6) ロット・バルト・バロンの音楽は、まるで中世の吟遊詩人が奏でるフォークロアのような瞬間があったかと思えば、シガー・ロスと交響楽団が共演したかのような壮大なサウンドスケープを描き出す瞬間があったりと、サウンド的なスペクトルの幅があり、緩急のあるものです。これを別な視点から見るとすれば、彼らの音楽は、個人から個人へ手渡しで伝えられるパーソナルな子守歌のような存在であると同時に、架空世界に存在する特定のコミュニティの暮らしや日常を讃えるための御用楽団でもあると考えられます。これを少し跳躍的な視点から見るなら、硬直化したポピュラー音楽の存在意義を問い直そうという意図さえ感じ取れる。こうした特異なスタンスを持った既存の作家、作品があれば、思いつくものを教えて下さい。
マグネティック・フィールズ。シンセサイザーによるチープな電子音で人間の文明社会の限界を揶揄し、バンジョーやウクレレを用いた牧歌的な風合いの演奏で人間の暖かさに寄り添い、チェロやピアノなどを生かしたアレンジで人間の気品に酔いしれ、トリッキーかつ諧謔的な歌詞で人間の愚かさを嗤い……でも、最終的に人間の誕生を讃え、その未来を憂う、という愛すべき自嘲音楽家、マグネティック・フィールズ……わけてもリーダーのステフィン・メリットの知性の域に達することができそうな日本人アーティストはもしかするとこのロット・バルト・バロンとトクマルシューゴをおいて他にないかもしれません。
7) 彼らの音楽性がそうであるように、彼らの歌詞もまた、その内容とトーン、世界観において、時代やエリアを特定できないファンタジックで、サイファイなムードを持ったものです。と同時に、ある種の寓話性を持ちながら、現行の世の中に対する批評精神に溢れています。彼らのリリックの世界観や様式から連想する文学作品、映画を出来るだけ挙げつつ、その類似と差異について教えて下さい。
三船雅也の歌詞からは多大な死臭が感じられますが、その背後には幻想文学、怪奇小説、SF小説、オカルト文学のルーツを見て取ることができます。
>>>レイ・ブラッドベリ『死ぬときはひとりぼっち』
ハードボイルドなのにそこはかとない叙情とユーモアがある。三船の歌詞はここまでの無常を伴っていないけれど、死生観は近いかもしれない。
>>>ミヒャエル・エンデ『モモ』
失われた時間と心を取り戻す、という時空を超えたストーリー展開は三船の理想とするところのような印象を受けます。三船の言葉にはエンデほどの甘さはないですが。
>>>アーサー・C・クラーク『渇きの海』
近未来の月での物語ながら、人類創世を思わせる倒錯を感じさせる設定は、時空を超えた三船の手法を思わせる。
>>>エドガー・アラン・ポー『メエルシュトレエムに呑まれて』
呑み込まれてしまう巨大な渦を社会に置き換えたかのように解読できるところは三船のリリックの批評性に近い印象も。
>>>『ツイン・ピークス』シリーズ
ミステリーだが死体の映像さえも美しく描いてしまうデヴィッド・リンチの残酷美と、アンジェロ・バダラメンティの音楽との立体的な親和性もロット・バルト・バロンの世界と共通するものがあると思います。
>>>映画『デリカテッセン』
一見すると不気味なホラー、でも、そこに特有の風刺が挿入されているというペーソス溢れるスタイルは、東京出身の三船らしい都市伝説指向を思わせます。
>>>スタンリー・キューブリックの一連の作品
とりわけ『シャイニング』『時計じかけのオレンジ』の倒錯した精神世界とピュアネスへの叙事は、人間愛を貫く三船の歌詞世界の根っこにあるものと似ていると感じます。
8) ロットの歌詞における世界認識には、流通やモータリゼーションが行き届き、情報や貨幣、商品のグローバル化が行き届いた文明社会に対する違和感と、そこから逃れ、オルタナティヴな価値観を手に入れようという誘いを感じることができます。ただあなた自身は、彼らの主たるメッセージ性というのは、どのようなものだと捉えていますか?
文明社会から逃れようとする一方で、その斜陽に埋没してしまおうとする終末感も強く感じます。このあたりは三船、中原ともに東京生まれで、今なおそこに居住する都市生活者の運命を嘆きつつも、静かに享受しようとする覚悟のようなものを感じます。勇んで社会を批判し世直しに注力するより、そこに身を投じることのマゾヒスティックな快感をいっそ選択する、というような。都会に暮らすなら、その垢も澱みも未来のない明日も黙ってそれを受け入れろ、というようなメッセージかもしれません。
9) 彼らは2010年代のUSインディ・シーンの隆盛と、そこに刺激を受けた東京インディ・シーンの隆盛の中から生まれたバンドでありながら、そうした狭い枠組みには収まらない潜在的な大衆性を有しています。極端な比較ですが、聴き手の属性を選ばない普遍性というポイントからすれば、“千の風になって”とSEKAI NO OWARIとのミッシング・リンクとも言えなくない。ただ実際のところ、あなた自身が嗅ぎ取る、ロットの音楽における大衆性のポイントはどういったところにあるか教えて下さい。
ロット・バルト・バロンの2人がUSインディ・ミュージックを主にした貪欲なリスナーであり、聴き手として得たものを咀嚼する力にたけていることはファンならずとも感じられることだと思います。けれど、彼らの音楽を楽しむために、ロットのそうしたバックボーンを解析しても結局のところは、ほとんど意味がない。というより、ボン・イヴェールやニュートラル・ミルク・ホテルなんて一つも知らなくても、あるいは、この原稿でつらつらと書いてきたリファレンスなど全く興味がなくても、彼らの作品はたっぷりと堪能できるし、その世界に没入することが出来ます。
ロットの作品自体は聴き手が相当にイマジネーションを働かせて初めてその優美な世界に入りこめるものではあるのですが、その場合のイマジネーションには音楽的見地は必要ではない。ただ、作品の持つ映像的風合いやアトモスフェリックな味わいを自在に膨らませていけばいい、というような。それは恐らく、通常、作品の中に作り手が伝えたいと願うもの――それはメッセージやフィーリングの類ですが――にエゴイスティックにこだわることよりも、作品の中に自由にリスナーに入り込んでもらえる余地を残すことを優先しているからではないかと思うのですが、その度量の大きさ、包容力の大きさに、今実はもっとも必要とされる大衆性があるのではないかと思っています。
10) 『ロットバルトバロンの氷河期』と『ATOM』、それぞれの両側に置くとしっくりくるアルバムを二枚ずつ挙げて、その理由について教えて下さい。
『ロットバルトバロンの氷河期』の両サイドには、ニュートラル・ミルク・ホテル『イン・ジ・エアロプレーン・オヴァー・ザ・シー』とボン・イヴェール『ボン・イヴェール』。オーケストラルだったりフォーク・タッチだったりする部分が強調されている作品なので、USインディとの共振や同時代性、USインディの歴史への忠誠や学習を意識させる2作品を並べたいと思います。
今改めて聴くと、この時点ではまだ楽曲がポップスの定型に従っているところがあるのと、歌の叙情的な側面が強く出ているという点では、ティム・バックリィの『グッバイ・アンド・ハロー』でもいいと思います。
『ATOM』の両サイドは、ブライアン・イーノ『アンビエント1:ミュージック・フォー・エアポーツ』とスーサイド『スーサイド』。前作よりもエレクトリックなアレンジで楽曲の定型をかなり挑発的に崩してミニマルに展開しているという点でスーサイド。一方で、『2001年宇宙の旅』のオープニングとエンディングさながらの人類の始祖を感じさせるという点で、イーノのアンビエント作品の持つ大らかさに重ねてみました。
スーサイドとイーノ……となると『ノー・ニューヨーク』的な猥雑さ、という結論に繋がるのかもしれません。
「サザン、セカオワの次の国民的バンドって、
実はROTH BART BARONなんじゃ?
孤高の小さな巨人を紐解く10の特徴:前編」
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