポテンシャルもうかがえる(もっとも、ディスコ~AORとして聴かれた過去を持つダリル・ホール&ジョン・オーツとの共演もクローメオは既に見事にモノにしているわけだが)。が、そんな単純すぎる連想だけでリスナーを満足させない。続く、8曲目のインタールードでは、ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラ・クーニグのファルセットを聞かせた後に、デイヴ・ワンが少しだけ歌う趣向になっている。この振り幅の聞かせ方(利かせ方)は面白い。さらに、続く9曲目は、時代の流れに乗せられて非ファンク・アーティストが演ってしまったシンセ・ポップをクローメオなりに演ってみたようなフシもあり、ギターのパート込みで、なかなか愉快だ。

アルバムは、この後、従来までの彼ららしいサウンドに戻って幕を下ろすが、恐らくは、本作の聴きどころであるはずの、上に書き出した中間部から伝わってくるのは、クローメオとしては、自分達が持っているもの(今回は、特に歌声か)に完全にフィットしたものは何なのか、まだまだ追究中!ということになるだろうか。

文:小林雅明

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