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THE COLOUR IN ANYTHING James Blake (Universal) by YUYA WATANABE
MASAAKI KOBAYASHI
September 02, 2016
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THE COLOUR IN ANYTHING

ついにエレクトロニクスとヒトの境目はなくなったのか?
ジェイムス・ブレイクが提示する、AR時代のサウンドトラック

思い出してみてほしい。かつての彼が今よりもはるかに孤立した存在であったことを。少なくとも筆者の知る限り、デビューした頃のジェイムス・ブレイクを取り巻く人脈は――活動初期の彼の最大のロールモデルであり、数少ない盟友であったマウント・キンビーを除けば――決してにぎやかなものではなかった。当時、英国ベース・ミュージックの若きヒーローとして注目されたジェイムスは、いま思えば世間のそうした見方に居心地の悪さを抱えているようだったし、実際に彼は(エアヘッドことロブ・マックアンドリューズが1曲だけギターで参加したことを除けば)すべての作業をたったひとりで担い、EP『CMYK』の段階でクラブ・カルチャーから期待されていたものとは趣の異なるデビュー・アルバム『ジェイムス・ブレイク』を完成させている。

「未来が聴こえるか」。あのアルバムの国内盤にはそんなキャッチ・コピーが付けられていたが、たしかにジェイムスがあそこで鳴らしていたのは未知のサウンドであった。しかも、それはポスト・ダブステップ的な音像をより先鋭化させたものというよりは、むしろ「歌」に焦点をあてたもので、多重録音による幾層ものレイヤーと、オートチューンの揺らぎを駆使したその歌声は、生身では表現出来なかった悲哀を見事に浮かび上がらせていた。いうなればそれは、エレクトロニクスとヒトの境目がなくなった時代のヴォーカル・ミュージック。『ジェイムス・ブレイク』のあたえた衝撃は、まさに「歌」の未来を変えるものだったのだ。

さて、2011年にはその『ジェイムス・ブレイク』と並ぶ重要作がもうひとつ、アメリカのウィスコンシン州で生まれている。言うまでもなく、それはボン・イヴェール=ジャスティン・ヴァーノンの2ndアルバム『ボン・イヴェール、ボン・イヴェール』。というか、いちはやくヴォーカル加工装置を用いた歌唱表現を追求し、カニエ・ウェストのアルバムにも客演していたジャスティンの存在は、間違いなくジェイムスにもインスピレーションを与えていたはず。そして、この両者は早くもこの年に邂逅。ジェイムスのEP『イナフ・サンダー』の収録曲“フォールズ・クリーク・ボーイ・クワイア”で、双方が加工した歌声によるデュエットを果たしている。

このあたりから、ジェイムスは次々とコラボレーションに臨んでいくのだが、その相手のほとんどは出自とされた英国シーンの人脈ではなく、ヒップホップ/R&Bの前線で活躍するアメリカの音楽家たちであった。それは、前作『オーヴァーグロウン』の収録曲“テイク・ア・フォール・フォー・ミー”でフィーチャーされたウータン・クランのRZAは勿論のこと、(結果としては“ライフ・ラウンド・ヒア”のリミックス版のみにとどまったものの)一時はオリジナル音源を共同制作していたというチャンス・ザ・ラッパー然り、新作『レモネード』の1曲“フォワード”でジェイムスをゲスト・ヴォーカルに指名したビヨンセ然り。こうして近年の動きを羅列するだけでも、現在のジェイムスがその標準をUSメインストリームに定めているのは明らかだろう。

斯くして、3作目のアルバム『ザ・カラー・イン・エニシング』は、現在の彼のポジションを明確に示した作品となっている。特筆すべきトピックはいくつもあるが、まずはフランク・オーシャンとの共作による2曲の寂静としたピアノ・バラッドだろう。2012年のアルバム『チャンネル・オレンジ』を振り返るまでもなく、フランクこそがここ数年のR&Bをリードしてきた人物であることはまぎれもない事実。あるいは、そんな彼のファルセット・ヴォイスとアンビエントな音作りが、ジェイムスの楽曲とも相性が良いであろうことは容易に想像出来ただけに、まさにこのコレボレーションは時代が呼び寄せた必然だったように思える。

そして、おなじく2曲を共作しているのが、再度のコラボレーションとなったジャスティン・ヴァーノンだ。ジェイムスによるヴォイス・ループを背景に、両者がファルセットを重ねていく“アイ・ニード・ア・フォレスト・ファイア”。そして、オートチューンを駆使したアカペラの歌唱が途方もない悲哀を醸し出すクロージング・ナンバー“ミート・ユー・イン・ザ・メイズ”。どちらも“フォールズ・クリーク・ボーイ・クワイア”を経由したうえでの成熟が見出せる、感動的な共演だ。

フランク・オーシャン、ジャスティン・ヴァーノン、そしてジェイムス・ブレイク。2010年代におけるヴォーカル・ミュージックの担い手ともいうべき三者が一堂に介した『ザ・カラー・イン・エニシング』は、現ポップ・シーンの中心でつくられた作品といっても過言ではない。あるいは、かのリック・ルービンを本作のエグゼクティヴ・プロデューサーに指名したのも、ジェイムスのそうした自覚の表れとも受け取れるし、実際にリックとの作業は、過去2作の密室感のある音像とはちがった、じつに開放的なサウンドスケープを本作にもたらしている。

一方、ジェイムス自身のソングライティングに何かしらの変化があったのかといえば、そうではなく、むしろ初作で打ち立てた先鋭的なスタイルを、よりソフィスティケイトさせたような印象だ。それゆえ、デビュー時のような衝撃こそ本作にはないが、それはリスナー側の感覚がここ5年で更新されたことの表れでもあるようにも思える。エレクトロニクスとヒトの境目がなくなった時代のヴォーカル・ミュージック――『ジェイムス・ブレイク』を指して、先ほど私はそんな表現を用いたが、もはやその時代は未来ではなく、まさに今なのではないか、と。AR(拡張現実)のようなことばが定着し、それこそ老若男女がスマートフォンでポケモンを探しまわっているようなこの世界を見渡していると、『ザ・カラー・イン・エニシング』はそんな時代のサウンドトラックのようにも響いてくるのだ。5年前にジェイムスが示した未来を、私たちはいま生きている。

文:渡辺裕也

どこまでもシンプルな傷心の言葉。その真意を解き明かす鍵は、
適材適所に選ばれたサウンドとの組み合わせや引用にあり?

1曲目の“レイディオ・サイエンス”が、ビル・ウィザースによる1971年の“ホープ・シール・ビー・ハピアー”を、ジェイムス・ブレイクなりに共感/咀嚼/表現したものであることよりも(ただし、本作発表後のライヴでは、純粋な「カヴァー」ヴァージョンを披露している)、3曲目の“ラヴ・ミー・イン・ホワットエヴァー・ウェイ”が、ダニー・ハサウェイによる1971年の“ギヴィング・アップ”に対して、同様にアプローチしたことに気づく人が多いかもしれない。どちらも、自分をフッた女性のことをあきらめきれない心痛を綴った曲だ。そして、ジェイムス・ブレイク自身も本作を、次のような歌い出しで始める。「こんなの信じられない、きみが僕に会いたくないなんて」。

通算3作目となる本作で大きく扱われているのは、失恋にまつわる哀しさや寂しさや喪失感だ。そして、それが当然の如く、“F.O.R.E.V.E.R”を除けば、決してストレートなピアノの弾き語りだけの表現では終わらない。今回、クレジット上では6曲にプロデューサーとして関わったリック・ルービンは、ブレイクにルーティンとして、45分即興でピアノを弾かせ、その中で、ここは、と思った部分をチェックし、そこに選ばれた中から最終的に残ったものが、本作で使われているという。ただし、その6曲中、ピアノが聞こえるのは、実は、前述の“ラヴ・ミー・イン・ホワットエヴァー・ウェイ”と“モダン・ソウル”の2曲のみだったりする。

一方、その中の1曲で、6分以上もある14曲目の“トゥー・メン・ダウン”では、犬の鳴き声のような音のループとメタリックなノイズと波のように寄せては返すストリングスと時を刻むようなビートの組合せだけでも奇妙で混沌としているが、「僕は27歳……」と歌われた次のラインからは、彼をフッた女性の主観で歌われているのではないだろうか? と思わせ、作品世界は、問題の女性に対して彼が一方的に語りかけるだけの世界にはなっていない。

波、と言えば、アルバムの中間部に出てくる、ブレイク自身の制作による“ウェイヴス・ノウ・ショアズ”には、「君には、波が岸を知るように、僕のことを知ってほしい」という、心に響く一節が出てくるが、ここでヴォーカルのエコーと共に空間を広げるような効果を担っている金管楽器、続く、フランク・オーシャンとの共作曲“マイ・ウィリング・ハート”でのストリングスと、どちらかといえば、クラシカル・ミュージック的な要素の援用かもしれない(もっとも、基本形が、ピアノと独唱なのだから、なんの飛躍でもないわけだ)けれども、同時に、前述のダニー・ハサウェイの楽曲のスタイルが強くインプットされていたのかもしれない。

さらに、クラシカルつながりで言えば、かつて、「ウィルヘルムの叫び」を引っ張ってきたブレイクらしく、音響/録音面においても、相変わらず、古風なスタイルを好んでいて、表題曲では、曲が進むにつれ、ショート・ディレイ等ではなく、敢えて、ダブル・トラックを使っている。これは前作の“レトログレイド”でも聴かれた手法だ。それが使われているこの表題曲で、彼が正直誰に歌いかけているのかよくわからないのだけど、一人ユニゾン的な、この手法から考えるなら、寂しげなもう一人の自分に対して、歌いかけている(「もしもある日目覚めたら、何も色がわからなくなっていたら……」)のかもしれない。

こうした聴き方になってしまうのも、ジェイムス・ブレイクの書く曲は、歌っている言葉(歌詞)がシンプルなため、その真意を追究するとなると、自然と音楽的手法との関係に耳がいかざるをえないからだ。その逆のパターンもあるだろう。例えば、今回の作品でも、オートチューン~ハーモナイザーの使用頻度が高い“プット・ザット・アウェイ・アンド・トーク・トゥ・ミー”は、創作上の行き詰った心理状態を曲にし、場合によっては、音楽(のミューズ)に語りかけているとも聴くことが出来るし、ラストの、ジャスティン・ヴァーノンとの完全コラボ作“ミート・ミー・イン・ザ・メイズ”では、「音楽が全てではない」(と同時に、音楽以上だと感じられるものの存在の大きさを、音楽でしか表現出来ない状態でもあるはず!)と何度となく歌われる。

これらが、偶然か必然か、リスナーの単なるこじつけかどうかわからないが、少なくとも聴くたびに、心に訴えかけてくる音楽であるところから言っても、ジェイムス・ブレイクが依然、新しきソウルの光と道であることは、間違いない。

(追記:本作収録の“オールウェイズ”は、フランク・オーシャンのアルバム『ブロンド』収録の“ゴッドスピード”中の二か所を引用している。)

文:小林雅明

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