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fam fam never young beach (Roman / bayon) by ATSUTAKE KANEKO
SHINO OKAMURA
September 28, 2016
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fam fam

1stのヒットがフロックではなかったことを証明する力作
「20年後の“青春狂走曲”」=“fam fam”の素晴らしさ

大きな話題を呼んだデビュー作『YASHINOKI HOUSE』は、受け取り方によって評価の分かれる作品だったように思う。「トロピカル」をキーワードに、細野晴臣譲りのフォーキーなメロディと、00年代ブルックリン以降のインディ・ロックを組み合わせるという、コロンブスの卵的な発想は見事時代にハマり、踊ってばかりの国やシャムキャッツを(状況的には)一気に追い抜くだけの瞬発力の高さがあったことは間違いない。しかし、逆に言えば『ヤシノキ・ハウス』が最も評価されたのはその「組み合わせの妙」であり、ある意味では最初から完成した作品を発表してしまったがゆえに、果たして彼らがこの2ndでさらなるブレイクスルーを果たせるのかに関しては、正直不安もあった。しかし、安心してほしい。結成から2年弱を経て固い絆を構築してきた5人のファムは、本作で見事にバンドの地力を証明してみせた。

全体的な作風に関しては、大きな路線変更があるわけではない。一曲目の“ピンク・ジャングル・ハウス”こそファットなベースが先導するグルーヴィなダンス・ナンバーだが、それ以外は前作からの延長線上にある、音数の整理された軽快なポップ・ナンバーが並んでいる。ただ、宅録ユニットからバンド・スタイルへと移行して間もない時期の録音だった前作に対し、その後頻繁に行われるようになったライヴによってアンサンブルのまとまりは大きく向上しているし、ギターに林宏敏、ドラムに佐藤謙介という踊ってばかりの国の人脈をテックに迎えるなどして、録り音の状態も良好。スタイルの目新しさに頼らなくとも、シンプルに楽曲のクオリティだけで勝負できる作品になっている。

個人的なベスト・トラックを挙げるなら、それはもうダントツでタイトル・トラックの“fam fam”だ。ボ・ディドリー・ビートをベースとしたストレートなロックンロール・ナンバーであり、言ってみれば、前作での影響源のひとつだったリトル・ジョイからストロークスへと先祖返りをしているわけだが、ジュリアン・カサブランカスのあのぶっきらぼうな歌い回しを、ここまで肩の力を抜いて日本人らしく消化できたシンガーはいなかったかもしれない(そして、単純にメロディが素晴らしい)。そもそも、「はっぴいえんどリヴァイヴァリスト」という意味においては、90年代にサニーデイ・サービスという大先輩がいるわけだが、「どんな感じだい? 調子はいいかい? 僕ならこんな感じさ」という歌詞も相まって、“fam fam”は「20年後の“青春狂走曲”」と呼びたくなる。

本作はバンドの成功の一方で訪れた、母親との死別が作品の背景となっていて、“fam fam”や“夢で逢えたら”など、「別れ」をテーマにした歌詞が目立ち、特にラストの“お別れの歌”での安部のヴォーカルはいつになくエモーショナル。サチモス、オーサム・シティ・クラブ、ラッキー・テープスなど、今年発表された同世代バンドたちの新作を聴いても、その多くが自らの内面と向き合ってアイデンティティの確立を目指さんとする、どこかヒリヒリした部分を感じさせる作品であることがとても印象的だ。「シティポップ」という言葉のきらびやかなイメージが見えにくくしていた音楽家としての芯やパーソナルを刻んだ良作が、2016年のムードを規定しているように思う。

文:金子厚武

責任と無責任との狭間から放たれる
快楽と訣別のポップ・ミュージック

ニッポン無責任ポップス。never young beachの作品を聴いているとそんな勝手なコピーをつけたくなる。いや、実際にはこのバンド……わけてもリーダーの安部勇磨は音楽にことのほか真面目だ。演奏面から普段の行いまで他のメンバーに厳しくダメ出しをすることもしばしばだそうだし、曲を作る時もかなりストイックに集中するという。でも、その作品に触れると、クレージーキャッツの人気映画『無責任』シリーズの要領良く昇進するサラリーマンの植木等さながらに、表現者としての責任の重さをスルリスルリとうまく交わしながら飄々とポップスの旨味を獲得しちゃっている印象を覚えるのである。なんだかうまいことやってるな、というあの感じ。

そんな安部が珍しく(と言っては失礼だろうが)歌の中で自分に責任を持たせたのが“夢で逢えたら”という、いつになくシリアスな歌詞を持つ曲だ。旋律はメロウでほんのりと明るいが、「あなたに夢で逢えたら/溢れる言葉を繋ごう」と、歌の向こうの貴方としっかり約束するかのような強い言い回しが目にとまる。刹那という言葉さえ重過ぎる、とことんナイスでろくでもなくていい感じの今の気分を、ただし勿論自覚的に綴ることで、ポップ・ミュージックが長らく見失っていた徒花スレスレの軽やかさを盤の中にもたらしたnever young beach。はっぴいえんどやらシュガーベイブやら何やらと過去の偉大なるレジェンドたちと比べられたって、いやいやマック・デマルコだってデヴェンドラ・バンハートだってストロークスだってアラバマ・シェイクスだって好きだし、俺ら今のバンドだし、とニコニコしながらケツまくって楽しげにステップを踏んできた彼らにしては極めて情緒的な、ある種の決意すら感じられる曲になっているのには驚くばかりだ。そして、この“夢で逢えたら”で覗かせるセンチメントが後半……“明るい未来”“お別れの歌”と続くラスト2曲にも引き継がれていく。演歌のようなビブラートが全編に渡って強調された本作での安部のヴォーカルも、この3曲からは抑え切れない嗚咽が伝わってくるようだ。

安部がとりわけこの3曲になにがしかの決意を込め、ニッポン無責任ポップスたりえた自身のオープンでライトなアイデンティティに少し距離を置こうとしたのは、そこに「訣別」という誰も抗えない運命と向き合ったからだろう。愛する人、仲間、身内……それが誰かはわからない。だが、特に“夢で逢えたら”で綴られた別れは哀しみを抱えたままなのにあまりにもロマンティックだ。リリックの組み方もこの曲においては彼らのこれまでの曲の中でも立体的で秀逸。最初のブロックの語り部は「僕」、二つ目のブロックはその語尾からどうやら女性ということがわかる。その後は、「僕」と「彼女」それぞれの独り語りを交錯させることで、これが互いの誓いであることを歌の中に焼きつけている。別れの歌は往々にして残された側の呟きに終始することが多いが、この曲は全くそうではない。安部にこうした曲を書かせた訣別は、しかしながら、かくも豊かで晴れやかな情緒を安部から引き出した。

これが実際に訣別する前に交わされた約束なのか、想像の産物なのか。だが、そんなことはどうでもいいだろう。安部の愛する女性だったのかどうかも詮索する必要はない。タイトルにある「fam」というのはファミリーを略したものだが、転じて家族同様の仲間、という意味を持つ。仮に愛した女性だったとしても、安部がその相手を大切な仲間の一人として大きな枠組みの中で捉えていたということが他の曲とのバランスの中で浮き彫りになっていることが重要だ。仲間こそが全て。でも互いに頼り切るのはよそう、俺は俺で頑張る、お前はお前で頑張れ、だからいつかまた会おう! とでも言うような清々しいメッセージ……。だから、全く重くはない。

ニッポン無責任ポップスはやっぱりニッポン無責任ポップスのままだ。彼らがライヴ直前のサウンドチェックでサラリと披露していた高田渡の“自転車にのって”をここでとりあげているのも、特に深い意味があるようにも感じないし、好きだからやってます的な気楽な演奏になっている。楽しさよ今夜もありがとう。哀しみだってこんにちは。こんな喜怒哀楽がポップスにあったっていいじゃない!

文:岡村詩野

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