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VIEWS Drake (Universal) by TAIYO SAWADA
MASAAKI KOBAYASHI
June 19, 2016
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VIEWS

2016年のトップに君臨する新時代の盟主は、
その縦横無尽の活躍に自ら足をすくわれるのか否か?

5月末現在、2016年に全世界でもっとも売れているアルバムはレディオヘッドでもビヨンセでもなく、ドレイクのこのアルバムだ。もしかして、この「ドレイク」という名があなたの耳に唐突に聞こえるなら改めてどういう人なのか、まさに今、知っておいた方がいいだろう。彼こそ、現在の音楽シーンにおける新しい王様だから。

実際問題、ヒップホップの歴史を見ても、彼ほど多方面で愛された人もそうはいない。人気のベースとなるのは女の子。いきおいマッチョで、ややもすると「性差別的」とも呼ばれるヒップホップにおいて、俳優あがりの彼は、ロマンティックでジェントルなラップと、スムースな歌声を持って異性からの絶大な支持を得た。2000年代後半からヒップホップはオタク、もしくはインディ・カルチャーの範囲でも愛される内向性を獲得していたが、彼はさしずめそんな今の時代のマーヴィン・ゲイ的なハートスロブだ。

そういうタイプでありながらも、ヒップホップの現場感覚を大事にするのもドレイクだ。彼はデビューの頃から一貫して、出身地のカナダはトロントのトラックメイカー、40やBoy 1 Da、nineteen85らと切磋琢磨してトロントをレペゼンし続け、2000年代末から内省的なエレクトロ・サウンドを主体にし、そこに時には印象派クラシックのような彩りさえ加えて表現してみせた。

さらに彼は、ヒップホップの「現場主義」の象徴たる、本来非売品であるはずのミックステープを即興的に制作しては、それに価格をつけて販売。それが全米アルバム・チャートで、「アルバム」と本人が銘打っていない作品にも関わらず1位を取る現象まで引き起こした(2015年2月12日にリリースされた『イフ・ユーアー・リーディング・ディス・イッツ・トゥー・レイト』)。そして、定額配信の時代に目を付けてか、ここ数年は、アルバムやミックステープにも収録予定のないシングルも唐突に連発。こうした果敢な創作姿勢は玄人肌のリスナーをうならせてもいる。

こうしたことから、もはやドレイクを理解するには、アルバム1枚を聴くだけでは足りない事態になっていることも否めないのだが、そんなタイミングで発表された通算4枚目のアルバムが本作『ヴューズ』だ。先ほども言ったように、世間一般の目には「アルバムとミックステープ、彼の場合、どう違うの?」と映ることは事実で、あとは当人の作品に対する思い入れの深さの差でしかないようだ。

本作のタイトルとジャケ写が、トロントを象徴する有名な建物であることからも想像が出来るように、本作はドレイクの故郷トロントに対する今現在の微妙な距離感を示したものとなっている。故郷こそが自分の拠点のはずなのだが、現在の自分が存在する地点と、トロントとのあいだに微妙な溝が生まれつつある……と、ピンク・フロイドで言うところの『ザ・ウォール』的なテーマが存在する。

勿論、本人にとってそれは大問題なはず。しかし、今回、皮肉なことに、ドレイク本人が、その距離感とやらに大義名分とストーリーを構築しようとすればするほど、彼が成し遂げて来た興味深い部分が薄れるようなジレンマが聴いていて感じられる。「あの、ミックステープを即興で繰り出してたイキの良さはどこに行ったの?」と。しかも、これは本人が想像しているほどには新鮮な主題でなく、サウンド的にもこれまでから劇的に成長が見て取れるようなものが見当たらないだけに余計にそう思える。

とりわけ、前半部で曲が主題に縛られすぎている分、楽曲的な明快さに欠ける展開が続き、キャッチーな楽曲が中盤(11曲目の“コントローラ”以降)から終盤に偏ってしまった。せっかくの入魂の作品もこの作りなら、知名度が拡大してついたライト・ユーザーのファンは、聴いて欲しいはずの前半を飛ばして途中から聴くのではないか。そんな老婆心も僕の中では生まれた。

曲によっては、絶妙なコード感を活かしたものや、ダンスホール的だったり、70’sのリズムボックス風の音色を活かしたリズムのものなど、引き続き先端のクリエイター・チームを擁していることが証明された部分もあるし、“ワン・ダンス”やボーナス・トラックの“ホットライン・ブリング”のような全米1位楽曲は昨今の優良ヒット・ソングの手本のような貫禄も改めて示している。その辺りは流石。なのだが、縦横無尽の最近の活躍に、自分自身が絡め取られてしまっているところがないか――そこが、今後ドレイクが音楽界の新たな盟主として君臨して行く際の課題になっていくのだろう。

文:沢田太陽

ポスト・ストリーミング・サーヴィス時代の「アルバム」の形

聴きながら、長いなあ、と思ってしまうアルバムだ。ドレイクのソロ作品としては、2作目の『テイク・ケア』とちょうど同じくらいの長さだ。ただ、当時は、例えば、『セクション.80』発表後のケンドリック・ラマーや、ミックステープ『ハウス・オブ・バルーン』によって、彼以上に注目されていたウイークエンドを大々的にフィーチュアするなど、音楽シーンのトレンドの流れの中に自分を置いてみるという意図があったにせよ、アルバムには、随所随所にわかりやすいアクセントがあった。

それが、同作から5年を経て、世界的なスターとして認知済みのところにきて、“ホットライン・ブリング”(本作ではボーナス・トラック扱い)のミュージック・ヴィデオ(のGIF映像)により、世の中に(少なくともネット上に)セルフ・イメージを蔓延させた直後となる、ソロ4作目の本作では、客演アーティストは8曲目まで出てこない。しかも、寒風の音に続き、「『これからもいい友だちでいましょうね』系の友だちはひとり残らず、もう俺にはいらない」と始めてしまう、ほぼビートレスな1曲目から4曲目までミニマムな音像が続き、うち3曲が、相変わらず、元カノのことをああでもない、こうでもないと、ちまちま言っている、色々な意味で「寒い」路線なのだ。

で、5曲目の“ハイプ”で、ようやく、ラッパー的なドヤ顔を見せつけ、2曲目の“9”でも示していた地元トロントのレぺゼンに、少年時代の思い出を組合せ、ドレイクの小学生時代にメアリー・J・ブライジが出した曲をサンプルした(実は、本作は、この時代のR&Bからのサンプルが目立つこともあとになって気づかされる)“ウエストン・ロード・フロウズ”を続けるも、8曲目からは、またもや、最初の元カノ今どうしてるかなの妄想世界? に戻ってしまう。勿論、それを同じスタイルで演っても面白くないので、曲によっては、パーティネクストドアあるいはDVSNの(「イッて、イカセて、の積み重ねで相互理解を深める」との「男女交際における教訓」! を繰り返す)歌をフィーチュアし、さらには、故人ピンプ・Cの音源までも組合せ、いわば、最初の4曲中3曲の、あるいは『テイク・ケア』で確立した楽曲の変奏というか、聴こえの違うものへと展開させている。それこそ、7曲目の“リデンプション”などは、歌詞面が同作収録の“マーヴィンズ・ルーム”の変奏的なものであるのに加え、トラックについても、ドレイクが再注目させたあとのスクリューに大きな影響を受けたフランスのビートメイカー、ミト・サイザーの既発曲と驚くほどビートが似ていて(クレジットが一切ないのが不思議だ)、時の流れを感ぜずにはいられない。

ここで耳にひっかかったのは、9曲目でDVSNの歌が終わったあとに、打ち寄せる波の音を早送り再生? した時のような音で曲が終わっていて、何か区切りをつけているようだ。そこで、自ずと思い出されるのは、本作のド頭で聴こえてきた、吹きすさぶ寒風の音だ。つまり、最初の4曲ほどは冬で、春を経て、この9曲目のアウトロからは、夏が始まったということなのか。少し先に目をやると、17曲目は“サマーズ・オーヴァー・インタールード”となっている。

ちなみに米国のエンタメ界では5月半ば過ぎから「サマー・シーズン」に入る。ちょうどこの時期に、ナイジェリアの人気アーティスト、ウィズキッドと(UKファンキー“ドゥ・ユー・マインド”からサンプルした)カイラをフィーチュアした12曲目の“ワン・ダンス”が全米No1を記録し、同時に15曲目の“ポップ・スタイル”(新録版)、次に16曲目のリアーナとの“トゥー・グッド”、さらに、11曲目の“コントローラ”と、最初から「サマー・シーズン」にぶつけることが全て計画済みだったかのように、本作内の「夏」にあたる部分を構成する楽曲ばかりを「正式」にシングル・カットしている。この中で“ポップ・スタイル”以外は、ダンスホール・インフュージョン(本作はパトワや、ダンスホールのサンプルも含有している)とでも言ったらいいのだろうか、デンボウ、ナイジャ、アフロハウス、キゾンバまでをも内包するアフロ・トロピカルな、ストレートに夏をイメージさせるダンス・ミュージックにこだわっている。もっとも、これが新味かと言われれば、少し前ならメジャー・レイザー、ドレイクのレーベル・メイトのプロジェクト、リッチ・ギャングによる2014年を代表するラップ曲の一つ“ライフスタイル”といった前例があるし、今聴きかえせば彼自身のヒットで、『テイク・ケア』収録の“ファインド・ユア・ラヴ”のビートのほうが、むしろデンボウに近い。今回の肝は、ダンスホール・フュージョンをまとめて聴かせ、同時に、陽性なドレイクの存在を知らせたことだろう。

ここまで来ると、18曲目でいきなり聴こえてくるのは、もう秋の風に違いない。そして、ラストの表題曲を経て、季節はめぐり、冬、つまり、1曲目につながってゆく、と考えることは出来る。ただ、現実には、季節だけは同じ順番で巡ってはくるけれど、今年の冬も来年の冬も、元カノのことで頭がいっぱいなドレイクでさえ、それが同一人物でない確率がかなり高いように、同じ出来事は起こらない。ただ、そういうこととは無関係に、本作はアルバム全体がリピート再生されるような聴き方をされているのだろうか。〈ビルボード〉誌の統計上の数字では、米国だけでも、本作は、既に10億ストリーミングを超えているという。あくまでも数字に基づくひとつの単純な推測にしかすぎないのだが、これは、本作の収録曲全曲を一度でもいいから聴いた人が既に5000万人はいるという計算になる。実際に、本作がどの程度、通しで聴かれているか全くわからない。だが、もしかしたら、「冬春夏秋」のつかみの4曲や、「夏」の部分のように、同系列の曲が一定以上続く(プラス、その中にアクセントとして前述の“ハイプ”のようなラッパーとしてのドヤ顔を見せる曲を入れ込む)構成をとることで、「アルバムという構成を意識した」アルバムを聴いているはずなのに、実際には、その構成そのものゆえに、ストリーミング・サービス活用時の感覚の再現化として認識され、大半のリスナーから、アルバムというひとつの作品が有する「長さ」に対する意識など消し去ってしまっているのではないだろうか。また、ビートですら、近年の大きな傾向ではあるけれど、一曲に複数のプロデューサーを投入した結果、各プロデューサー固有の音を特定しにくくなることで、彼らの存在感が希薄化している点でも、そこから生まれるフラットなイメージが、むしろ「流れ(ストリーム)」に貢献しているような錯覚さえしてしまう。ストリーミング時代対応版『テイク・ケア』、と呼んでしまったら言い過ぎかもしれないが、ドレイクは、ミックステープ『ソー・ファー・ゴーン』でブレイクした時から、インターネットを味方につけていたのだ。

文:小林雅明

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