「このアップルの製品でライヴ動画を撮ることができます/それは高速で撮られた静止画の連なりです/ぼやけていく……ラインがぼやけていく……」(“デヴァイス・コントロール”)。奇妙に変調した声でヴォルフガング・ティルマンスが半ば語るように歌っている。『ブロンド』がリリースされる前日に配信されたヴィジュアル・アルバム、『エンドレス』のイントロとアウトロである。
わたしたちはSpotifyで、アップル・ミュージックで、グーグル・プレイ・ミュージックで、AWAで、LINEミュージックで、アマゾン・プライム・ミュージックで、パンドラでフランク・オーシャンの歌に耳を傾けている。わたしたちは今ここにあるわたしたちの現在を、現実を切り取ろうと躍起になってソニーの、サムスンの、アップルのスマートフォンの小さなレンズをあらゆる対象に四六時中振りかざしている。小さな液晶ディスプレイに額を寄せて、ツイッターやフェイスブックやLINEに必死になってテキストを打ち込んでいる。今を取り零すまいと。そうやってわたしたちの生はディジタルなデータへと分解されていく。0と1に――わたしたちはアーキテクチャの奴隷なのだろうか?
“ナイキス”のヴィデオ・ヴァージョンでオーシャンの声は2つに引き裂かれている。まるで『ファイト・クラブ』のように。「これはぼくの人生ではない/それは友達との優しい告別のようなもの」(“ホワイト・フェラーリ”)。その声に身を委ねるわたしたちもまた2つに引き裂かれる。0と1に。現実のわたしとSNS上の複数形のわたしたち(いくつかのアカウント)に。わたしのイメージとわたし自身に。僕とタイラー・ダーデンに。ストレートとゲイに。肉体と精神に。偽物と本物に(“ソロ(リプライズ)”においてアンドレ・3000はリリックのゴーストライティングに苦言を呈している)。クリストファー・フランシス・オーシャンとトレイヴォン・マーティンに。生と死に。ホワイト・ライヴズとブラック・ライヴズに。ストリーミング・ヴァージョンとマガジン・ヴァージョンに。『エンドレス』と『ブロンド』に。女性形の“blonde”と男性形の“blond”に――。
『ブロンド』から聞こえてくるのはオーシャンの声だけではない。そこにはいくつもの声が掬い上げられ、息づいている。アルバムに散りばめられたいくつかのインタールードの中でも特に印象深いのはSebastiAnが語る“フェイスブック・ストーリー”だ。彼はそこで恋人との悲しい、しかし一方では馬鹿馬鹿しい別れについて語っている。「彼女は『フェイスブックでわたしを承認してよ』って言うんだ/でもそれはヴァーチャルにすぎなくて、なんの意味もない/だから『ぼくは今、君の目の前にいる。フェイスブックで承認する必要なんてない』って言ったんだ/彼女は怒りだした/ぼくが彼女のことを受け入れてない、騙してるって思ったみたいなんだ/彼女は言った『もう終わりね』/信じられなかったよ/ピュアな、無に対するジェラシーさ」。
“フェイスブック・ストーリー”からカーペンターズの(スティーヴィー・ワンダーの)カヴァーである“クロース・トゥ・ユー”へと至る流れは、アルバムにおいて最も美しく、かつ最もアイロニカルな瞬間の一つだ。引き攣ったビートの上でオーシャンは歌う。「あなたの近くに……」。その歌声はフランシス・アンド・ザ・ライツのエフェクトによってまるで光のスペクトルのように離散し、変調している。現代において「あなたの近くに」行く/いることは、果たしてどのようにして可能なのだろう――わたしたちはアーキテクチャの奴隷なのだろうか?
あるいは友人が母親から受け取ったヴォイスメールをそのまま収めた“ビー・ユアセルフ”というインタールードを聞いてみよう。「ドラッグとマリファナとアルコールはよしなさい/他の誰かになろうなんて思っちゃ駄目よ/あなたはあなた自身でいなさい」。それに続く“ソロ”は孤独を歌ったものだが、しかしそれはマリファナ賛歌でもある。『ブロンド』にはマリファナもコカインもコデイン入りのカクテルも(その過剰摂取による死も)、そしてもちろんセックスも登場する。「マリファナを巻くこと、それは安価なヴァケーションさ」(“ナイツ”)。ここでもオーシャンは、いや、『ブロンド』という作品は2つに引き裂かれている――ママの説教と快楽主義とに。
そう、『ブロンド』はデジタル・ネイティヴたちの生/性についての文学だ。彼/彼女らはハリケーン・カトリーナを見た。トレイヴォン・マーティンの死を見た。オーランドのゲイ・クラブでの凄惨な死を見た。警官たちのレイシズムと暴力に対して、ケンドリック・ラマーの“オールライト”をチャントして抗議する群衆のヴィデオを見た。ロンドンやパリのテロを見た。シリアの混迷と空爆と難民たちを見た。バラク・オバマとバーニー・サンダースとヒラリー・クリントンとドナルド・トランプを見た。その文学の言葉は歌と詞だ。ラップとリリックだ。呟きと叫び声だ。iPhoneのヴォイスメモで録音された他愛ない会話だ。ポエトリー・リーディングだ。ママからのヴォイスメールだ。子供たちによる戯れのインタヴューだ。「君の名前は?/普段は何をしてる?/最初の記憶は?/何になりたい?/もし超能力が使えたとしたら?/あなたの隠れた才能は?/一光年ってどれくらいの距離?」。あるいはコントリビューターの長大なリスト、お気に入りの楽曲と映画のリストもまたそのテクストなのかもしれない。そうして過去のアーカイヴと先人たちに敬意を表しながら、オーシャンは自身のアートによってトラディッショナルな歴史性を断ち切ってもみせる。
声を多層化、複数化した代わりに『ブロンド』が断ち切って見せたのはドラムスのビートである。約1世紀のあいだバスドラムとスネアドラムとハイハットで構成されたドラムセットによってある意味では縛られてきたポップ・ミュージックをフランク・オーシャンは解放してみせる。『ブロンド』に息づくドラムレスのビートは自由で柔らかく、ビート・ミュージックを定義したリズム・アンド・ブルースのパースペクティヴからアンビエンスを再定義する(ここでリル・Bの『レイン・イン・イングランド』を思い出してもみてもいい)。打ちつけるビートから開放された楽曲は可変的になり、曲中でぐにゃぐにゃとその形を幾度も変え、前半と後半とではまるで別の相貌を見せ、奇妙で見知らぬ終着点へと聞き手を運ぶ。
『ブロンド』を聞き進める内に引き裂かれ、複数化されたわたしたちの生はまた1つへと優しく縫合されていく。多層化され、複数化された声によって。可変的な楽曲の柔らかいフォームによって。ドラムレスのビートによって。しかし再縫合されたわたしたちの生は1つであって1つではない。デジタル・エイジにおいて引き裂かれた生はその裂け目や表面の歪な凹凸を残したまま縫合されているのだから。静止画の連なりが動画になるように。そう、ラインは、境界線は今やぼやけている。それは1でありながらも2であり、あるいは無限大でもある。LGBT(Q)はストレートに対するただ1つのオルタナティヴではない。ポリティカル・コレクトネスはただ1つの解のみを認める馬鹿げた狭量さではない。フランク・オーシャンの『ブロンド』は、多数性と複数性への祈りである。「この楽曲たちを聞いてよ、これはセラピーなんだ、ママ」(”フーツラ・フリー”)。これは現代に産み落とされた最も美しく、最も素晴らしいヒーリング・ミュージックである。
どうして、こんな声なのよ……1曲目の“ナイキス”の歌い出しからピッチ・アップされた声が聴こえてきて、気持ち的には軽く「引いて」しまうものの、注意を喚起されるのも確か。ピッチを通常に戻してから(というか、トラックそのものはピッチ・ダウンされてる?)この曲は、「僕は彼じゃない、でも君にとって意味がある。君には意味がある、君には意味がある」と締め括られる。
では、彼じゃなければ誰なのよ、という話に当然なる。7曲目の“セルフ・コントロール”も9曲目の“ナイツ”の前半もピッチ・アップされていて、しかも、どちらも“ナイキス”とはキーが違う。また、“グッド・ガイ”では、サラリと「彼が僕を連れて来てくれたゲイ・バー」と歌ってみせる。と同時に、現実の彼は、クリストファー・エドウィン・ブローという本名を、既に、クリストファー・フランシス“フランク”オーシャンへと正式に改名している。つまり、フランク・オーシャンは、フランク・オーシャンなのだ。
今回、本作『ブロンド』にあわせて、ヴィジュアル・アルバム『エンドレス』と360ページのジン『ボーイズ・ドント・クライ』と、計3形態のメディアを使った表現活動を行なっている。これが文字通りメディアの「使い分け」だとしても、本作をある程度聴いてから『エンドレス』を聴いて、『ボーイズ・ドント・クライ』の抜粋に目を通してみたところ、互いに(とまでは言い切れないけれども、フランク自身が責任編集、責任取材した 『ボーイズ~』は、他の2つの)作品内容を補いあう関係にあるようだ。前作『チャンネル・オレンジ』に比べると、規則的な楽曲構成に全く囚われていない点で、本作と『エンドレス』は共通し、ダフト・パンクをサンプルしたり、アルカやサンファやシャソルが参加している『エンドレス』のほうが、「時代」を意識しているような第一印象を与えがちだが、アンドレ3000に一曲丸ごと任せ、また、気づかれないようにとはいえ、ビヨンセもケンドリック・ラマーも参加し、スティーヴィー・ワンダーによる1972年のカヴァーでの、トークボックス使用のインパクトに触発されたと思しきフランシス・アンド・ザ・ライツ版“クロース・トゥ・ユー”といった趣の13曲目は、“オールウェイズ”、“ゴッドスピード”のコラボでつながるジェイムス・ブレイクのみならず、ボン・イヴェール、そして、二人を経由しチャンス・ザ・ラッパーに連関し、本作のほうがよほど2016年作品らしいとも言える。
2012年の「告白」以降の作品なので、逆に“セルフ・コントロール”や“ナイツ”で歌われている意中の相手の性別については謎だが、例えば『チャンネル・オレンジ』で聴かれたような(シンボリズム的な)謎というのは、ほとんどない。安定した「語り」から現れる謎の存在よりも、断片を描き重ねることで、「不在」そのものが随所で感じ取れるアルバムになっている。全体にフランク・オーシャンがフランク・オーシャンであることを止めたがっているフシがあるし、極端な言い方をすれば、彼はもはや「幽霊」にでもなったほうがましだと考えているのでは? という気さえしてくる。
「こんなの僕の人生じゃない、これは、友への愛おしき別れの言葉」と、本作の白眉“シーグフリード”(ポップ史に名を残すマスター・エンジニアリングの匠、ボブ・ラドウィグがプロデュース!)では歌われる。どうやら、これはエリオット・スミスの“ア・フォンド・フェアウェル”の一節らしいが、それに気づかなくとも、フランクが「僕は彼じゃない…」と言葉に出した数秒後に始まる“アイヴィ”を聴き始めた段階で、エリオット・スミスの『イーザー/オア』あたりの音楽が想起される確率のほうはかなり高いだろう。そして、1997年発表のそのアルバムのタイトルが、キェルケゴールの著書『あれか、これか:ある人生の断片』から取ったものだということを知るに至れば、実存主義だとか哲学的なことを考えずとも、この書名こそ、本作『ブロンド』の表題にもふさわしいのでは、と思ってしまうかもしれない。
もっとも、キェルケゴールからの白人的な実存主義が、フランクにあてはまるとは考えにくい。そして、“ホワイト・フェラーリ”が愛車で、レクサスやバルマンが気になるようなセレブは、エリオットには全く理解できない人種なはずだ。人種ということになれば、勿論、黒人としての実存主義(ブラック・エグジステンシャリズム)という考え方もある。既に、実存主義的な主題は、“バッド・レリジョン”や“ピンク・マター”など既に前作でも出てきていたし、アルバム中におけるその主題の配分から言えば、それこそスティーヴィー・ワンダーの『インナーヴィジョンズ』に近かった。それが、本作のほうの“ホワイト・フェラーリ”で、フランクが引用しているのは、今からちょうど半世紀前に、ビーチ・ボーイズの“ゴッド・オンリー・ノウズ”に触発されたポール・マッカートニーが(ジョン・レノンと)書いた“ヒア、ゼア・アンド・エヴリウェア”なのだ。実際、本作には、他にも「ホワイト」を想起させる要素がいくつも引っかかってくる(表題の『ブロンド』でさえ)。
ただ、それが「ブラック」に対応するほど単純でないことは、「あんたは俺みたいに扱われてるの、それとも、俺とは違う? 俺は典型的なアフリカ系アメリカ人だよ、あんたが日本人でも紋切り型で扱われる率は俺の半分くらいだろ」と出てくるラストの“フューチュラ・フリー”の終わり、つまり、本作の一番最後の4分あまりを占める部分が教えてくれるだろう。そこでは、自分が誰なのか嫌でも確認させられてしまうような質問が次々に投げかけられ、それに答える声が雑踏の中から聴こえてくる。彼女/彼の言葉は「僕は彼じゃない、でも君にとって意味がある……」「こんなの僕の人生じゃない……」と歌うフランク・オーシャンのアイデンティティ・クライシスにとっての救いとなるのだろうか。いや、彼女/彼にとってこそ、フランク・オーシャンの音楽が救いなのだろうか。
「進みたかった方向性は結局そこだったのか」。2010年代を代表する稀代のブラック・シンガーソングライター、フランク・オーシャンの待望の2ndアルバム『ブロンド』を何度も聴くことにより、僕の中でそうした結論が生まれた。
思えば、フランク・オーシャンという人は、その登場当時の印象でイメージが拡散しやすいタイプの人だった。それは最初のミックステープ『ノスタルジア・ウルトラ』が、コールドプレイやMGMT、はたまたイーグルスまでをもモロ使いした内容であったことや、彼が西海岸のヒップホップ・インディ・クルーOFWGKATに合流したことから、インディ・ロック・カルチャー的文脈で解釈したがるような人が特に日本には少なくなかったように見える。
ただ、そうしたインディ的なカテゴライズには1stアルバムの『チャンネル・オレンジ』のときから違和感があった。サウンドのスタイル的には文科系的であるにせよ、楽曲自体はきわめて全う過ぎるまでにR&Bだったからだ。「ドレイクの世代と、スティーヴィー・ワンダーの70’sソウルをつなぎとめるような存在だな」とは思ったし、ソングライティングがきわめてしっかりしたタイプだと思ったものの、正直な話、何がそこまで新しいのかまではハッキリとわからなかった。90’sの、ディアンジェロだったりトニ・トニ・トニ、マクスウェル、ザ・ルーツ辺りのオーガニック・ソウル系の久々の上玉だとは思ったが、それ以上のものはそこまで感じなかった。
だが、その印象が今回の『ブロンド』でガラリと変わった。方向性そのものはあくまでR&Bであることに変わりはないのだが、作り方の発想そのものが変化した印象を受けた。作風は「世界一豪華なデモ・テープ」とでも言うべきものだ。音数は極限まで削られているのだが、その分、声やギター、キーボード類の和声が随分豊富に膨らみ、それらが電子音やリズムの揺らぎとの間で絶妙な輝きを放っていた。まぎれもなく正統的なR&Bではあるものの、それは前作のような「70’sソウルの理想的後継者」的なイメージから明らかに逸脱しているし、ましてや、「インディ・ロックとの融合」とも全く違っている。この感覚は一体何なのか。僕は気になって仕方なかった。
そこで僕が到った結論がある。それは彼が「ポスト・サンプリング世代のシンガー・ソングライターの新たなあり方を示したかったのではないか」ということだった。
先述した90’sのオーガニック・ソウルや、トライブ・コールド・クエストのようなニュー・スクール系のヒップホップはクール・ジャズや70’sのニュー・ソウルなどの洒落たエッセンスを、それらを直接的にサンプリングするか、生演奏で新たに弾き直すかどちらかで対応していた。
こうした、ソフィスティケイトされた和声やリズム解釈を引用する感覚は、今回のアルバムでも引き継がれているものではある。ただ、これはドレイクの作品でときにドビュッシーやサティを思わせる変則的な和音感覚が聴かれたことにも近いのだが、今作でフランク・オーシャンがモチーフにしたがっているコード進行やリフも、ジャズやソウルの枠を踏み越えているのだ。今作でも、以前から「似ている」と比較に上がっていたスティーヴィー・ワンダーの楽曲の引用を使いながらも、それと並行して、トッド・ラングレンやエリオット・スミスをサンプリングに使い、ビートルズの曲を口ずさむなどしている。本人がどこまで意識的なのかはわからないが、いずれも、いわゆるブラック・ミュージックとは別種の、複雑な和声を駆使するタイプのレジェンドばかりだ。今回のフランクを聞いていると、おそらく彼自身も敬愛していると思われるこうしたアーティストからコードの使い方を一から学び、自分のものとして新たに再構築を行なおうとしているように聞こえるのだ。こうしたアプローチは、あくまでジャズやソウルのトラディションに従ったオーガニック・ソウルからは聞こえて来なかったものだ。同時に、こうした感覚は、フランク自身にとっても、ただ単にインディ・ロックの有名既存曲に乗って歌っていた初期のミックステープや、スティーヴィーっぽい雰囲気を出すのにゴージャスなホーン・アレンジをどこかから借用していた前作でのアプローチとも異なる。
オーガニック系ソウルと言えば、サンプリングのネタ元が人気になりやすい性質が90’sの頃からあり、それがマニア心を刺激していた側面もあった。そうやって育って来た世代の代表のひとりがカニエ・ウェストだ。彼はカーティス・メイフィールドを生んだシカゴという黒人音楽が伝統的に強い土壌を生かしながら、サンプリング文化の中で、温故知新を多彩に表現し続けてきた代表格だ。おそらくは、フランク・オーシャンもそうしたサンプリングの元ネタで音楽を学んだクチなのではないかと思う。ただ、今作を聴いていると、彼は、過去の黒人音楽の楽曲構造のパターンから逸脱する部分までをも取り込んでいくことで、R&Bという音楽そのものまでをも再定義しようとしているのではないか、そんな風にさえ感じられるのだ。
そのカニエは今、「今度のグラミー賞でフランク・オーシャンがノミネートされなかったら、俺は心の底から激怒する」と発言している。自身のアルバムも、今年グラミーの対象になっているというのに、あの自信家が自分のこと以上にフランクのことを騒いでいる。もしかしたら、カニエにとっても、サンプリングを踏み越えた音楽領域を追求しているかのように映るフランクの探究心に脱帽していたりするのかもしれない。