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VULNICURA Bjork (Sony) by MASAAKI KOBAYASHI
JUNNOSUKE AMAI
February 17, 2015
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VULNICURA

「別離のアルバム」がナイーヴさを超えて孕む、もうひとつの表情

陰裂のように口を開けた胸元の大きな傷。曲よりもほんの少しだけ先行して公開されたこのアルバムのジャケットを一瞥して、吸い込まれるように、目が惹きつけられたのは、その部分だった。実際に聴き始めていくと、早くも一曲目のサビに入る前で「Who is open chested」と歌っている。そして、ブックレットを開くと、この曲には“9か月前”と添え書きがあり、“ベトナムを体験した軍人が戦後に味わうものが我が家にも上陸した”と始まる二曲目には、同じように“5か月前”とある。そこから、このアルバムは、ビョークと(マシュー・バーニー)との別離を大きなテーマにした作品であることがわかってくる。4曲目“ブラック・レイク"には“2か月後”とあり、この曲はなんと10分にも及び、「Our love was my womb」と歌い出し、すぐに「I am one wound」とまで告白してしまう。自らに課した義務であるかのように、心境の変化をその時期ごとに歌詞あるいは歌として残していくのは相当タフな所業だ。

この4曲目、そして、5曲目あたりでは、参加が注目されていたアルカがプロデュースに参加した形跡がはっきりと聞き取れる。が、アルバム全体としては、ビョークが(少しだけ人員の多い)室内楽団と“別離”を歌う、と言ってもいいようなところに、アルカと(主にミックスに関してだが)ハクサン・クロークの力を借りて彩を加えた、と形容すべきものだ。アルカからのコラボ・アプローチは、『イーザス』以前だったということも考え合わせると、もしろ、このビョークのアルバムで培ったものが『ゼン』に投影された可能性のほうが高いのかもしれない。

それにしても、6か月後と添え書きがある“ファミリー”は、一聴した時から、「父、母、子供」と繰り返され、あの奇跡的に素晴らしい三角形を描いていた関係を葬送することが自分にできるのかしら?と歌われているのが耳に引っかかり、胸に迫ってくる。ここで、それぞれソロ・パートが用意されたヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが、その三者を象徴しているのだろうか。また、単なる偶然なのかもしれないが、アルバムでは、唯一この曲でのみ、ビョーク、アルカ、ハクサン・クロークの三者が制作、プログラミング、両面で参加している。

続く“ノットゲット”は、ストリングスがそれまでと趣を変え、転調しているのに、11か月後という添え書きと共に、彼女は、死、を持ち出しているし、いぜん「同じ傷を負ったはずなのに、治り方が違う」と歌う。ブックレットでは、この曲と次の“アトム・ダンス”との間に、ジャケと同じいでたちのビョークが胸の裂け目を手で隠しているポーズをとったアートワークが挟み込まれていて、“アトム・ダンス”でアントニー・ハガティのヴォーカルが入ってくる部分でサウンドを変えては見ているものの、ここでは、死を経て“これ以上分けることができない存在”としてのアトムについて歌っているのではないか、と心配になってくる。

スペイシズが制作に携わり、収録曲中で唯一、ストリングスと打ち込みビートが長い時間にわたって拮抗しているため、他の曲と異なった表情を持っているだけでなく、彼女自身の母親について歌い、雰囲気を変えようとしているかのような、ラスト曲でさえも、むしろ、母親としてのビョークと彼女の子供との関係のほうに思いが及んでしまうのではないだろうか。

「この醜い傷に息をさせて」と“アトム・ダンス”でビョークは歌う。ヴァギナ偏重だった(例えば、クールベの『世界の起源』)アートにおけるコンセプトの歴史に対するオルタナティヴとして、映画『クレマスター』で、敢えてペニスを取り出してみせたのがマシュー・バーニーなら、「モダンな室内楽」を目論んで作り始めたビョークの『ヴェスパタイン』に大きな影響を与えたのも彼の存在だった。本作のタイトルは「傷の治癒」を意味するが、ここで、あらためて本作のアートワークと、サウンドの基本スタイルを思いかえしてみれば、これは決してナイーヴ一辺倒の作品ではなく、このアルバムを一番聴かせたい相手に深手を負わせてしまうような攻撃性さえ孕んでいるのではないだろうか。

文:小林雅明

メロドラマに耽溺したビョークが、
はたして本当に失ったものとは?

この『ヴァルニキュラ』が、過去のビョークの作品の中では『ヴェスパタイン』を連想させるとすれば、それは今回のアルカやハクサン・クロークの起用に、かつてグラハム・マッセイやマーク・ベルと組み当時のテクノ/クラブ・ミュージックの最先端を進んでいたビョークが、あのアルバムでマトモスやハーバートといったエレクトロニック・ミュージックのアンダーグラウンドの才能と邂逅を見せた経緯を思い起こさせるところがあるから、なのだろうか。ビョークのディスコグラフィはこれまで、そのつど制作に深く関わる多彩なコラボレーターと共に編まれてきたことはご存知の通り。ビョークについて語ることは、プロデューサーやプログラマーなど様々な立場でクレジットされてきた歴代のコラボレーターについて語ることにも等しい。『メダラ』以降はセルフ・プロデュース色が濃く、コラボレーターも局所的な起用が目立つが、そういう意味では本作は、それこそ『ヴェスパタイン』以来となる固有のサウンド・クリエイターと全面的に取り組んだアルバムと言える。実際、『ヴェスパタイン』と本作の名前を挙げたコラボレーターの間には、チョップやコラージュを駆使したスタイル、ノイズやインダストリアルの趣向、あるいはジェンダーへの意識などざっくりと共通項を指摘することができる。

一方、『ヴァルニキュラ』は既報の通り、長年連れ添ったパートナーのマシュー・バーニーとの離別が制作の大きな動機とされている。奇しくもバーニーとの出会いにインスピレーションを得た作品だった『ヴェスパタイン』と本作は、まさにコインの表と裏の関係と言えるのだろう。バーニーもまたビョークにとって、そのディスコグラフィを彩ってきた数多の音楽家たちと同等か、それ以上に重要なコラボレーターの一人だった。直接の音楽的な影響とは異なるかもしれないが、バーニーがその代表作『クレマスター』や『拘束のドローイング』で探求した変異・変容の絶え間ないサイクル、身体性を介した創造のプログレッションは、二人の出会いを遡ってビョークのアーティスト活動全般の根幹をなす「モデル」と呼べるものにもふさわしい。余談になるが、『拘束のドローイング9』の共作にあたり訪れた伊勢神宮の「式年遷宮」という新陳代謝の建築様式、あるいは「神仏習合」に想を得た異種体系の止揚への気づきがなければ、前作『バイオフィリア』におけるアプリを通じて多次創作を促すアイデアや、ソフトウェアとアコースティック楽器を合体させたカスタムメイド楽器の製作、いや「自然科学と感情と音楽学の混合」というアルバムのコンセプトさえそもそも生まれ得なかったに違いない。ビョークというアーティストにとって本作は、単に男女のメロドラマとして昇華することのできない、そうした大いなる源泉の喪失を出発点としていたはずである。

『ヴァルニキュラ』が災難だったのは、件のリーク騒動ではない。惜しむらくは、本作がビョークにとってバーニーを失うという悲劇を背景に生まれたアルバムであることが、リリースに先立ち自身の口から大々的に語られたこと。それにより、あらかじめそういうストーリーに沿う形でリスニングがリードされることを免れがたい――ことこそ本当の災難と言えるかもしれない。事実、本作はビョークのこれまでのディスコグラフィの中で、もっとも悲痛で、影が深く、哀調を帯びた作品であるだろう。ほぼ全編にわたって重々しく飾る、ビョーク自ら手がけたというストリングス・アレンジは、まさにメロドラマのサウンドトラックとして本作を演出することに余念がないようだ。ここには、かつてニコ・マーリーやジーナ・パーキンスらと築き上げてきた繊細で巧緻な弦楽アンサンブルの面影を聴くことは難しい。前作『バイオフィリア』では、自然界のスケールやアルゴリズムに擬えたトラックやビートとの複雑なコンビネーションも試みられていたが、本作におけるストリングスの仕様は、プログレッシヴというよりデコラティヴという形容がふさわしく情緒的だ。それこそ、前作で使用されたiPadとハープのカスタムメイド楽器のようなテクノロジーと身体性の“習合”が実践された例と比べると、その印象はなおさら強く残る。

ヒエラルキーの中心はあくまでビョークのヴォーカルであり、それに随伴する形でストリングスが楽曲の主題を担う。多彩な楽器のアンサンブルも、大所帯の合唱隊のコーラスもない、作り自体はある意味これまでのディスコグラフィの中でもっともミニマルなアルバムと言えるかもしれない。そのぶん、プロダクションの部分にかかる裁量が相対的に増すわけだが、そこに関してアルカとハクサン・クロークの両名は、歴代のコラボレーターと並べても強力な個性を示したケースに挙げられるだろう。とくに前者について言えば、『&&&&&』ですでに開陳していたクラシックや現代音楽の素養、ストリングスへの愛着からもビョークとの相性の良さは事前に期待された通りである。なかでも、10分を超える沈痛な“ブラック・レイク”は、アルカらしいチョップやシンセ・フレーズが象るフラクタルな揺らぎもさることながら、よりテクスチャーの探求を意識させるようなシークエンスの滑らかさに『ゼン』以降の洗練を窺わせる。かたや、“ノットゲット”や“マウス・マントラ”に訪れる騒然としたビートと電子音の撹拌、デス・グリップスをシミュレートしたような“クイックサンド”のシンセ・ブレイクコアは、ティンバランドのサウンド・ファイルとライトニング・ボルトのドラムを拝借した前々作『ヴォルタ』のスペクタクルに勝るとも劣らない。過去の作品と比べればモノトナスな印象と言っていい仕上がりだが、たとえモノローグでも語り口を変えるように音の造形にグラデーションを配し、この悲劇のオペラに表情や奥行きを与えていくビョークのディレクションを認めることができる。

ビョークがこの『ヴァルニキュラ』の制作にアルカとハクサン・クロークを起用した理由は詳しく知らない。ただ、両名にとって今回の制作にあたり、共に同じくシンガー・タイプのミュージシャンであるFKAツイッグスやワイフのプロデュースを務めた経験が少なからぬヒントになったであろうことは想像がつく。そして、もしも本作にその“想像”以上の驚きや発見が感じられないとしたら、それはその両名による諸作を本作の習作として聴けてしまう/しまっていたという部分は否めないとして、加えてそもそも両名のシグニチャー・サウンドとされるところのプロダクションは、これまでもビョークがそのディスコグラフィの中で披露してきた手数にあらかじめ含まれている――という事実が大きいのではないだろうか。両名が共同で手がけた3曲のうち“ファミリー”は本作の白眉に挙げられるが、すでに触れた数曲も含めてそこに施されたエフェクトやプロセシングの類い、ドローンやウィッチネスと同様のタッチを、直近では『バイオフィリア』の“クリスタライン”や“ダーク・マター”にも聴くことは容易い。チョップされたヴォーカル・サンプルのアイデアは『メダラ』、具体音/ミュージック・コンクレート的なアレンジは『セルマソングス』においても指摘できる。インダストリアルの意匠は、それこそビョークがシュガーキューブス以前に在籍したポスト・パンク・バンド、クークルの頃にさえさかのぼれるものだろう。乱暴に言ってしまえば。

『ヴァルニキュラ』の目玉であったはずのアルカとハクサン・クロークとのコラボレーションは、そうした元々ビョークが備えていたベクトルを際立たせこそすれ、何か新たなプラス・アルファを期待させるような成果はもたらしていない。いや、何もビョークのアルバムに(音楽の)先進性や革新性とやらばかりを求めているわけではない。ただ、“新しい(何かに取り組んでいる)ビョーク”が見たかった、聴きたかっただけである。

文:天井潤之介

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