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PLOWING INTO THE FIELD OF LOVE Iceage (Hostess) by JUNNOSUKE AMAI
YUYA SHIMIZU
November 27, 2014
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PLOWING INTO THE FIELD OF LOVE

“混沌こそ未来”を体現するコペンハーゲンの最前線を示すと
同時に、キャリアを画期する達成を収めたアイスエイジの最新作

デンマークのコペンハーゲンのレーベル〈ポッシュ・アイソレーション〉が昨年リリースしたコンピレーション・アルバム『ドクメント #1』。そのジャケットの内側に収められた集合写真は、そこが“現場”であること、そして“シーン”と呼びうる状況がそこに存在することを一目で伝えている。吹きさらしの倉庫のような建物の前で居並ぶのは、〈PI〉を主宰するローク・ラーベックとクリスチャン・スタッズゴーア、ラスト・フォー・ユース、ウォー、プセ・マリー、ロウワー……そしてアイスエイジといった界隈に集うアーティストの顔ぶれ。その粗い粒子のモノクロのポートレイトを見て、『ノー・ニュー・ヨーク』の、あのジャケットの裏側に並べられたジェイムス・チャンスやリディア・ランチやアート・リンゼイのまるで指名手配犯のような顔写真を思い起こしたのは、自分だけではないかもしれない。あるいは、ニューヨークの写真家ゴドリスが撮影した、ブレッカー・ストリートでたむろするティーンエイジ・ジーザス&ザ・ジャークス/コントーションズの有名なスナップを。〈メイヘム〉という溜り場のヴェニューでのライヴ音源も収録された『ドクメント #1』は、文字通り現場からの“記録”であり、また、「〈PI〉以前のコペンハーゲンはエクスペリメンタル・ミュージックの地図上に存在しなかった」と語るスタッズゴーアの言葉を忖度し、同地のアンダーグラウンド・シーンを新たに定義する“ステートメント”足りえた作品だった。

そんな〈PI〉周辺の、黎明期か端境期ならではの活況は、往時のノー・ウェイヴ、いや、正確にはノー・ウェイヴの参照を自覚していた2000年代初頭のブルックリンの光景とどこか重なって映るところがある。実際、『ドクメント #1』が伝えるその音楽的傾向や趣向は、ディケイドを隔ててブラック・ダイスやギャング・ギャング・ダンスらが登場した頃のブルックリンとのさまざまな符合を連想させて興味深い。多くがハードコアやノイズ・ミュージックを出自や背景に持ち、ディレッタントな実験精神を謳歌するコペンハーゲンのアンダーグラウンド・シーンは、ラスト・フォー・ユースやロウアーのスタイリッシュなポスト・パンクを最右翼とするなら、レフトフィールドに位置するプセ・マリーやエイジ・コインのインダストリアル~パワー・エレクトロニクスまで、旺盛な成果を示している。とりわけ後者は、ダブル・レオパーズやサイティングス、あるいはウルフ・アイズも出入りした〈ノー・ファン〉勢とさえ並べても遜色がないだろう。〈PI〉主宰者によるデュオ、ダミアン・ドブロニクの呪術的なドローンとセンシュアルなアート・パフォーマンスに至っては、まるでノー・ネック・ブルース・バンドとエクセプター(とケネス・アンガーのテクニカラー・スカル)が合体したかのようだ。

そのラーベックとスタッズゴーアの発言等からは、むしろスロッビング・グリッスルやコイルといったイギリスのノイズ~エクスペリメンタル・ミュージックとの繋がりが意識されている様子が窺える一方、『ピッチフォーク』は過去にコペンハーゲンを訪れたサーストン・ムーアを彼らが招いてノー・ウェイヴについて直接話を聞く機会が持たれたエピソードも紹介している。そして勿論、ラスト・フォー・ユースやウォーの近作をリリースするブルックリンの〈セイクリッド・ボーンズ〉を通じて、同時代の彼の地とコペンハーゲンのアンダーグラウンド・シーンが近しい関係を築いていることは重要な点に違いない。10年前、当時ブラック・ダイスのヒシャム・バルーチャが編集したブルックリン勢のコンピレーション・アルバム『ゼイ・キープ・ミー・スマイリング』は“2000年代の『ノー・ニュー・ヨーク』”とも謳われたが、〈PI〉の『ドクメント #1』はさながら、“2010年代のコペンハーゲン版『ノー・ニュー・ヨーク』”と呼ぶにふさわしい趣を備えている。

アイスエイジのエリアス・ベンダー・ロネンフェルトは直近の『ステレオガム』の取材に応えて、自分たちを“ハードコア・バンド”と見なす周囲に対して苛立ちを長年抱えてきたと告白している。その苛立ちとは、ロネンフェルト曰く“ハードコア”という音楽スタイルへの違和感と言うより、“そういう音楽”として期待して集まるオーディエンスのリアクションを目の当たりにした時の失望感、に由来するものらしい。が、一方で、前述してきた〈PI〉/コペンハーゲンのアンダーグラウンド・シーンが呈する音楽模様に彼らが置かれた時、相対的に“そういう”評価やピックアップを、良し悪し抜きに免れないことも理解できなくない。実際、1分や2分台の楽曲がほとんどを占めてきた彼らのファストでラウドなサウンドは、まるで70年代末のロウアー・イースト・サイドに放り込まれたジャームスのようである――と言ったら例が極端すぎるか。

いや、たとえばロネンフェルトが並行して関わるマーチング・チャーチのドローニッシュなゴシック・フォーク、かたやロマンチックなスーサイドみたいなウォーとアイスエイジとの間には志向の違いが明確に窺えるし、あるいは他のメンバーの2人が参加するデス・メタル・バンドのサイアにしても同様。裏を返せば、それだけアイスエイジの存在は界隈で際立っているという見方もできるし、また本人たちの不満とは裏腹に、“そういう音楽”とデフォルメされたイメージが逆にローカリティを超えた彼らの訴求力の導線になり得ている部分も大いにあるのだろう。そんなアイスエイジというバンドは、エクスペリメンタル・ミュージックの大洋から流れ込む風が押し寄せ、拮抗し合い渦を巻くコペンハーゲンのアンダーグラウンド・シーンの、その中心を螺旋状に上昇する一筋の気流を思わせる。

3作目となる本作『プロウイング・イントゥ・ザ・フィールド・オブ・ラヴ』で歌うロネンフェルトの饐えたヴォーカルを聴いて、ニック・ケイヴではなく、アリス・クーパーをつい思い浮かべてしまったのは、先駆けて彼らのライヴ・カセットをリリースした〈アセティック・ハウス〉が構えるアリゾナのイメージに引き摺られたからかもしれない。いや、あるいは近隣テキサスの、ロッキー・エリクソンやメイヨ・トンプソンといったアメリカン・ロックの魔境に棲まう狂犬の咆哮さえフラッシュバックさせたのは、言うまでもなく、前2作から曲調を大きく変えたそのサウンドにこそ因る。ロカビリー風の“ザ・ローズ・フェイヴァリット”や同じくリード・トラックの“ハウ・メニー”といったアップテンポはむしろ例外で、冒頭から5分台の“オン・マイ・フィンガーズ”や“ステイ”をはじめ地を這いずるロッカ・バラードと薄汚れたブルース・ロックで埋め尽くされた本作を眺めて、やはり3作目でアメリカン・ロックの深淵を覗き込むような変化を遂げたアークティック・モンキーズを連想したのは、自分だけだろうか。

そうした兆しは、昨年発表したシネイド・オコナーの“ジャッキー”のカヴァーのアレンジにも聴き取れたし、ダーティ・スリーかデス・イン・ジューンのようなアコースティック楽器が飾る“フォーエヴァー”や“プロウイング・イントゥ~”は、前出のロネンフェルトによるマーチング・チャーチとの関連性を窺わせなくもない。ないのだが――それにしても、“グラッシー・アイド~”の嗚咽に似た呻き、ニルヴァーナの“エンドレス・ネームレス”も思わせる“シンメリアン・シェイド”のダウナーな持続感は、どういうわけだろう。以前のハードコア・バンド然としたフォルムはここで、わずかに面影を残す程度にまで突き崩され、その精悍だった顔つきには泣き腫らした隈と険しくて深い皺が刻み込まれているようだ。

アイスエイジは、その象徴としてコペンハーゲンのアンダーグラウンド・シーンに属しながら、しかし、音楽的な表層や参照の部分では、たとえばその他の〈PI〉界隈のアーティストとは相容れぬ間柄も示してきたように思う。そういう意味では、それこそスタッズゴーアが謳う「エクスペリメンタル・ミュージックの世界都市」としての同地の文脈に置かれても、本作の恰幅を増したダークネスやヘヴィネスはいささかの引けを感じさせない。もう、“そういう音楽”だと思われていた場所に彼らが戻ることはないのだろう。そして――『ピッチフォーク』が寄せる歓待ぶりは多少前のめりが過ぎるとしても、こういう作品がインディ・ロックを親しむ層の間でしごく真っ当な評価と支持を集めていることに、希望を感じる。

文:天井潤之介

少し背伸びをしながら世界に立小便してみせる
デンマークの恐るべき子供たち

今から3年前、まだメンバー全員10代だったアイスエイジというバンドがデンマークから現れた時──そのことがコペンハーゲンのパンク・シーンに世界の目を向けさせるきっかけになったにせよ──彼ら自身はほんの氷山の一角でしかなかったのかもしれない。その小さな国には、彼らが1stアルバムでカヴァーしていたセックスドロームや、遅まきながら今年になって〈マタドール〉からデビューを果たしたロウワーといった、野心に溢れる無数の若きバンドがひしめいていたのだ。しかし早くも3枚目のアルバムとなる本作で、アイスエイジはデンマークのみならず、彼らの世代を代表するバンドに成長したと言えるだろう。

その変化の兆しは、アルバムに先立って公開された“ザ・ローズ・フェイヴァリット”のヴィデオにも顕われていた。煙草をくゆらせながら、シャンパンと女装した男性からのキスを浴びるフロントマンのエリアス・ベンダー・ロネンフェルト。ミート・パペッツを思わせるカウパンク風の曲調もさることながら、偶像としてのロック・スターを涼しげなポーカーフェイスで演じてみせる、その度量に驚かされたものだ。それはイアン・カーティスからニック・ケイヴに目移りしたと言うよりは、ヴィデオの監督も務めたカリ・ソーンヒル・デウィットや、エリアスもアルバムにヴォーカルで参加していたエイメン・デューンズことデーモン・マクマホンといったアメリカ人アーティストたちとの交流から、素直に影響を受けたものなのだろう。大胆な変化を受け入れることができるのも、若さゆえの特権だ。

なんでもバンドは地元を離れてスウェーデン北部の森に囲まれたスタジオに赴き、たった7日間でアルバムをレコーディングしたそうだが、そのスタジオに転がっていたという様々な楽器が、エリアスの書いた物語風の楽曲を盛り立てるための小道具として、巧みに使われている。マンドリンとディストーション・ギターがユニゾンでリフを奏でる“アバンダント・リヴィング“や、進軍ラッパのようなトランペットが鳴り響く“フォーエヴァー“。こうした新しい試みが、ドラマチックで視覚的な効果を上げているのだ。19世紀の教会で使われていたというオルガンとヴィオラが重なり合う“アゲインスト・ザ・ムーン”は、(フリート・フォクシーズの1stアルバムでも知られる)ベルギーの画家ピーテル・ブリューゲルの絵画「Pissing Against The Moon」に由来しているそうだが、水面に映った月に立小便をしてみせるというその情景は、なんともパンクでありながら、同時にどこか詩的でもある。

しかしタイトルが仄めかしているように、彼らは10代の鬱屈した感情やパンクの初期衝動から離れ、愛というテーマに足を踏み入れようとしている。その黒いハイヒールは、もしかしたらまだ大き過ぎるのかもしれない。けれどもそこには、愛を知らない若者が愛について語ろうとする時のような、危うさと色気があるのだ。

文:清水祐也

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