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LEMONADE Beyonce (Sony) by AKIHIRO AOYAMA
MASAAKI KOBAYASHI
June 01, 2016
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LEMONADE

全ての黒人女性よ、感情を解き放ち自由と愛を希求せよ
人生の試練を乗り越えて、ビヨンセはそう歌う

アメリカには「人生がレモンを与えたなら、レモネードを作りなさい」という有名な慣用句がある。逆境や試練が訪れたとしても、それを活かして乗り越えればいいというような意味で、このアルバムのタイトルはその言葉にちなんで、ジェイ・Zの祖母が90歳の誕生パーティで語ったスピーチから取られている。大ヒットを記録した前作以降、ビヨンセに訪れた人生の試練。それを彼女はどのようにして乗り越え、どんな希望と救済へと辿り着くのか。本作はビヨンセ自身の物語を通して、アフリカン・アメリカンと女性のエンパワーメントにまつわる寓話が語られる、素晴らしくパーソナルかつ壮大なレコードだ。

それにしても、この3年の間でビヨンセとジェイ・Z夫妻に一体何があったのか。ゲスな勘繰りをしたくもなるほどに、本作の冒頭でビヨンセは夫に対する疑念と孤独に沈んだ心境を吐露する。前作で夫のジェイ・Zと一緒に「私は愛に酔っている」とうっとり歌っていたのとは対照的に、“プレイ・ユー・キャッチ・ミー”で歌われるのは、不貞を疑い、夫の部屋にそっと耳を傾けてささやき声を聞き、疑っていることを夫が気付いてくれないかと祈る妻の姿だ。しかし、人生の試練にあたって、祈ることくらいしか出来ない無力な女の姿は、本作ではほんの序章に過ぎない。内面に仕舞い隠そうとしていた感情を一気に開放し始める2曲目“ホールド・アップ”以降が、本作の真骨頂である。

エズラ・クーニグ(ヴァンパイア・ウィークエンド)がディプロと共にプロダクションに参加し、ヤー・ヤー・ヤーズの名曲“マップス”の歌詞を引用して「私が愛するようには彼らはあなたを愛さない」と繰り返される、未来的なレゲエ調の“ホールド・アップ”。レッド・ツェッペリンが演奏した“レヴィー・ブレイク”がサンプリングされ、ジャック・ホワイトがコーラスとプロダクションに全面参加した、攻撃的なトーンの“ドント・ハート・ユアセルフ”。「ゴメンじゃないわ、あんたのことなんか考えてない」と裏切った相手に中指を立てるエレクトロ・ポップ、“ソーリー”。都会的で薄暗いR&Bナンバー“6インチ”では、その筋のパイオニアであるウィークエンドをデュエット相手に迎えて、金のために高いヒールを履きクラブで踊る女性に賛歌を送り、“ダディーズ・レッスンズ”ではカントリー音楽と父親の教えが重ね合わせながら、南部テキサス生まれの彼女のルーツが提示される。前半に並んだこれらの楽曲の音楽的レンジの広さと、それぞれのテーマに合わせた見事な歌唱は、ずっと「強い女性」の姿を歌ってきたビヨンセの表現の中でも、最高峰のレベルに達していると言っていい。

さらに、本作でのビヨンセは男性優位社会の抑圧に対する反抗と感情の開放だけに留まらず、その先にある赦しや再生にまで深く踏み込んでいく。憑き物が落ちたかのように優しく慈愛に満ちた“ラヴ・ドラウト”から、ジェイムス・ブレイクが男役としてほぼメインのヴォーカルを披露する“フォワード”へと至って、主人公に訪れる和解と赦し、そして再生。こうして「レモン」から「レモネード」を作り上げた女性は、続く“フリーダム”で黒人女性の秘められた内面の強さを鼓舞するように、素晴らしくパワフルなファンク・サウンドを背にして自由への希求を叫び、“オール・ナイト”で自信と信頼に満ちた至上の愛を歌い上げるのだ。そこには、祈るしか手段を持たず、か弱く無力なあの女性の面影はない。

この物語が単にパーソナルなそれではなく、全てのアフリカン・アメリカンや女性の歴史に通じる寓話であることを示唆するように、本作は政治的なステートメントをたっぷりと含んだ“フォーメーション”で幕を閉じる。ここに散りばめられたメッセージは、本作に付随する1時間強のフィルムに登場する鮮烈なヴィジュアルのメタファーを見れば、より感覚的に理解出来るだろう。黒人社会に今なお影を落とす様々な苦難と搾取、それに対抗するための歴史的な誇り、新たに掴み取った自由。ケンドリック・ラマーの金字塔、『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』にも共通するそんなテーマを、ビヨンセはアフリカン・アメリカンの女性の立場から、見事に描き切ってみせたのだ。

文:青山晃大

女性の女性による女性のためのアルバムにはあらず。
これはガール・パワーの体現者ビヨンセのネクスト・ステップか?

ミスリード、ではないはずだが、本作発表前に、ショート・フィルムとして〈HBO〉で放映され(本作リリース時には、フィジカルではDVDとしてCDとセットで売り出され)た映像版をまず最初に観て、そのあと数日置いて、CDのほうを聴いていると、妙な違和感を覚えた……より正確には、映像版を観ながら“フリーダム”が始まり、さあケンドリック・ラマー出てくるぞ、と思いきや、その前で曲が終わってしまったあたりから、予想はしていたことなのだが。

ビヨンセが、説得力のあるガール・パワー・アンセムを武器に、人気を集め、維持してきたのは、今や周知の通り。そして、まず、今回の映像版は、事前情報なしに、誰が見ても「フィーメイル・エンパワメント」つまり「女性に夢や希望を与え、女性が本来持っている素晴らしい生きる力を湧き出させること」が主題として、全編に貫かれていることはわかる。とにかく、「女性」「女性」「女性」、映像には、自分の娘や祖母からセリーナ・ウィリアムス、あるいはイベイーの二人まで、多彩な女性たちが姿を現わす。

それに比べたら、男性の出番は少なく、ジェイ・Zが一番目立つだろうか。彼には、かつて“ガールズ、ガールズ、ガールズ”という曲があった。男性ラッパーが女性について主にセックスの面からライムするのは、ラップ・シーンにおいては常套手段になって久しいし、そういった中でのミソジニーが問題視されて数十年が経過している。

ビヨンセの前作『ビヨンセ』(2013年)は聴きようによっては、ではなく、そもそも、どういった作品かと言えば、男性ラッパーがラップで異性やセックスを取りあげる時のスタンスで、ビヨンセなりに歌にしてみた――ただし、それがフェミニズムに由来するのか否かは不明、というものだった。(この説明と一番噛み合わなそうな“ゴースト”で、ブーツが書いたリリックを、ビヨンセがラップしているものの)それは、スタイルの面ではなく、基本的には精神性での話だ。

そして、こうした流れを知ろうが、知るまいが、本作を聴き始めて、最初に引っかかってくるのは「私をどこの誰だと思ってるの、あなたが結婚した相手をそこらのビッチと同じにしないでよ」とビヨンセが啖呵を切る3曲目“ドント・ハート・ユアセルフ”だろう。勿論、すぐ前の“ホールド・アップ”で夫の不倫が仄めかされている(そう、本作には一貫した流れがある)ので、ビヨンセがそこで急に騒ぎ出したわけではないけれど、聴いていて、お、どうした?(ジェイZ、浮気でもしてたの?)となるはず。

ただ、それ以上に引っかかってきたのは、この曲で聴こえてくる(サンプルされた)ジョン・ボーナムのドラムだ。ビースティ・ボーイズのデビュー作に始まり、女性ラッパー、レイディ・オブ・レイジが一番手で登場するドクター・ドレの“リリカル・ギャングバング”、エミネムが、浮気した妻を殺害する“キム”で使われていた、あのドラムが、比較的地味だとはいえ、ここでも使われているのだ。ジャック・ホワイトがこうした文脈込みでこの曲をプロデュースしたのかどうかわからないが、彼がサビで繰り返し、歌ってる歌詞の一部もまた、ドクター・ドレの(イージー・E等へのディス曲)“ファック・ウィズ・ドレ”の一番最後のスヌープのラインと酷似している(「自分にとって大事な人をディスるのは、自分自身をディスるのと同じ」というニュアンスが共通)。

このあたりに、ビヨンセの賢さ、したたかさ、を嗅ぎ取るべきなのだろうか。(上で触れたように、前作で下地が出来ていたというのもあるけれど)夫への反撃を、極力、ラップ/ラッパー的な感性で、限りなく同じ土俵で推し進めようとする心構えだったのか。“ドント・ハート・ユアセルフ”のすぐ前の“ホールド・アップ”の段階で、既に歌よりも、フロウ、歌詞両面で、ラップ的表現がかなり目立っていること、あるいは“6インチ”での定番ブレイク使用等も付け加えておきたい。

が、これだけではない。さすがに「そこらのビッチと同じにしないでよ」というだけある。映像版に話を戻すと“ホールド・アップ”は(いわゆる現在アートに一定以上の興味を持っている者なら、すぐに気づく)スイスの女性アーティスト、ピピロティ・リストのヴィデオ・アート作品を、一部分を除き、構図やカメラ位置込みで、模倣した映像となっている。そんなことを知らなくても、路上に駐車してある自動車のガラスを叩き割ってゆくビヨンセの姿そのものは、不満感を湛える歌詞とも共鳴して強く印象に残る。人によっては、これはパクリだと非難するかもしれないが、これをハイ・アートとの融合と考えるなら、それこそ、ジェイZがこれまで何度試してうまくいかなかったことである。

“ピカソ・ベイビー”のミュージック・ヴィデオは、マリーナ・アブラモヴィッチをメインに(NYを中心とする)現代アートの重要人物を集めただけだったし、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘』の有名な場面を移入した“D.O.A.”のMVも、上っ面をなぞっただけだった。それらと比べることが失礼なくらい、映像版『レモネード』は、ソマリア人を両親に持つ、ケニア生まれロンドン在住の詩人ワーサン・シャイアの詩作の断片や“白鳥の湖”や“キング・クリムゾンの宮殿”などもまじえた(こうなると、どこまでがビヨンセ自身のアイデアなのかわからないものの)、非常に野心的な作品となっている。

それでも、ビヨンセは、まだまだジェイ・Zへの対抗意識をゆるめない(とも聴くことが出来る)。それが、一番最初に触れた“フリーダム”だ。プロデュースを手掛けたのは、先に触れた“ガールズ、ガールズ、ガールズ”以下ジェイ・Zに長年ビートを提供してきたジャスト・ブレイズ。2000年以降のオーセンティックな、このヒップホップ・ビートが鳴ると、ケンドリック・ラマーより先に、いかにもジェイ・Zが出てきてしまいそうだし、ビヨンセはそこに“ドント・ハート・ユアセルフ”に準じる熱量を注ぎ込んでいる。

ただ、この曲で、ビヨンセが一人で歌ってるだけでは、主題であるフィーメイル・エンパワメントという考え方を、シンプルかつ盛大にダメ押しは出来ても(だからこそ、映像版からはケンドリックのヴァースは外されたのだろう)、本作全体が表現手法への気遣いを感じ取れる作品ではあるものの、ある種、彼女の既定路線で終わってしまっただろう。ここでは、そこに、『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』でも追究されていた「フリーダム」について、ケンドリックからの視点を加えることで、全体としては、男女問わず聴く者を選ばない曲にまとめられている。平たく、そして、かなり大げさに言えば、ビヨンセ史上初めて、野郎も首を振りながら聴くことが出来る曲が生まれたことになるだろうか。そして、これが、彼女にとってのある種のブレイクスルーなのかどうかは次作(以降)が決めてくれることだろう。

その予見として、先に触れたピピロティ・リストによる自作に関する以下の発言は、あてはまるだろうか。

「自分はフェミニストです。ただし、個人としては違う。自分の作品における女性は、女性の側だけに立っているのではない。あの女性は、あらゆる人間の側に立ったもの。若い男の子たちも女の子と同じように、わたしの作品からたくさんのことを受け取ってほしい」

文:小林雅明

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