SIGN OF THE DAY

2014年最大のセンセーション、アルカの
「新しさ」を紐解くコンテクストとは何か?
その① 「ネット上で生まれた、創造主なき
新たな生命体としての音楽」by 竹内正太郎
by MASATARO TAKEUCHI October 23, 2014
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2014年最大のセンセーション、アルカの<br />
「新しさ」を紐解くコンテクストとは何か?<br />
その① 「ネット上で生まれた、創造主なき<br />
新たな生命体としての音楽」by 竹内正太郎

例えば、次から次へと更新されていく音楽の最新情報を躍起になって追いかけるあまりに、iTunesから流れるリッピングしたばかりの新譜の再生音と、Twitterから開いたSoundCloudの再生音がイヤホンの中で重なってしまった、なんて経験はありませんか? さらに、別タブで一時停止にしていたDOMMUNEのライブ・ストリーミングがいつの間にか動き出してしまったり。その時、耳に流れ込んでくる音というのは、リズムもバラバラ、ウワモノもひっちゃかめっちゃかで、まるで音楽になってない。そんなグロテスクな音の重なりを不意に生んでしまった経験が、あなたにもあるでしょう。もっと言えば、目まぐるしく流れ去るタイムラインに表示されるYouTubeやBandcampのハイパーリンク群は、それを実際にクリックする/しないに関わらず、ただ「そこに音楽がある」という記号性だけで、脳内のメモリを消費するかのようです。勿論、datpiffからダウンロードしたミックステープのZIPファイルも山積み。「さすがにこれはマズイか」と思い、改めて目の前のブラウザを眺めてみると、開いてあるタブの数が両手を使っても足りないほどになっていたりする。ややデフォルメして言えば、私たちが生きているのは、そのような時代ではないでしょうか。

例えば、ポスト・インターネットの時代を生きるビート・メイカーの代表格たるラスティは、『ele-king』による今年度の取材において、「あなたはPCやネットがカジュアルな世代で、私たちはデジタル情報化社会に生きています。よくあなたの音楽は、そうした今日の情報化社会の反映に喩えられますが、あなた自身もそう思いますか?」との問いに、こう答えています。「人がそう言うのもある意味理解は出来る。俺は集中力がなくて、3、4分以上の曲を作れない。オンライン・メディアみたいにピンポイントというか、必要なものだけをサッとって感じ。いまの時代は、前みたいにずーっと耳を傾けたり、集中しなくてよくなってる。そういう意味では俺の音楽はそれを反映してるのかもね」。これは端的な時代性として、ものすごくポピュラーな感覚ではないでしょうか?

思うに、このような体験や感覚は、少なくとも筆者が海外のインディ・ロックを本格的に追いかけ始めた2005~06年頃にはなかったはずです。これはなにも、「音楽を選ぶ選択肢が多くなって良かった」という牧歌的な喜びには到底つながり得ませんし、「ひとつの音楽作品に向き合う誠実さを欠いている」という素朴な批判にもつながり得ません。でなければ、いったい、この時代環境が刺激する好奇心とあなたはどのように向き合ってるというのか。筆者の興味はもっと別にあり、圧縮情報のシャワーを不可避に浴びていく過程で、もっと重大な、取り返しのつかない変化が、無意識下で進んでいるのではないかと思えてならないのです。そう、ここ数年の、音楽を取り囲むアーキテクチャの「災害的な」変化は、私たちの身体性を少なからず変えてしまったに違いありません。そんな考えがまとまりつつあった時に与えられた、「アルカはどこが新しいのか?」という問い。結論から言えば、例えば上に記したような、インターネットにより上書きされてしまった私たちの身体性を見事に逆照射していること、それに尽きると思います。あるいは、こう言い換えてもいい。現在、暫定的にでも「インターネット的な音楽」ないし「ポスト・インターネット的な音楽」とはどのようなものであるかを定義しようとした時、その回答としてアルカの『&&&&&』はあまりにも正確に、この上なく具体的に鳴っていた、と。

Arca / &&&&&


いかがでしょうか。まるで、ひとつの楽曲のなかで複数の楽曲が同時に再生されているような、無秩序かつ不安定な、「統合された分裂」としての奇妙なグルーヴを、あなたは感じるでしょう。それはまるで、圧縮情報が溢れかえる仮想空間内での3Dサーフィンを思わせる。アルカがこのような音楽をどこまで意識的に生み出したのか、そのちょっとした「ネタ」については、デビュー・アルバム『ゼン』のライナーノーツに書いたのでそちらを参考にしていただくとして、ここでは「ポスト・インターネット的な音楽」とはどのようなものであるかを、暫定的にでも考えてみたいと思います。長くなりそうなので、結論から言ってしまいましょう。あくまでも試論なので、特定個人への挑発的なフレーズとして受け取らないでいただきたいのですが、ポスト・インターネットにおける音楽とは、「創造主としての情熱的な(ソウルフルな)人間」をもはや必要としなくなった音楽なのではないか、ということです。これが言い過ぎであれば、少なくともそのような議論を可能にするだけの問いを孕んだ音楽、とでも読み替えておいてください。

アルカの場合は、デビュー・アルバムに『ゼン』というタイトルが付いていることから見ても、自分が何を生み出しているかに極めて自覚的なアーティストであることが分かります。もったいぶるようですが、その辺りのこともライナーノーツに書いてあるのでそちらを参照していただくとして、より直感的なイメージでもう一度説明してみます。古いサイエンス・フィクションの用語で、マザー・コンピューターという概念がありましたね。簡単に言えば、日常の細部までユビキタスにネットワーク化された未来社会を統治するハイパーなコンピューターです。想像してみてください。マザー・コンピューターとまではいかないにしても、それに近い処理能力を有するコンピューターに恐ろしく高度なプログラミングが打ち込まれている。そのコンピューターは、ネットワーク上のすべての音声データを統治しており、その無限に近いデータ群を自在に(時には乱数的に)再生・停止することで、音楽を奏でるように設計されている、そんな状況を。つまり、この意味でのドローン・ミュージック(無人操縦音楽)というイメージこそが、「ポスト・インターネット的」という形容に相応しいのではないかと、僕は考えています。

*ここで本稿は、ようやくディストロイドという概念を紹介することができるに至ったわけですが、聡明なる『サイン・マガジン』の読者に事細かな説明は不要でしょう。先を急ぎます。

Arca x Jesse Kanda / Fluid Silhouettes


さて、話が込み入ってきましたので、一度整理します。カオスがカオスのまま統治されたようなアルカの音楽は、情報の洪水にのまれて溺れる私たちの鏡像のようでもあり、情報の洪水自体をメタレベルで管理するシステムのようでもあります。そこから導かれる、「音楽はまだ人間が作る必要があるのか?」という問題提起、いや、ある種の問題放棄のようにも思える批評性を持ったアルカの音楽が本当の意味で完成するプロセスに関しては、ジェシー・カンダというビジュアル・アーティストの存在を欠かすことはできないでしょう。彼が手がけるのは、YouTubeに溢れかえるちょっとセンスのいいプロモーション用のミュージック・ヴィデオというレベルの代物ではありません。音楽が先なのか、映像が先なのかが分からなくなるほど、というか、「映像そのものが動作の結果として出した音」なのではないか(もしくは、前述したマザー・コンピューターが擬人化したもののダンス)と思ってしまうくらい、完璧に同期した音と映像のコンビネーションは、ポップ・ミュージック史上で見ても、なかなか例のないところでしょう。

Arca / Ass Swung Low


Arca & Jesse Kanda at MOMA PS1


勿論、筆者の分析はひとつのSci-Fi的な解釈に過ぎず、同時代の他のビート・ミュージックとの親和性などは、専門家である小林雅明氏から詳細な説明がなされるはずです。それとは別に、本稿を自ら冷却するようなことを並べたてれば、例えばラスティが初めてシーンに登場した時に、ウェブ・メディア『ele-king』編集長の野田努氏はこのように書いています。「いまや若者にとってアナログ機材は高嶺の花で、逆に身近でコスト・パフォーマンスの優れたラップトップ・ミュージックにおいては、かつてアナログ機材で鳴らせたような音の表情はない。誰もが使えるようにと敢えてクセを避けたような、どちらかと言えばつるつるで、無味無臭の電子音だ。だから過剰にリヴァーブをかけたり、ベース音を異様にでっかくしたり、グリッチしたり、スクリューしたり、とにかくまあ、作り手はそれぞれのやり方で音を汚すことで味を出しているように見受けられる」。これは、今になって読めば、アルカのようなビート・メイカーの登場を予見的に批判していたようでもあります。

あるいは、ライターの二木信氏は、そのものズバリ、このように書いています。「例えば、アルカの『&&&&&』はたしかに面白いと思うし、いまの時代に支持される理由もわかる。ただ、インターネットの大海原には、アルカに匹敵する才能はゴロゴロ転がっている。僕なんかよりも、SoundCloudやBandcampで日夜ビート・ミュージックをディグっているビート・フリークの諸氏がそのことをよく知っているだろう。カニエ・ウェストが『イーザス』で大抜擢しなければ、アルカがこれほど脚光を浴びることはなかっただろうし、もっと言えば、アルカの分裂的な手法は子供騙しと表裏一体でもある」。これは明確なアルカ批判ですが、ポップ・ミュージックにおける重要な起爆剤たる「子供騙し」がなぜ、直線的に批判へと結びついてしまうのか、その点をめぐる合理的な説明がないことだけが気になりますが(黎明期のヒップホップも似たような批判を浴びたことでしょう)、Twitterなどに充満する「なぜアルカばかりが持ち上げられるのか」という疑問の声を素朴に代弁したものとも考えられます。

*引用者注;アルカは実質的に無名の段階でありながら、『イーザス』中の数曲において共同プロデューサーとしてクレジットされている。その時のカニエからのオファーのやりとりなどは直近のインタヴューで語られているが、カニエは恐らく、アルカが手がけたノイズ/インダストリアルなミッキー・ブランコのプロデュース実績を買ったのだろう)。

Mykki Blanco / Join My Militia (Nas Gave Me A Perm)

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こうした声はしかし、アルカへの批判というよりは、より広い問題提起として受け取られるべきだと思います。なぜなら、他方で、このようなツイートも同時に流れてくるからです。「いま、音楽がめちゃくちゃ面白いことになっているけど、この興奮をどれくらいの人と共有できるんだろうか。これは、批評や考察はもとより、現状分析さえままならない状況と言うべきか、前提すらも共有できるメディアが無い(状況を生きる)世代の苦悩なのか……。いや、それならば自分で作ってしまおうと、いまみんなで(DIYで)やっている立場としてはむしろ解放的な時代ではあるけれど」というのは、ブログ・メディア『Hi-Hi-Whoopee』等で活躍するライター、荻原梓氏のツイートです(一部の助詞・句読点等は引用者の調整による)。このツイートは、アルカが、ビョークの次回作を全面的にプロデュースするという第一報が流れたタイミングで投稿されました。(これには本当に驚きました。FKAツイッグスとの仕事とどのように差異化されていくのか、2015年の大きな注目のひとつでしょう。)

FKA twigs / How's That

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話を整理しましょう。「インターネットの大海原には、アルカに匹敵する才能はゴロゴロ転がっている」ということを、「SoundCloudやBandcampで日夜ビート・ミュージックをディグっているビート・フリーク」は知っているのに、インターネットで起こっていることを記述していけるライターがいない(もしくは致命的に少ない)ため、「前提すらも共有できるメディアが無い」状況こそ、僕たちが考えるべき問題ではなかったか。そういう認識からすると、2014年の秋になって「アルカは本当に新しいのか?」とか、「アルカが新しいという言説を僕らは素朴に受け止めていいのだろうか?」という議論を始める図式自体が、とても受動的なものに思えます。ある意味で言えば、そんな議論の一応の決着は、もうだいぶ前についている。なぜなら、今って、「レコード会社における新人発掘部門の一部が、不特定多数のインターネット・ユーザーに丸ごとアウトソーシングされている時代」ですよね?

重要なのは、自分のお気に入りのメディアやショップに並んでいる作品だけを聴くに値する作品なのだと決めつけないこと。そして、オンライン・リリースやフリーダウンロード・リリースを、そのリリース形式だけで「下位コンテンツ」なのだと考えないこと。この点は、先日『レジデント・アドヴァイザー』にて公開された、いまもっとも影響力のある音楽批評家のひとりであるアダム・ハーパーの論考「オンライン・アンダーグラウンドは新たなパンクか?」に譲りますが、このような問題意識が広く共有されることを望みます。つまり、「音楽メディアは、ニュース、レヴュー、インタヴューを使ってシーンを撹拌するよりも、オンラインの荒野に乗り出し、誰も知らない新しくて面白い音楽を探し出し、そこに意味を見出さなければならなくなる可能性がある」時代は、とっくに訪れているのですから。

あるいは、別冊『ele-king』のジャズ本『プログレッシヴ・ジャズ』の巻頭言において、松村正人氏は「90年代の素朴な網羅主義は、その終焉とともにインターネット環境の完成をみたことである種の虚構と化し、有限のふりをした無限の前で蒸発しかけていた」と、前世紀の終わりを回想していますが、そのような虚構は今や完全に死に絶えたと言うべきでしょう。人間の処理速度の限界を超えたスピードで、音楽ないしその付加情報は増え続けています。既存のメディアが仕掛ける「年間ベスト・アルバム」という権威付けの効力がほぼ失効してから、既にそれなりの時間が経っていますが、「見たいものしか見ない(見れない)」の状態から脱するにはどうすればいいのか。話は、皮肉にも本稿の冒頭に記した状態へとループします。そう、問題は入れ子構造です。『ゼン』は、筆者なりの文脈で言えば、そのようなタイミングでこの混乱する時代へと投下されています。

Arca / Thievery

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この『ゼン』というアルバムは、原理的に言えば無限に再生産可能な『&&&&&』的な方法論(必要なのはマザー・コンピューターとプログラムだけ!)を対象化し、ジェシー・カンダの生み出すヴィジュアル・イメージの多くが「性別を超えた存在」であることからも推察されるとおり、よりパーソナルな領域、つまりアルカのセクシュアリティの問題に関わるのであろう領域へと、深く降りて行きました。勿論、『ゼン』はその圧倒的な音の質感、強度、そしてポスト・インターネット的な暴風雨の混乱と、アルカの極めて個人的なアンビエンスが美しく混線する大傑作です。しかし、上に長々と記した観点からその同時代性を純粋に推し測るには、私たちはアルカのことを既に知り過ぎています。そして、アルカの洗礼を受けた新たな才能たちが、今もどこかで時代のイマジネーションを更新するような音を生み出しているはずです。このことの意味を、私たちはもっと深刻に考えるべきではないでしょうか。




「2014年最大のセンセーション、アルカの
『新しさ』を紐解くコンテクストとは何か?
その②『女性でもあり、男性でもある
新たな性の探求としての音楽』by 小林雅明」
はこちら


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