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SOMETIMES I MIGHT BE INTROVERT Little Simz (Beat) by MINAKO IKESHIRO
TSUYOSHI KIZU
October 08, 2021
SOMETIMES I MIGHT BE INTROVERT

自分の内面を掘り下げる勇気あふれる4作目

『時々、私って内省的かも(Sometime I Might Be Introvert)』との、文学的でどこか第三者目線を感じるタイトルの4作目をドロップするのがリトル・シムズ。生まれも育ちもインナーロンドンのイズリントン区という生粋のロンドンっ子だが、ナイジェリア系移民の家庭で育ったため、さまざまな音楽を内包したヒップホップを奏でるアーティストだ。いくつかのミックステープを経て2015年の『A Curious Tale of Tials +Persons』でデビュー、音楽メディア、批評家筋から高く評価され続け、ケンドリック・ラマーは「the illest doing it right now」(いま、一番ヤバいラップをしている人)と少し重めのコメントを残している。前作『グレイ・エリア』でイギリスの各種アワードにノミネートされ(NMEアワードなどは受賞)、しかしチャート・アクションはいまひとつだった。誤解を恐れずに書くと、自分の音楽性を「エクスペリメンタル・ヒップホップ(実験的なヒップホップ)」と呼ぶリトル・シムズは、聴く人を選ぶタイプのラッパーだ。その代わり、ハマるととことんハマるので、「リトル・シムズ初心者」は心してクリックなり、CDプレイヤーのプレイボタンを押してほしい。

『サムタイム・アイ・マイト・ビー・イントロヴァート』のリリックを全部訳した。1曲あたりの言葉数が多く、新作で彼女の舌鋒はますます研ぎ澄まされているため、胃にズシンとくる仕事だった。使っている単語自体は非常に平易で、言い回しと曲のテーマで勝負している。オーケストラを起用した壮大なトラックに、個人的なトピックを載せているのが本作の特徴。4曲目“アイ・ラヴ・ユー、アイ・ヘイト・ユー”は幼い頃に家を出た父親に宛てた曲であり、続く“リトル・Q・パート1”と“リトル・Q・パート2”も間接的に父をテーマにしていて、父の不在がどれくらい応えたのか、ヒリヒリした痛みが伝わって来る。ただし、幼なじみで全曲プロデュースを担当したインフローの、多彩かつ広がりのあるトラックのおかげでアルバム全体は聴きやすい。1曲目“イントロヴァート”、スモーキー・ロビンソン“ジ・アゴニー・アンド・ザ・エクスタシー”を大胆に敷いた“トゥー・ワールド・アパート”や9曲目“スタンディング・オヴェーション”は2010年代前半のカニエ・ウエスト作品を思わせるスケール感にやられる。

ネットフリックス『トップ・ボーイ』に出演中の俳優でもあり、ところどころシアトリカルに展開するのもおもしろい。『ザ・クラウン』で故ダイアナ妃を演じたエマ・コリンがインタールードの“ザ・ラッパー・ザット・ケイム・トゥ・ティ”と“ザ・ガーデン”に登場、精霊のようにリトル・シムズに語りかける。個人的にもっとも気に入っているのは、オペラ風の14曲目“ネヴァー・メイク・プロミシズ”から一転、ナイジェリアのオボンジェイヤーを招いてアフロビーツに寄った“ポイント・アンド・キル”と“フィアー・ノー・マン”になだれ込むセクションだ。ヨルバ族の血を引く彼女の呪術的とも言えるラップは、ほかでは聴けそうにない魅力と説得力がある。“フィアー・ノー・マン”では「典型的なラッパーとは違う ダイヤを首からぶら下げたりしない」とはっきり自分のスタンスを宣言しており、同業者といっしょくたにされるくらいなら孤高の存在でいい、という強い決意がこぼれる。

自信からくる強さと、内省的と自分を分析する繊細さ、経験値と知識の豊富さを見せたり引っ込めたりしながら、最後の曲で「誤解されている(Miss Understood)」と締める。一番勇気が必要な冒険は遠くに出かけることではなく、自分の内面を覗き込む旅だ。『サムタイム・アイ・マイト・ビー・イントロヴァート』は、その事実をくり返し教えてくれるアルバムである。どんどん進化し続けるリル・シムズの最新作は、最低でも彼女の最高傑作として固定ファンに熱狂的に迎え入れられるだろうし、ひょっとするとさらにブレイクして次のフェーズに行く突破口になるかもしれない。だいぶ、おもしろいことになってきた。

文:池城美菜子

エネルギッシュに混ざり合う
「わたし」の内省と誇り

リトル・シムズことシンビアツ・アジカウォと、いまをときめくプロデューサーであるインフローことディーン・ジョサイア・カヴァーとの間に、幼いころから家族ぐるみの付き合いがあったという話がとても好きだ。リトル・シムズの音楽においては、サウンド面でも彼女自身の内面表現でも、とくに近作でインフローの深い理解が欠かせないと感じるからだ。個人的な動機や縁と、シーンのトレンドがダイナミックに重なったときの痛快さがこのアルバムにはある。

ジャングルの3rdアルバム『ラヴィング・イン・ステレオ』とソー(SAULT)の『ナイン』、そして本作と、インフローがプロデューサーとして重要な役割を果たした作品が立て続けにリリースされていることに彼の勢いがよく表れているが、と同時に、彼の作風と現在のロンドンのシーンが強くクロスしていることも示していると思う。キーワードは折衷性————というと、ロンドンのシーンを前にして何をいまさらという感じだが、インフローの手がける音の折衷性にはたしかに現在の現場のリアリティから生まれたものだという感触があり、それがもっともヴィヴィッドに発現しているのがソーだ。批評から絶賛された昨年の連作『アンタイトルド(ブラック・イズ)』と『アンタイトルド(ライズ)』、そして今年リリースされた『ナイン』では、レトロ・ソウル、ポスト・パンク/ニューウェイヴ、アフロ・ファンク、ジャズ、ゴスペルなどなど……がラフなタッチの録音で猥雑に混ざっているが、それは幾多のプレイヤーが行き来し音楽的に交流するロンドン・シーンの生々しいドキュメントのようでもある。ソーの匿名的な佇まいとも相まって、複数のヴォーカルはアンダーグラウンドから聴こえてくる不特定の「声」のようだ。『ナイン』が99日間でストリーミングはじめインターネット上から「消える」作品になっているのも、彼らの音楽が最終的にアンダーグラウンドに「還る」ものであることを示唆している。

ソーに比べれば本作のリトル・シムズのトラックは抜群に洗練されてはいるが、いろいろなものが「混ざっている」という感覚において確実に繋がっている。様々なサウンドが混在しているというのは、多様なルーツが入り乱れているということだ。そうした雑食性は様々なバックグラウンドを持つ人びとが集まる英国都市のアンダーグラウンド由来の音楽の伝統でありつつ、同時にインフローの優れた個性でもある。ただ、ソーと決定的に異なるのは、その「混ざっている」状態をリトル・シムズあるいはシンビアツ・アジカウォそのひとがすべて引き受けているところで……、つまり、彼女が「わたしとは誰か?」を問うた作品になっているところだ。

「スキルフルな黒人女性ラッパー」というキャッチコピー、俳優としての抜群の存在感、マイノリティとして世間に対する怒りや違和感を堂々と示す社会派……という、ある種わかりやすくアイコン化しやすい要素から、リトル・シムズはメディアから華やかな脚光を浴び続けている。本作のオープニング・トラック“イントロヴァート”は彼女の輝かしい現在を誇示するように、猛々しいマーチング・ドラムとファンファーレで幕を開ける。ゴージャスなストリングスとセクシーな女性コーラス、速度を落とさずに突き進むラップ。ボクシング映画の主題歌のようだ。「わたしは誇り高き黒人女性/結果はわからないけれど、愚直に進んでいく/でも団結さえしていれば、すでに勝利は決まっている」とのラインが叩きつけられば、誰もがそのカッコよさに痺れずはいられない。まさしくロンドンが生んだ現代のラップ・ヒーローとしての彼女がそこにいる。……だが、このパワフルな曲のタイトルは“イントロヴァート(内向的)”なのだ。アルバム・タイトルは「わたしが内向的になるときには、内戦が起きている」というラインで登場する。これはどういうことか?

“イントロヴァート”には「シムズはアーティストで/シンビはひとりの人間」という言葉も出てくるが、素直に受け止めれば、ペルソナとしてのリトル・シムズと個人としてのシンビアツ・アジカウォに彼女が引き裂かれているということなのだろう。アルバム・タイトル『サムタイム・アイ・マイト・ビー・イントロヴァート』の頭文字を取ると彼女の愛称である「SIMBI(シンビ)」になる。実際、アルバムを通してパワフルなアイコンとしての彼女からはあまり見えてこないパーソナルで「内向的な」語りが度々登場し、とりわけ家族に対する複雑な想いが吐露される。

けれども、不在だった父親への愛憎を率直に綴った“アイ・ラヴ・ユー、アイ・ヘイト・ユー”がファンキーなブレイクビーツ・トラックになっているように、ここで彼女の内省は音として悲しげなものとして現れない。ポスト・パンキッシュな“スピード”やシンセ・ポップ風の“プロテクト・マイ・エナジー”、アフロ・ビートとベース・ミュージックが合体したような“ポイント・アンド・キル”など、じつにヴァラエティに富んだトラックが並ぶなかで、“ジェムス”や“ザ・ラッパー・ザット・ケイム・トゥ・ティ”におけるミュージカル映画のように夢見心地のオーケストラが効いている。めくるめく……という表現がぴったり来るような、展開と装飾の多彩さが愉しいアルバムなのだ。何よりも、リトル・シムズのラップは醒めていながら一貫してエネルギッシュで、“アイ・シー・ユー”のようにビターな瞬間はあってもムードが沈みこむことはない。

個人的な痛みを晒すことは弱さではない。インフローの慧眼はテーマにおいて内省的な本作をメランコリックなアルバムにしなかったことによく表れていて、リトル・シムズ/シンビアツ・アジカウォの理解者たる彼の貢献が大きいことは疑いようがない。シンビとしてのパーソナルな感情をリトル・シムズとしての表現に昇華した現在の彼女はきっと、「二面性」に自身が引き裂かれることはないと知っているだろう。彼女はかつて「黒人女性ラッパー」として括られることの違和感をインタヴューで語っていたが、エレガントなソウル・チューン“ウーマン”ではアフリカ系の女性たちに対する同胞としての連帯が示されている。もちろんそれらは矛盾しない。特定のアイデンティティに誇りを見出すことと、特定の枠に押しこまれることに対する違和感は同時に成立するものなのだ。そんな風にして様々な要素や感覚や感情が複雑に多様に「混ざり合っている」個人の強さと美しさが、そして、このアルバムでは誇り高く掲げられている。

文:木津毅

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