>>>彼女たちってフェミニズムを表現しようとしてるの?
さて、今度はそんなアメリカのメインストリームとは違うところに目を向けてみましょう。インディ・シーンでも、2013年頃から次々に女性アーティストが登場してきました。ポップなところまでブレイクスルーした人たちを挙げるとしたら、ローレン・メイベリーをフロントパーソンとしつつ、バンドとしてのアイデンティティにこだわるチャーチズ、カナダの宅録女子グライムス、FKAツイッグス、スカイ・フェレイラあたりでしょうか。
振り返ると、彼女たちのデビュー当時の発言には強いフェミニスト的メッセージがありました。ただ忘れてはならないのは、そうした彼女たちの発言はやむにやまれぬ理由があったということ。一番有名なのが、ローレンが英国の〈ガーディアン〉に寄稿したオープン・レターでしょう。彼女は自分たちのフェイスブックや4chanに書き込まれる性差別的なコメントに対し、次のような文章を寄稿しました。
「(抜粋)私に受け入れられないのは、“ちょっと性差別的だけどまあ害はない”ようなコメントから、明らかに攻撃的なコメントまで、それに対して『こんなのよく起きることだから言ってもしょうがない』とするような風潮です。女性をセックス・オブジェクトとして見るのは普通だから、みんなぐっと呑み込んで我慢するしかない? 私はそうは思いたくない。どんな形であれ、女性を物としてしまうのは、“受け入れるしかない”ことであってはいけないと思います」。
いま思うとネットに氾濫する暴言に対して立ち上がったこと自体、ものすごく勇敢だったと思うのですが(SNS上でのそうした暴力的な言葉に触れたことがある人ならわかると思います)、もともとフリーランスのジャーナリストで、友達とともに〈TYCI〉(Tuck Your Cunt Inの略です――うまく訳せないけど、過激!)という若い女性アーティストを紹介するサイトを運営しているようなローレンにとっては、黙ってはいられない現実だったのでしょう。最近のインタヴューでは「ブロックやミュートするのを覚えたの」と笑っていましたが、匿名の多数というのは、ときにメディアや他の論客に対して発言するより難しいはずです。
2013年にフェミニスト雑誌〈BUST〉で「音楽を始めるまで、自分はフェミニストだと思っていなかった」と語っていたグライムスも自らのタンブラーで、ローレンが寄稿した文章について次のようにコメントしました。ちなみに、グライムスのタンブラーもラナ・デル・レイやFKAツイッグスなど、彼女の好きなアーティストを紹介する場になっています。
「(抜粋)ほとんどの女性パフォーマーは性的で、暴力的ですらあるネットでの極端なハラスメントにさらされていると思う。(略)自分は顔のない大人数のグループにとっては常にフェティッシュな物でしかない、と思わされると、アーティストとしての自分を信じられなくなってくる」。
長くなりましたが、ここまでが前置き。
こうしたことが起きていた2013年以降、フェミニズムはどんどんトレンディなトピックとなっていきました。そうした状況が進むにつれて、メディアにおいてのみならず、多くの人々からも、女性アーティスト、特にこうした発言をしたアーティストには常に「フェミニスト」としてのアングルが付与され、発言や作品がそこにおいて読み解かれるようになりました。
でも当然、彼女たちの表現はもっと多面的で、複雑で、主張を伝えるだけのものではありません。まずはそれを忘れないで下さい。
>>>表現の自由を脅かすフェミニストというレッテル
2013年以降、こんな風にフェミニズムがどんどんトレンディなトピックとなっていくにつれて、さらには性的な表現やセクシーな表現の「正しさ」が問われたりするようにもなった。スカイ・フェレイラがアルバム『ナイト・タイム、マイ・タイム』を2014年に発表した時にはトップレス姿のカヴァー写真が槍玉に上がりました。女性や子供への性暴力に反対しているようなアーティストが裸になるのはどういうことか、と。
社会的なメッセージを発すると、そのせいでアーティストとしての自由が奪われてしまうというのはよくあることですが、メディアだけでなくネット全体がそういうものを監視するポリスとして機能している現在は、その縛りが一層厳しくなっている気がします。
チャーチズが今月末にリリースする2ndアルバム『エヴリー・オープン・アイ』の写真においてローレンが中心となり(これまではバンドのポリシーとして三人が等しく写っていました)、先行シングル“リーヴ・ア・トレース”のビデオでミニスカを履いたローレンだけが登場したことが一斉に非難されたのも、そういうこと。「え、たったそれだけのことで非難されたの?」と驚かないで下さいね。
その後、そうした非難を受ける形で、ローレンは何故チャーチズがバンドとしてそうした選択をしたのかについて後の取材で語っていましたが、本当はそんなこと説明しなくていいのです。ですよね。どんな主義を持つ女性でも男性でも、表現にはすべての自由があってしかるべきですから。
私としてはチャーチズの音楽の魅力は、キャッチーなシンセ・ポップに静かな怒りというか、ちょっと怖いような歌詞が乗っているところだと思うのですが(リレーションシップにおける考察とも、自分の中の対話とも取れる)、それが新作ではことさら路線を変えるのでも、成熟するのでもなく、さらに激しくエモーショナルになっている。
〈ピッチフォーク〉での新作インタヴューでは、ローレンが「ここ数年で経験したミソジニーについて書かれてる部分はある?」と聞かれて、こんなふうに答えていました。
「特にはないけど、恋愛において、他の人が私に『こうするべき』って決めつけようとするのに反抗する場面はあるかも。一度、ある人に『こんな音楽を作ってて、自分はフェミニストだなんて言えないよ』って言われたことがあるの。そういう相手にはすぐぴしゃってドアを閉めてやるだけ。これは私にはできない、って指図されることほどムカつくことってないから」。
そうそう、グライムスもこの間、今年リリースされる新作が「音楽業界のミソジニスト」に対するディスになっている、という不確かなリークに対して、「連投してごめんなさい」と謝りつつ、ツイッターで反論してましたね。「実際の作品について語るんじゃなく、勝手に私をヒップな政治問題にしてしまわないで」と。社会的なアイコンになるということは、あくまでアーティストであろうとする女性作家にとってはかなり邪魔な、うざったい状況にもなっているのです。
そんな中、あくまで自分はレフトフィールドなアーティストであり、人に理解されなくてもかまわない、というスタンスを貫いてきたFKAツイッグスが、先日突然リリースしたEP『M3LL155X』で徹底的に女性の生理や性をテーマにしていたのは、とても興味深い。
16分に及ぶビデオでは自らセックスドールに扮し、犯されたうえに妊娠し、七色のリボンを出産する――そんなシーンが映像とダンスとビートで描かれていました。確かにいま女性性やジェンダー・ポリティクスをアートとして表現するなら、このくらいラジカルにフィジカルに、簡単に読み解かれないくらいのレベルでやるべきですよね。それはよくわかる。
この項で述べたようなアーティストたちは、緩やかに繋がりつつも、ことさらそれを強調することもありません。好きな女性アーティストを挙げる時は普通に挙げるし、SNSで言葉を交わすことはあっても、ごく自然。あくまで活動の重点は自分自身の表現に置かれている気がします。
社会的な意識というのは常にサイクルを持ち、振り子のように動くので、いまパワフルに見えているものにもバックラッシュが起き、揺れ戻しが来ると思います。それでも、その場その場で問題がきちんと提起されていれば、ちょっとずつでも状況は変わるし、前に進む。
その意味で、インディ・シーンの女性たちが「アイコン」となることに疑問を呈し、「アーティスト」としてのアイデンティティを模索しているのには意味があるはずです。どうやって責任や縛りから自由になろうとするのか、それでも必要なものとして彼女たちが発するメッセージは何なのか。
最後になんだかシリアスな話になってしまいましたが、個人的にはグライムスが〈ヴォーグ〉誌のファッション・アイコンとしてシャネルを着てガラに出席したり、スカイ・フェレイラがイーライ・ロスのホラー映画『グリーン・インフェルノ』に出てみたり、「おおっ」と思うことを突然やったりするのも見逃せないんですよね。
チャーチズのローレンが〈TYCI〉でやっているポッドキャストも別に真面目なだけじゃなく、完全なガールズ・トークに笑わされたりもします。そういう活動の幅というか、違うものに繋がっていくところも彼女たちを追いかける醍醐味だったりするので、これからもいろいろと変なこと、かっこいいことをやってほしいな、と思うのでした。ファッションとユーモアを武器にして。
最新のグライムスの〈デイズド・アンド・コンフューズド〉表紙、最高なので見て下さい!
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https://instagram.com/p/7YLpkXDfom/
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