昔からスケートボードの映像を見るのが好きだ。そして映画『スケート・キッチン』(2018)以降は、特に女子スケーターが好き。実はクレイロを意識したのも、話題になった“プリティ・ガール”のヴィデオじゃなく、『スケート・キッチン』の出演者と一緒に出ていた“ヘヴン”のヴィデオだった。かっこいい女の子たちがスケートパークで滑っているのを見ながら、話しかけたいんだけど、でも……というクレイロの姿は、彼女のシャイな魅力を認識させてくれた。
新作『スリング』を聴いたとき、最初は「『イミュニティ』のほうが好きかも」と思っていたのは、私がそんな10代の心の動き、ティーンエイジ・ベッドルームというものを偏愛しているからかもしれない。2019年の1stアルバム『イミュニティ』で彼女は、相手に伝えた途端に壊れてしまいそうな気持ちを歌っていた。そこには鬱や性の揺らぎも含まれていて、クレイロはたちまちZ世代のインディ・アイコンに。ただあのレコードにはDIYのラフな手触りだけでなく、開かれたポップの感覚も絶妙なバランスで加えられていた。それはプロデューサーのロスタムが狙ったところかもしれない。
そしてパンデミックを経てリリースされた2nd『スリング』は、『イミュニティ』とかなり趣を異にしている。主にキーボードとビートで組み立てられていたサウンドは、滑らかなピアノやアコースティック・ギターに。時折オートチューンも使われていたクレイロのスリーピー・ヴォイスは、多様なニュアンスのあるヴォーカルに。そこには自分の音楽を広げ、洗練と成熟に向かう意志がある。プロデュースはジャック・アントノフ。彼の仲介なのか、このアルバムのセンターピースとも言える曲“ブラウス”ではロードがバック・ヴォーカルを務めている(そのお返しに、クレイロはロードの“ソーラー・パワー”に参加)。
彼女が“ブラウス”で描くのは、上着を脱いだときに男性が向けてくる性的な視線だ。仕事の話をしようとしても、相手がチェックするのは自分の体。「なのに私の気持ちについて話せっていうの?」とクレイロはつぶやく。業界の歪さ、見られることの苦痛についてはビリー・アイリッシュも新作で扱っている。どちらのアルバムもいまのポップスターが語ることとして興味深いが、ビリーがダークな部分に切り込んでいくのに比べ、クレイロは一歩引いて自分のメンタル・ヘルスや「違う生き方」について熟考しはじめた気がする。
一時は音楽をやめることも考えたという。モチーフとして意外だったのは、“ジニアス”や“リーパー”で歌われる「母になること」。インタヴューではロックダウンを母親と過ごしたこと、初めて犬を飼ったことを契機に挙げている。ちなみに犬の名前はジョニ・ミッチェルにちなんでジョニ。同名のインストゥルメンタル・トラックからは穏やかな明るさが伝わってくる。たぶん彼女は自分が母になることを想像し、また実際に保護者となることでこれまで自分が恐れていたもの、ネグレクトしてきたものに気づいたのだろう。そこに対してオープンになることも。20代になったクレイロは次のドアを開き、過去を糧にして成長している。その変化は解放的だ。どんなに転んでぶつかって怪我をしても、スケーターがまたボードに乗り、軽やかに滑りだすように。
東京の大学に進学した大学生が、酸いも甘いも経験した3年生の冬休みに帰省。時代に取り残された子ども部屋で、自分の人生を振り返り、ふと両親にも今の自分と同じような時期があったことを認識し、自らが家族を持つ未来を想像する……。
あえてここ日本のリアリティに引き寄せてみたが、クレイロの二作目となるアルバム『スリング』は、永遠のようで短い人生の貴重な数日間に書き留めた、極めてプライベートで、しかし誰かに読まれることを前提としたノートのようなレコードだ。
急激なヴァイラル・ヒットとそれに伴う噂話や批判への苦悩。うつ病で自己のコントロールを失う苦しみ。ツアーによる疲弊と私生活の喪失。自らの女性性への戸惑いと、それを取り巻く男性社会システムへの諦念……。本作でクレイロが歌うトピックは、どれもポップ・ミュージックの世界では極めてありふれた内容であり、言うなれば“真っ当な2ndアルバム”である。だが決してありふれたレコードのひとつなどではなく、今聴くべきレコードの一つである。このテキストではその理由を三つ紹介しようと思う。
本作を今聴くべき理由の一つ目は、本作が我々と同じ2021年を生きるミュージシャンが発表したリアルタイムの作品だということだ。これは本作を“2024年や2030年に後回しせず、今2021年のうちに聴くべき”という消極的なポイントだが、次やその次の理由の前提となっているので少し付き合っていただきたい。ストリーミング・サーヴィスや膨大な中古CDを通し、私たちは2021年の視点から約70年に及ぶポップ・ミュージックの歴史からあらゆる作品を自由に聴くことができる。これは今を生きる人間の特権と言っていいだろう。しかし、それでは得られない経験があるのも事実である。例えば現在30代の筆者は、ザ・クラッシュの1979年作『ロンドン・コーリング』に当時のパンクスが感じた(とされる)戸惑いを感じることはできない。同じように現在20代前半のオーディエンスのほとんどは、ジェイZがオートチューンに死刑宣告した2009年作“D.O.A.(デス・オブ・オートチューン)”を当時のようにシリアスに聴くことはできないだろう。そう、レコードは時間を超えて聴かれるがゆえに、絶対的な聴き方や評価は存在しない。だが、リアルタイムで聴くという共通体験が存在することは確かだ。たとえ住む国は違ったとしても、年齢や性別は違ったとしても、同時代に生きるミュージシャンとリアリティを最大限共有した上で作品に触れられるのが、リアルタイムでレコードを聴く喜びである。
続いて本作を今聴くべき理由、二つ目。それは本作がパンデミックによる世界的ロックダウンの影響下にあるレコードである点だ。とはいえ、政策への批判や、陰謀論に対する嘆き、あるいは「今、音楽やエンタメができることとは……」という自問自答が込められたレコードというわけではない。パンデミックでツアーの予定がなくなったクレイロは、ロックダウン下の生活において、ツアーの疲弊から回復しながら音楽業界を客観視した。そして家族とまとまった時間を過ごす中、母について、自分を産む前の彼女の人生について想像を巡らせたのだという。そこで彼女が得たのは「いつか子どもを産んで家族を持つことで、長い間一人で生きる中で獲得したこのアイデンティティは消えてしまうかもしれない」という不安だったそうだ。自らが知らない両親の人生を想像し、自分が彼女たちのアイデンティティを奪ってしまったのだと想像する……。それは誰しもがいつか経験することであり、きっと10代から20代への、そして大人になるプロセスの一つであるはずだ。今もなお収まらぬパンデミックにおいて、多くの犠牲が払われているのは紛れもない事実である。だが、その中にもクレイロのようにロックダウンで不意に余った時間を自らの成長のために使った事例も少なくはないはずだ。このレコードを聴きながら、外出自粛期間における自らの暮らしや思索について考える経験は、同時代を生きている我々にしかできないことである。そして、今から十数年後以降にこの作品と出会うリスナーは、歴史の教科書からは見えてこない“あの頃”のひとつの側面を本作から読み取ることだろう。
最後、本作を今聴くべき理由の三つ目は、これが多くの人たちの共感を呼ぶであろうフェミニズム・レコードだという点にある。現代が女性の時代であること、そして#MeToo以降もなお音楽業界に限らずあらゆるシステムにおいて男性優位のシステムが問題を生んでいることは誰もが知るところだろう。しかし、その反動があるのも事実。#MeTooの告発には“セカンド・レイプ”と言わざるを得ないレベルのバッシングがつきまとう。また同じ女性内でもそのスタンスにグラデーションがあり、フェミニズム的な言動や表現に抵抗が見られるのもまた事実。そんな2021年のリアリティをクレイロはこのレコードで描く。仕事関係にある男性からの性的な視線を克明に、そしてどこか諦めと自虐まじりに描く”ブラウス”。いつか子どもを産むことへの不安を通し、母性が背負わされている過剰な重責を示唆する”リーパー”。これらの楽曲が象徴するように、クレイロはどこか旧来的な美徳を否定しきれずに揺れ動いているようにも感じられる。そして、ツアーにおいてはハラスメントや暴力から女性客を守るセキュリティ規定を作るなどのアクションを起こしながらも、自らが音楽業界の中で経験したハラスメントについては「それを話せるほど、私は強くなれないでしょう。これからも」と口をつぐまざるを得ず、楽曲内で逡巡するしかできない現実。こうした点においても、痛々しいほどの2021年がここに刻まれていると言えるだろう。
ビートルズ後期のような、丸みを帯びたドラムとベースを中心としたバンド・サウンド。あるいは室内楽とコーラス。そんなジャック・アントノフが手がけた普遍性の強いプロダクションで歌われるのは、本テキスト前半で示した通り、大枠としてはミュージシャンが扱うありふれたテーマばかりである。冴えたアイディアを持つアレンジや、繰り返し聴きたくなるメロディは少なくないが、流し聴く程度では「他愛もないインディ・レコード」という印象で終わってしまうかもしれない。だが、クレイロと彼女の愛犬が写し出されたカヴァー・アートが示すように、本作の中にはあらゆる“忘れがたいものたち”が、静かに、親密さを湛えて眠っている。あなたが44分間の時間を作って、盤面に針を落とすのを、再生ボタンを押すのをいつまでも待っているのだ。