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TO PIMP A BUTTERFLY Kendrick Lamar (Interscope) by AKIHIRO AOYAMA
MASAAKI KOBAYASHI
March 26, 2015
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TO PIMP A BUTTERFLY

地を這うだけの幼虫から、美しく宙を舞う蝶となれ。
若きブラック・リーダーによる、気高く真摯なメッセージ

ホワイト・ハウスの前で裁判官を倒し、札束とシャンパンのボトルを掲げて祝福を上げる黒人たちの姿。このアートワークが公開された時、ケンドリック・ラマーの来たるべき新作が政治的・社会的に痛烈なメッセージを投げかけるレコードになると誰もが予感したに違いない。ここ数年、アメリカでは警官による黒人青年の射殺が各地で相次ぎ、アフリカン・アメリカンを取り巻く根深い人種問題が改めて顕在化している。その現況とこのアートワーク、そして黒人コミュニティにおける自尊心の喪失について扱った2つのリード・シングル“アイ”と“ザ・ブラッカー・ザ・ベリー”のテーマを鑑みれば、ケンドリックが新作で用意したメッセージがアフリカン・アメリカンの社会を啓発し、彼らを貧困と犯罪に追いやる政治的・社会的要因を糾弾する内容になるのではないかと想像することは容易だっただろう。しかし、実際に現ヒップホップ・シーンきっての天才リリシストから届けられたのは、そんな紋切型の白黒や善悪を描いた代物に留まることなく、奴隷制の時代から続くアフリカン・アメリカンを取り巻く困難の根深さを時に厳しく、時に慈しみをもって紐解き、黒人社会が抱える内面的な痛みと持つべき尊厳を身を切るような切実さで形にした、とてつもなく思慮深い思いが込められたマスターピースだった。

「全てのニガーはスターなんだ」とスウィートな歌声が響くラヴァーズ・ロックのサンプリングで始まり、ジョージ・クリントンの「ヒット・ミー!」の掛け声と共にフライング・ロータス参加の尖鋭的なビートへと突入する、鮮烈な“ウェズリーズ・セオリー”。この曲で描かれるのは、レーベル契約を果たし大金を掴んだ黒人アーティストの成功の余韻と、その成功を食い物にしようと近づく米国の搾取主の象徴たるアンクル・サムの姿。タイトルの「ウェズリー」とは、俳優として成功を果たしながら脱税の容疑で投獄されたウェズリー・スナイプスを指しており、確かな才能を持ちながらも無知ゆえに社会に食い物にされる結果を招く黒人の姿を象徴する「ウェズリーの理論」で、本作は幕を開ける。

その後、ジャズ・マナーの“フォー・フリー?(インタールード)”に続き、屈強なファンク・チューン“キング・クンタ”では奴隷制時代に何度も脱走を試み制裁として片足を切り落とされたクンタ・キンテを題材に、権力に屈しない黒人の尊厳を問い、“インスティテューショナイズド”では金と権力の「制度化」された関係がもたらす貧困について語られる。前半部で印象づけられるジャズとファンクへの音楽的傾倒は、ブラック・ミュージックの歴史に刻まれた誇るべき遺産への敬意であり、アフリカン・アメリカンが持つべき尊厳の在り処を指し示すかのようだ。

黒人社会を尊厳の喪失や貧困へと貶める社会的要因が語られた後、“アイ”と対をなす楽曲“ユー”辺りからアルバムは徐々にパーソナルな様相を強めていく。成功の後に降りかかる新たな重圧と不安、その最中にも自分を愛し続けることの難しさを沈鬱な面持ちで独白する“ユー”に続く“オーライト”から、曲をまたいで登場する「ルーシー」というキャラクターは、ルシファー=魔王を意味し、前半部の社会的搾取主=アンクル・サムに代わって一人の才能を食い物にしようとする内面的な負の側面を象徴する存在である。

才能や尊厳を食い物にする外的/内的なピンプとの尽きせぬストラグルの物語は、しかし、失意で終わることなく最後に強い意志と知恵を内包したメッセージへと辿り着く。ケンドリックが敬愛するヒップホップ・レジェンドの一人、2パックのパンチラインを母親の教えになぞらえ引用した“ユー・エイント・ガッタ・ライ(ママ・セッド)”から、自己愛に高らかな賛美を送るあの素晴らしきダンス・チューン“アイ”へ。ラストを飾る“モータル・マン”では2013年に逝去したネルソン・マンデラを筆頭に、黒人ひいてはマイノリティの尊厳を守るために死んでいった数多くのリーダーの名前を挙げながら、自身がその系譜に連なることへの決意と逡巡が語られ、次にヒップホップ・ヒストリーにおける最大の不幸の犠牲者となった2パックを先賢として交わされる、信仰、成功、音楽、ラップといった様々なトピックにまつわる対話が続く。先達からの知恵と意志を受け継いだ若きブラック・リーダー、ケンドリック・ラマーが最後の最後で口にするのは、このような気高く真摯なメッセージだ。

ストリートの囚人として、全てを食らい生き長らえるだけの幼虫の外皮を脱ぎ去り、才能豊かで思慮深く、美しい蝶になれ。その美しさを食い物にする社会や内面の脆弱さに屈することなく、恐れずに宙を舞え。お前たち、オレたちにはそれが出来るはずだ。幼虫と蝶の姿は全く違うように見えるかもしれないけれど、元を辿ればひとつの同じモノなのだから。

文:青山晃大

これはなんというアルバムなのだろう……

「Every Nigga is a star」と(サンプルで)歌われてから、本作が始まることで、これが、スターとなったケンドリック・ラマーのアルバムであることが知らされる。過去の出来事の再現/再構成で形作られていた前作『グッド・キッド、マッド・シティ』とは異なり、過去(や故郷コンプトンでの生い立ち)を振り返る時でさえ、今現在の彼の立場が強く意識された結果にしかすぎない。このアルバムは、彼にとっては、通算三作目、メジャーからは二作目に当たる作品だが、例えば、エミネム、あるいは、カニエ・ウエストにしても、キャリア上ほぼ同じタイミングで、スターとなった自分の物の見方/考え方の変化を大きく扱うと同時に、そこには常に内省的な視点がつきまとっていたことは、広く知られている通りだ。

「気がつくと、俺はホテルの部屋の中で叫んでいた」。これは、アルバムの5曲目“ジーズ・ウォールス”のアウトロの一番最後の言葉だ。アルバム全体を一度通して聴き終わった段階で、記憶にこびりつく言葉があったとしたら、これもそこに含まれるだろう。続く“ユー”は、実際に、スターとなったケンドリックの「叫び」で始まり、「Loving U is complicated」と狂ったように繰り返される。「U」とは、自分を客観視した時の「おまえ」に他ならないが、まず、自分を愛せよというポジティヴな先行曲“アイ”とは全く対照的だ。途中、ルームサービスにドアをノックされても気づかない、自責の念と酒の力にまみれた、この取り乱し方、錯乱状態は、例えば、“キム”でのエミネムといい勝負だ。

勿論、彼(ら)のことを演技過剰とみなす向きもあるかもしれない。ただ、本作の一曲目において、エミネム作品内と同じ、作品の主役を惑わすキャラとして乱入してくるドクター・ドレ擁する西海岸のN.W.A.、あるい、そのドレがフル・プロデュースしたスヌープ・ドッグ(“インスティテューショナイズド”に参加)、そして、なんと言ってもパブリック・エネミーといった面々のアルバムは、アーティストが演技過剰になる以前に、アルバム全体の作りがまずシアトリカル(演劇的)だった。どこから聴き出しても、ストーリーがつながる、ケンドリックの前作もまた、そこに並ぶ「作り込まれた」作品だが、その段階では、彼自身は一曲内で、自分以外の男女を含む三人の人物になり切った時でも声色を変えることはなかった。それに対して、本作の“コンプレクション(ズールー・ラヴ)”で、肌の色と歴史が絡んでゆく中で、女性MC、ラップソディの声が聞こえてくる瞬間は、その見事なライム・センスも加わり、素晴らしいし、新鮮だ。

シアトリカルなアルバムが、ヒップホップの歴史に残る名作リストの一角を形成していることは間違いないし、無意識のうちに、ケンドリックが今回もその伝統を継承したかのようにも思える。が、本作を聴き進めてゆくうちに、これはラップだけを聴かせようとしたアルバムではないこともわかってくる。一曲目を「歌」で始めたケンドリックが、早くも二曲目にして(本作では冒頭曲のみ手がけたフライング・ロータスとの昨年の共演曲“ネヴァー・キャッチ・ミー”を連想させるが)、20年以上前に同じLA出身のグループ、フリースタイル・フェローシップが切り拓いた、ヴォーカリーズにヒントを得たラップ・スタイルを披露する。勿論、彼らと同じように、彼もまたジャズにあわせてライムしている。

これが、7曲目“オーライト”のアウトロに至ると、例の「ホテルの部屋」云々の一節のあとにも、続きがあり、その何連からの言葉の連なりにより、これがライムではない「何か」であることに気づかされる。そして、その「何か」が、どうやら詩であることが、10曲目“フッド・ポリティックス”のアウトロにまで来ると判明すると同時に、このアルバムでは、ラップのリリックが、この詩の理解を助ける役割を果たしていること、さらに、ライムだと思って聴いていたものが、詩の一部であったこと(詩というものの構造を考えれば、当たり前の話なのだが)、ただし、詩(の部分)が始まるとバックには何も音がなくなり、彼の声しか聴こえない、いわば、ライムと詩の境界線をはっきりと印象付ける楽曲構成であることも確認できる。また、続く“ハウ・マッチ・ア・ダラー・コスト”がレディオヘッドの“ピラミッド・ソング”をベースに作られているために、彼らも、また、詩に対して異様に自覚的な作品を出していることに連想が働く向きもあるだろう。

この詩の行方を気にかけているうちに(勿論、メタファーや何やら無数に耳を惹かれる部分はある)、アルバムは一時間を超過してしまい、ラストの“モータル・マン”で、ようやく、この詩の全貌が明かされ(そのすぐ後にケンドリック自身がこれは詩とは呼べないと語)る。が、その後に、さらに、もうひとつの詩が、今回のアルバムの大半の曲にプロデューサーあるいは演奏者として関わっているテラス・マーティンの吹くアルト・サックスも聴こえる中、唱えられる。それは、ケンドリックの生きる世界について、彼の親友がしたためた言葉だと説明されるが本当だろうか?

本作は、言うならば、このふたつの詩を聴いてもらうためだけに作られたアルバムであり、その詩の完成に至るまでに、彼が自分自身と向き合うことで、内側から湧き出てきた言葉(よって、ケンドリックは、基本的に、最初から大上段に構えて社会的なメッセージを唱えているわけではないことに注意!)/楽曲を聴かされてきたことになる。さらに、言えば、彼にはその詩を誰よりも聞いてもらいたかった相手が「存在」していて、その人の前で、披露し、感想を訊く「場面(設定)」ができあがっていたのである。これは、なんというアルバムだろう……。

ライムと詩の境界は、例えば、ソウル・ウィリアムス(演者としては、舞台では2パック、映画ではマイルス・デイヴィスに扮したこともある)も積極的に取り組んだスラムあるいはポエトリー・リーディングという表現形式のなかで見えにくくなっていたとも言えるが、サウンドの面では、ジャズだけでなく、ドラムンベースとの融合/結合が何度も試されてきた。ザ・ルーツのように、デビュー作から、詩をアルバム内に意識的に内包し、『フリノロジー』のクライマックスでも、アミリ・バラカが自作の詩を読みあげるが、ここでも、ザ・ルーツの演奏は中間部でドラムンベース風のビートを組み入れていた。

だが、さすがに2015年だからなのか、ふたつの詩の完成に向けて、前作以上に様々なスタイルのラップを披露してゆく本作で、ケンドリックが選んだのは、父親や叔父がジャズ・ミュージシャンである環境で育ちながら、ア・トライブ・コールド・クエストの『ミッドナイト・マローダーズ』を聴いて初めてジャズの良さを噛みしめ、楽器を手に取ったというラッパー/サックス奏者/プロデューサーのテラス・マーティンをリーダーに据えたサウンド作りだった。曲によっては、彼が15歳の頃からの知り合いだというロバート・グラスパーの鍵盤の力も借り、フックではたびたびビラルに歌ってもらい、“インスティテューショナイズド”がJ・ディラの“カム・ゲット・イット”に酷似しているとなると、たとえ“キング・クンタ”がDJクイック風のファンク解釈であろうとも、ネオ・ソウルとヒップホップとの融合に関する実験を繰り返してきた、ザ・ルーツのクエストラヴ等を中核とする集合体ソウルクエリアンズの生まれ変わりが、本作のサウンドを担っているという錯覚も許されるのではないだろうか。また、本作では、ビートが打ち込みなのが気になる向きもあるかもしれないが、彼らとケンドリックの楽曲で取り上げられている要素にも共通点は多くはないだろうか。今はなき、その集合体の構成メンバーには、J・ディラやビラル、そして、T・マーティンがコラボを熱望しているQティップも含まれていたのだ。

そんなわけで、この『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』では、何かいかにも目新しいことをやろうとしたのではなく(インディのラップ・アーティストがやってきたようなことを、ケンドリックだから大メジャーでやれている!という批判的な意見も当然あるだろう)、その大きな土台となっているのは、ヒップホップ・アルバム作りの歴史の積み重ねである。この作品で、ケンドリックの発している言葉について言及しようとしたら、すぐに本が一冊書けてしまうほどだが、そういったことをひとまず脇に置いて、今までここに書いてきたようなことをまったく知らずに、本作を絶賛するリスナーがいるとしたら、少なくとも80年代後半から90年代末までに確立されたヒップホップのアルバム作りのスタイルは、まだまだ有効だということになるはずだ。これはなんというアルバムなのだろう……。

文:小林雅明

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