ロラン・バルトによれば、写真とは「小さな死」なのだそうだ。そう言われてみると、森は生きているの1stアルバムに写っていた観覧車も、この2ndアルバムに写る空も、永遠に止まってしまったかのように見えるし、次に動き出す瞬間には消えてなくなってしまいそうな、そんな錯覚に襲われる。そういえばフランスでは眠りのことを「小さな死」と呼ぶそうだが、もしかしたら眠りもまた、死に向かう衝動なのだろうか。
稲垣足穂の『一千一秒物語』からタイトルが取られたという本作『グッド・ナイト』。正直言って、期待よりも不安のほうが大きかったかもしれない。即興音楽への傾倒や、1曲30分というフェスティヴァルでのセットリストといった断片的な情報が漏れ聞こえてくるにつれて、彼ら自身が前作で築き上げたバンドとしての枠組みから、大きく逸脱してしまうのではないかと思えたからだ。しかし蓋を開けてみればそれも杞憂に終り、本作は大きな成長と変容を見せながら、あくまでもポップ・ミュージックとしての範疇に収まった作品になっている。ともすれば飽きるまでポスト・プロダクションにおける実験を繰り返そうとするリーダーの岡田拓郎に対して、バンド・メンバーの存在が抑止力として働いたのだろう。その構造は、セルフ・タイトルの1stアルバムで大きな成功を収めた後、紆余曲折を経て『ヘルプレスネス・ブルース』に至ったフリート・フォクシーズにもよく似ている。
はっぴいえんどやザ・バンドからの影響を偲ばせていた彼らの1stアルバムは、どこか00年代初頭の“喫茶ロック”ブームを思い出させるものであり、本人たちの意思とは裏腹に、周囲の評価もそこに留まっていたように思える。しかし本作が連想させるのは、マグナ・カルタやストローブスといった70年代のプログレッシヴなブリティッシュ・フォーク・バンドであり、もっと正確に言えば、00年代にソニック・ユースのサーストン・ムーアが主宰する〈エクスタティック・ピース〉からリリースしていたサマラ・ラベルスキや、ウッズのメンバーも在籍したウッドゥン・ワンド&ザ・ヴァニシング・ヴォイスといったグループ、つまり即興やノイズ・ミュージックを通過した視点から、70年代のフォーク・ロックを甦らせようとしていた連中だ。彼らは俗に言う“フリー・フォーク”というジャンルに属していたアーティストで、このシーンは一定の盛り上がりを見せながらも、日本における理解者という意味で言えばほとんど見当たらないまま収束してしまったのだが、そこには極端にメロディに依存する日本と、海外における受容の違いもあったのだろうか。勿論、森は生きているが彼らを直接的に参照しているとは思えないのだが、シーンの一端を担っていたジェームス・ブラックショウから共作を依頼されるなど、ようやく日本でも本当の意味で海外と共鳴するバンドが現れたのは驚きであり、頼もしい限りだ。
しかしそれ以上にこのアルバムに惹かれる理由は、バンド名とは裏腹に、作品全体に漂う死の匂いだ。17分に及ぶ組曲をリード・トラックとして発表するという「商業的自殺行為」もさることながら、アルバムの至るところに散りばめられた、古いレコードや小説への偏愛。それは単にその作り手や書き手の多くが既にこの世に存在しないというだけではなく、残念ながら文化的にも死に瀕していると言わざるを得ない状況だが、古書店やレコード屋で働いた経験のある人間から言わせてもらえば、それはもはや一種の嗜好、ネクロフィリアなのかもしれない。けれども、そんな物言わぬ死者への一方的な情熱、一切の見返りや連帯を求めない彼らの態度こそが、この作品の純度を高めているのではないだろうか。アルバム中もっともポップスとしての普遍性を持った“気まぐれな朝”が、ジョン・レノンの死後、残されたビートルズのメンバーによって発表された“フリー・アズ・ア・バード”を思わせるというのも、そんな印象を強くしている。そこでは「星座なんて知らないほうが/空は不思議に見える」と歌われているが、現に今見えている星だって本当は何万年も前のもので、この瞬間にも消えてなくなっているかもしれないのだ。
目に見えるものが死んでいて、死んでいるはずのものが生きている――そんなことが、本当にあるのかどうかはわからない。けれどもこのアルバムの中にだけは、間違いなくそんな世界が広がっている。
今年の頭に三軒茶屋で久しぶりに見た彼らのライヴで、やおらハード・ロック風のリフが飛び出しメタリックなジャムがおっぱじまった時は、かなり唐突な印象だった。森は生きていると言えば……なんて、彼らの音楽に対して固定されたイメージを抱いていたわけではない。わけではないが、それでも「アメリカーナ」とか「ソフト・ロック」とか、「チェンバー・ポップ」とか適当なタームでその輪郭を把握していたところに思わずオーヴァーラップされたディープ・パープルやツェッペリンの残像は、やはり驚きだった。
持て余した音楽的素養や演奏力がなせるオカズのようなもの。とは明らかに異なり、堂の入った錬度の高さを窺わせたその場面を、本作『グッド・ナイト』収録の、テンションの張ったドラムに続いてエレキ・ギターが騒々しく割り入る“影の問答”のイントロダクションを聴きながら思い出す。そしてその一連は、たとえば『ユリイカ』を発表したジム・オルークが、「ロック・アルバム」と触れ込まれた『インシグニフィカンス』を経てルース・ファー――ウィルコのグレン・コッチェとジェフ・トゥイーディとによるアヴァン・アメリカーナ・ユニットの結成に至った流れも記憶に甦らせて、昨年のデビュー・アルバム以降の彼らが辿った音楽探求の軌跡へと想像力を強くかき立てた。
彼らがインタヴューで、本作の制作時に意識していた青写真として「フリー・フォーク」というワードを挙げていたのを興味深く読んだ。なるほど、ルーツ・ミュージックを滋養としながら多様な音楽領域と横断的に交わりサウンドの拡張を試みたフリー・フォークという志向というか有り様は、彼らが前作『森は生きている』で示した折衷主義と実験精神にどのような形や方向性のプログレスがありうべきかを探るための、格好の参照先でありヒントであったと思われる。中でも彼らと同じコレクティヴを引き合いに出すとするなら、ジャッキー・O・マザーファッカーやウッデン・ワウンド&ザ・ヴァニシング・ヴォイスといった名前が思い浮かぶところだろうか。たとえば前者が、初期の抽象度が際立ったスタイルをへてプログレッシヴなバンド・サウンドと歌やメロディ/ハーモニーへの意識を絶妙な按配で両立させた『ヴァレー・オブ・ファイア』とか2000年代半ばの作品などは、本作と並べても通りがいいかもしれない。
しかし、本作のサウンドは当然だが所謂フリー・フォークの混沌として猥雑なイメージとは異なる。2000年代におけるフリー・フォークの一部は、それこそ〈ノット・ノット・ファン〉のブラウン夫妻やサン・アロウ等へと人脈を引き継ぐ形で先鋭化しながら現在のUSアンダーグラウンドに散逸を見せたが、それはともかく、彼らが本作でフリー・フォークを経由して辿り着いた先はそうした様相と言うまでもなく別物だ。
漂白する砂漠のブルースが、ゆっくりとサイケデリックな黄昏色に染め抜かれ、その立ち込めた紫煙の先から、やがて瑞々しいラウンジ・ポップの弾む足取りが聴こえてくる――。まるで、ティナリウェンとヴォルケーノ・クワイアとカクテルズがクロスフェードするような組曲“煙夜の夢”は、やはり本作において特別であり目覚ましい。器楽の配置やアレンジに見せる妙味とそれを活かす演奏の卓抜さはさることながら、サウンドのテイストも流れる時間の感覚も異なる楽曲を繋ぎ合せて、通底したシークエンスを創出する構成力。その構成を支える一貫した彼らの美点とは、ありふれた指摘であることを許してもらえれば「歌」であり、そして「歌」を担保するあらゆる所作に他ならない。組曲仕立ての中盤を成す“空虚な肖像画”ではヴォーカル・ハーモニーが音響的な演出をもたらしているが、つまりプロダクティヴな創意工夫とソングオリエンテッドな情緒趣向のあわいを縫う、あるいは前者がいかに深い部分へと分け入りながらも後者に収斂を見せるところの巧みさこそ、彼らの音楽に魅了されるゆえんであることを本作を聴いて再確認する。“煙夜の夢”が示す手数と振れ幅は、本作を濃縮したエッセンスであり、アルバム全体と入れ子構造の関係で聴くことができるのも面白い。
“磨硝子”のアウトロを飾る幽玄なインストゥルメンテーションや、転じて、“風の仕業”の気まぐれに聴こえる牧歌的な管楽器の音色。“青磁色の空”や“グッド・ナイト”の間奏/コーラスの背後で鳴る、耳を澄ませなければ気づかないかもしれない細かな電子音のノイズ。本作には、耳に残る忘れがたい瞬間がいくつも散りばめられているが、しかしながら、そうして深みを増した音の陰影感は、デビュー・アルバムにあった音の階調感、濃淡の滑らかな音色と等価交換されたものではない。たとえば「radical」という言葉には、「革命的・急進的」という意味と、もう一つ「根本的・基礎」という意味がある。一見すると相反するようだが、ルーツ・ミュージックに根を張りながら、大いなる余白に向けて幹を伸ばし枝葉を広げる彼らの音楽は、なるほどフリー・フォーク然り、まさに「radical」という形容がふさわしいと思うのである。