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KISS LAND
 
The Weeknd (Universal) by AKIHIRO AOYAMA
SOICHIRO TANAKA
October 28, 2013
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KISS LAND<br />
 

成功を手にした後のパラノイアと、
失われた日常を嘆くメランコリア

今も現在進行形でクリエイティヴな発展を見せるR&Bの新潮流を巻き起こす、直接の引き金となった2011年のデビュー・ミックステープ『ハウス・オブ・バルーンズ』を皮切りとして、R&Bシーンの次世代を担う新鋭として精力的な活動を続けてきたウィークエンドことエイベル・テスファイ。この『キス・ランド』は、長らく待望されてきた彼の正式なデビュー・アルバムである。ここでウィークエンドは、成功に伴うツアーによって否応なしに未知の世界へと放り込まれた彼自身のパラノイアと、その新しい生活と引き換えに安住の地や居心地の良い場所が失われてしまったことについての嘆きを歌う。

本作には、繁華街を節操なく彩る広告を思わせる、統一感のない派手な色とフォントの日本語が羅列されたブックレットがつき、“ビロング・トゥ・ザ・ワールド”のヴィデオでは日本が舞台となっている。ここでの「日本」は、理解不能の言語と文化に支配されたエイベルにとっての異世界のメタファーだろう。まるで異世界にでも迷い込んだように急激な人生の変化を体験した彼の困惑は、サウンド面でも色濃く反映されている。細やかな陰影の中に豊かなニュアンスが用意されていたミックステープ3部作とは異なり、本作のトラックは一様にエレクトロニックな音像で塗り込められ、パラノイアックで刺々しい。ポーティスヘッド“マシン・ガン”のサンプリングが攻撃的に響き渡る“ビロング・トゥ・ザ・ワールド”や女性の悲鳴がループする“キス・ランド”などは、カニエ・ウエストの『イーザス』にも通じる、不穏で挑発的なプロダクションだ。

ここでも「メランコリア」は彼の音楽性を表す重要なファクターとなっているが、そのメランコリアは以前とは少し毛色が違う。3部作までのそれが日常を薄っすらと覆うファジーなものだったのに対し、ここでのそれは、もはや取り戻せない過去となった日常の慎ましやかな幸福にまつわる強い喪失感に起因するもの。退屈だと思っていた街と日常は、失って初めて本当は居心地の良い場所だったと気付かされるが、そう気づいた時にはもう遅い。周囲の狂騒と自分本来の姿との間で1人葛藤する心情を吐露する“ラヴ・イン・ザ・スカイ”で、彼はこんな風に歌っている。「この波に乗ってしまえば、もう引き返すことは出来ない」。

本作は、言ってしまえば成功を手にしたアーティストの多くが古今東西問わず制作してきた、ありふれた「ポスト・サクセス」についてのレコードだ。そのテーマ自体に新鮮味はない。しかし、本作には、リリックからトラックに至るまで、急激な変化に直面した2年半の間に彼が感じてきた逡巡や内省、混乱が明け透けに刻印されていて、そこに一切の虚飾はない。その誠実さから辿り着いた新しい世界観が、偶然か必然か、カニエ・ウエストが提示したアーバン・ミュージックの新境地とも共鳴を見せていることに、ウィークエンドの非凡な才能を感じる。

文:青山晃大

新たなサウンドがきちんと発見され、それによってシーンが
すぐさま更新され、だが同時に、駆逐されうる残酷な世界の縮図

ここ数年の個人的なリスナー体験の話から。2012年の暮れ辺りから思うところあって、自分自身から新しい音楽を探し出すという生活から意識的に離れ、リアーナ、テイラー・スウィフト、ケイティ・ペリーといったチャート音楽ばかり聴いていた。これはこれで実りは大きかった。面白いんだもん。また、その後の米国のチャートが、ミックステープ・シーンの隆盛に端を発して、新たなヒップホップMCやR&Bシンガー、プロデューサーたちを諸手を挙げて迎え入れたこともあり、ドレイクやこのウィークエンド、OFWGKTA、フランク・オーシャン、ミゲルといったアクトばかり聴くようになった。と同時に、TVの音楽番組を通して、日本のチャート音楽もよく聴いた。そこから派生して、aikoが使う7thコードと、きゃりーぱみゅぱみゅ作品の中田ヤスタカの詩作には舌を巻くことになった。テイストの問題は別にして、ゼロ年代以降の米国メインストリーム・ロックを消化したONE OK ROCKだけが飛び抜けたクオリティを持っていることも理解した。AKBグループのメンバーの名前も200人は覚えた。曲だって同じくらい知ってる。何曲かはギター片手に歌うことだって出来る。さすがに飽きたけど。

少なくとも昨年一杯はこんな感じだった。振り返ってみれば、欧米とここ日本のポップ・チャートを自分なりに洗い直すことで、2013年におけるポップの定義を模索しようという時期だったのかもしれない。その間、〈マルチネ〉を筆頭にネット・レーベルを中心として、日本のビートメイカーやDJ、プロデューサーたちの数も質もとんでもなく豊かになり、多くの同世代の音楽ブログの力も助けになったのだろう、そのいくつかはきちんと発見され、多くの耳に届き始めた。インディ・バンド・シーンも然り。やはりいまだ全国区ではないにせよ、これほど日本のバンド・シーンの質と量の両方が賑わったことは、有史以来、ないのではないか。だが、それと反比例するように、メインストリームの音楽――特に所謂ロック・バンドの質は壊滅的と言っていいほど地に落ちた。TV見てる限りはね。でも、狼のかぶり物をしたバンドがスリップノットを筆頭に、懐かしのサウンドをポップ・フォーマットに乗せたりするのを眺めるのは楽しかったな。しかも、CDショップ大賞なんだってね。大半の小売店はもうポップ音楽を自分たちの力で育むつもりはないんだね。いい話だ。しかし、ここ日本でも屈指の音楽的知識とプレイヤビリティを誇っているはずのオカモトズのようなバンドが、珍妙なニューウェーヴ風味のディスコ・ソングをシングル・リリースするに至っては、さすがに萎えた。7秒くらいはめげた。資源の無駄使いとはまさにこのことだ。これはもはや音楽家だけの責任ではない。音楽家をつぶすのは、いつだってファンとスタッフとメディアなんだよ。優しい顔をした、寂しいやつらが音楽家を食い殺す。ねえ、小声で言うけど、誰か止めたらどうだい? 俺は嫌だよ。

それにしても、充実した数年だった。日本のメインストリーム以外は、とにかくポップ音楽がちょっとした充実期に向かっているのがよくわかった。実際、ジャスティン・ティンバーレイクのアルバムが1枚あれば、日本のチャート音楽の大半はまったく聴く必要がない。勿論、生まれ育った環境に知らず知らずのうちに洗脳されるのは仕方ない。しかもこんなにモノと情報に溢れてるんだから、あんたがこの胸くそ悪い文章に辿り着いたことさえ、奇跡だね。ご愁傷さま。でもね、いらないものは原発だけじゃない。あんたの部屋にあるもの、その何割かは無用の長物――地球全体に溢れ続ける膨大な資源ゴミだ。あんたが下らない音楽に癒され、心を高ぶらせることが、そのまま何に繋がってるか、想像したことあるよね。ほら、楽しくなってくるでしょ。わくわくするよね。

ようやくウィークエンドまで戻ってきた。俺が愛するウィークエンドだ。興味のない人に聴けとは言わない。だがウィークエンドの最初のミックステープ――2011年の1stアルバム『ハウス・オブ・バルーンズ』のダウンロード数は800万を超えた。この国でどうだったかは知らない。去年の〈コーチュラ〉もすごかった。すべてのトラックがマイナー・キーの、こんな憂鬱な、こんなダウンテンポの音楽に合わせ、大観衆が熱狂している。そんな世界もある。でも、まあ、俺が住んでる世界は、ルー・リード死去の報を受けて、YouTubeを“Satellite Of Love”で検索したら、素晴らしいバンドのさらに素晴らしい曲の映像が一番に上がってくる場所だから。

賛否両論あるアルバムだろう。これまでの3枚のミックステープ――昨年秋に『トリロジー』としてCD作品としてもまとめられている――と比べて、音楽的な何かが大きく更新された作品とは言いがたい。勿論、だからこその安心感もある。もはや当然のごとく、すべてのトラックはマイナー・キー。オートチューンいらずの微細なヴィブラートの見事さも変わらない。すっかり塞ぎ込んでしまって、もはや夢を見ることを忘れてしまったマイケル・ジャクソンとしてのエイベル・テスファイの声には、少しの衰えもない。ただ、これまでは60台から80台、速くてもせいぜい100を越えるかどうかだったbpmは、いくつかのトラックではかなり性急になった。ロール気味の16や32のハットやスネア――細かい刻みが増え、以前よりもビートの隙間に音が詰め込まれるようになった。ビートの音色も以前よりもさらに冷たいインダストリアルな質感が強まっている。そうしたいくつかの変化も含め、アルバム全体から強烈に伝わってくるのは、閉所恐怖症的な感覚だ。「ここから逃げ出すことは出来ない」という追い立てられるような感覚だ。

自分自身では処理しきれない過剰な情報量に巻き込まれた際の混乱を表現するのに、繁華街のけばけばしいネオンに浮かぶ日本語のフォントを使うという、リドリー・スコットの『ブレードランナー』に端を発した手法は、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』を経ることで、ちょっとした常套句にもなった。このアルバムのアートワークもまた、そうしたアイデアを使うことで、本作がそうした作品の系譜に連なることを示唆している。タイトル・トラック“キッスランド”のこんなリリックがアルバム全体のテーマを要約しているかもしれない。「21年間ずっと、同じ4つの壁を眺めることから出発して/ほんの12ヶ月の間に世界中の景色が過ぎ去って/俺がみつけたのは神だったのかもしれない」。

1stアルバム『ハウス・オブ・バルーンズ』の目玉のひとつは、タイトル・トラックにおけるスージー&ザ・バンシーズ80年のインディ・ヒット“ハッピー・ハウス”のサンプルにあった(この曲のジョン・マクガフが弾くアルペジオ・ギターは、ニューウェイヴ期最大のイノヴェーションだった)。ビーチ・ハウスやアリーヤのサンプル以上に。そのサウンドのみならず、意味においても、本作におけるポーティスヘッドのサンプルより遥かに衝撃があったし、表向きはそれを偽り、隠しながらも、明らかに瓦解していく関係性をモチーフにしたリリックの内容も含め、プラスαの必然もあった。本作の“アダプテーション”においてチョップト&スクリュードされたポリスの“ブリング・オン・ザ・ナイト”の不気味なサンプルも気が利いてはいるが、特に忘れがたい印象を残すほどではない。総じて、決して凡作ではない。だが、どこまでも暗く、憂鬱だが、いくつもの一度聴いたら忘れない魅力的なヴォーカル・メロディに溢れた1stアルバム『ハウス・オブ・バルーンズ』の衝撃には遠く及ばない。しかも、面倒なことに今は、昨年よりも一昨年よりもたくさんの、いくつもの新たな才能が凌ぎを削る2013年なのだ。

内省、憂鬱、自己憐憫――陰鬱なフィーリングを使って、そうした闇を生み出した社会を遠巻きに告発することにかけては、「インディR&B界のモリシー」とも言えるエイベル・テスファイの右に出る者はいない。彼はこの冷えた質感の憂鬱なサウンドをR&Bという世界に呼び込んで、それを刷新した。少なくともR&Bとインディ音楽のクロスオーヴァーは、ウィークエンドの存在なくしては起こりえなかった。だからこそ、彼がこのアルバムを作り上げる過程で格闘したのは、自分自身が作り上げた、偉大なるフォーミラという呪縛にほかならない。

欧米のポップ音楽における栄枯盛衰のスピードは恐ろしく早い。何年も前のサウンドがずっと不気味に長らえていく日本とは正反対だ。どちらが残酷なのか。それを判断するのはとても難しい。

文:田中宗一郎

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