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NOTHING WAS THE SAME
 
Drake (Universal) by MASAAKI KOBAYASHI
AKIHIRO AOYAMA
October 30, 2013
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NOTHING WAS THE SAME<br />
 

紋切型の“男らしさ”から逃れる稀有なラッパー
さらなる逸脱の輪を広げ、確立した唯一無二のスタイル

元カノにドレイクの曲のリリックをそのままテキスト・メッセージで送ったら、反応は? こんな一見ふざけたような企画が某媒体で成立してしまうほど、ドレイクといえば、元カノへの断ち切れぬ想いを綴る輩というのが、今や共通認識となっている。より正確に言えば、つきあったオンナには未練がましいくせに、ラッパーとしてはスキルもカネもある自分はピンプのようにモテモテだとドヤ顔でライムするのが、彼のスタイルだ(2007、8年頃の別名ハートブレイク・ドレイクに、その相容れない両面が反映されていた)。ジャンル分けが好きな米国の音楽産業の基準にあてはめても、未練を歌うR&Bなのか(本作からのシングル“ホールド・オン、ウィア・ゴーイング・ホーム”では最後まで歌い通している)、悪羅悪羅言ってるドヤ顔ラップなのか(前作も本作もアルバムは“後者”のスタイルで幕を開ける)、煮え切らないし、何よりも、紋切型の“男らしさ”に重きを置く凡百のラッパーと、そのリスナーたちからは、なんだありゃ?と指をさされることになる。と同時に、女性リスナーからすれば、未練がましい男が好きか否かは別にしても、常に、きちんと自分たちのほうを向いて、他のラッパーが言いたくても言えない、或は言えない(ヤワな奴だと一笑にふされてしまうため)、微妙な男心を包み隠さず打ち明けてくれるということで共感を誘う、得難いラッパーでもある。

となれば、サウンド面においても、いわゆるヒップホップ・ビートよりは、R&B寄りの、あるいは、R&Bフォーマットのプロダクションのほうが相性がいいはずだ、という話になるし、そこまでなら誰でも想像できる。しかし、そこに留まることなく、“その先”を目指してきたのが、ドレイクなのだ。ブレイクのきっかけとなった2009年のミックステープ『ソー・ファー・ゴーン』から、プロデューサーのノア“40”シェビブと徹底的に話し合って作品を作り上げ、そこでは、ドレイク自身が愛好する(ヒューストン・ラップへのオマージュでもある)スクリューやカナダのチリー・ゴンザレスのピアノ・ソロも取り込まれ、今で言う“インディR&B”のさきがけとも言えるサウンドとなっていた。それを研ぎ澄ましたのが、アルバムとしては二作目にあたる前作『テイク・ケア』で、収録曲“マーヴィンズ・ルーム”(ピアノはゴンザレス)では、酔った勢いで(酩酊感がスクリューで表現されている)元カノの携帯に電話をかけて、彼女の現在の交際相手より俺のほうがましだとほのめかす始末。その極私的な空間が、例えば、本作で、ジェネイ・アイコが元カノとしての目線で、あなた愛することに臆病なのねと歌う“フロム・タイム”では少し変わってくる。そこでは、ドレイク自身の父、母、それぞれとの逸話が織り込まれているため、ドレイクの創作であるにも関わらず十二分に説得力や普遍性を持っていた前作収録の“テイク・ケア”(ジェネイと同じ役回りをリアーナが担っていた)や“マーヴィンズ・ルーム”と比較しても、その空間に別の広がりが出てきている。“フロム・タイム”以外にも今回のアルバムの随所で、ドレイクしか知らない事実をリリックに具体的に落とし込むことで、彼の恋バナ=彼のスタイルにも、これまでになかった厚みが加わっているのだ。

実際、フローレンス&ザ・マシーンによる“テイク・ケア”のカヴァーでは、歌詞は原曲のままだったが、いち早く“フロム・タイム”をカヴァーしたジェシー・ボイキンス三世は、ドレイクのパートのリリックをすべて差し替えている。“テイク・ケア”のトラックでは、ギル・スコット=ヘロンの“アイル・テイク・ケア・オブ・ユー”のアカペラを使ったピアノを主体としたジェイミー・XXによるハウス・リミックスが引用されていたが、今回は前述のチリー・ゴンザレスが弾く“フロム・タイム”のピアノの響きも強い余韻を残す。後者の楽曲そのものは(今回もアルバムの大半を手掛けたプロデューサーの)“40”とのセッションの成果だというが、ゴンザレスのアルバム『アイヴォリー・タワー』から聞き取れるイビサ・チルアウトな側面が、音色の好みという点では、本作全体に意外にも影響を与えているようにも聞こえる。これがカナダの二人組プロデューサー/アーティスト、マジッド・ジョーダン客演・共作の“ホールド・オン、ウィア・ゴーイング・ホーム”(これは、ドレイクが、彼女か誰かに向かって言っている言葉であり、自分自身に言い聞かせている言葉でもある)になると、ぐっとディープ・ハウス寄りで、しかも、一聴して明らかにディスコ/ブギーへの理解(ゴンザレスが参加したダフト・パンク『ランダム・アクセス・メモリーズ』の大きな立脚点でもある)を示したビートであるのがわかる。ドレイクが、ピアノ・ソロがかなり好きなことは“トゥー・マッチ”でも気づかされる。正直、これは、サンファの曲で、ドレイクがフリースタイルをしているような印象が強いが、このサンファも、アメリカ基準のR&Bの枠には到底収まりきれない、非常に同時代的な感性を持ったUKの自作自演のソウル・シンガーだ。

そもそも、ラッパーとしては、既存のアーティストのスタイルから逸脱あるいは矛盾したそれを、早くに確立していたドレイク(とプロデューサーの“40”)にとって、そのスタイルを活かすも殺すも音楽性一つだ。その意味では、ラップがワンパターンとの誹りを受けようが、同じような内容に聞こえるリリックであっても、新たな工夫を施した上で、音楽的に逸脱の輪を緩やかに、それでいて、確実に広げた本作は、もはや、これはドレイクにしかできないスタイルだとしか言いようがない、聴く者にそう確信させる水準にまで達した作品だと思う。もしかしたら、アルバムも三枚目を数えたところで、タイトルを『ノッシング・ワズ・ザ・セイム』(同じのはなかった=全部違ってた)とすることで、彼は自分と関係を持った元カノの数の多さをドヤ顔で自慢したかったのかもしれない。と同時に、三枚目に至って、それまでのもの(言い換えれば、作品)との“違い”を強調しているのだとしたら、同じように聴かれてしまうことに対する危惧と、もうこれ以上(つまり、次作以降)これまでとは同じことはできない、との宣言にも聞こえはしないだろうか。

文:小林雅明

どこまで行っても不安で惨めったらしいままの、
およそヒップホップらしからぬ若き王者の憂鬱

09年のデビュー以来、これまでにリリースした2枚のアルバムはどちらも当然のように全米1位を獲得。この最新作も初週だけで68万枚を売り、今やカニエ・ウエスト、ジェイ・Z、リル・ウェインといった超大物にも全く引けを取らないどころか、彼らを凌ぐほどの勢いを見せるスーパースターとなっているのがドレイクだ。現在、威勢の良い若手がひしめくヒップホップ・シーンの王座に腰を据えているのは間違いなくこの男。しかし、同時に彼はヒップホップの世界に自己憐憫、内省、不安、憂鬱といった感情を持ち込んで成功した、およそヒップホップ・スターらしくないヒップホップ・スターでもある。そのせいで、彼は昔から今に至るまで、一部のヒップホップ原理主義者からは憎まれ蔑まれる存在でもあった。

この3rdアルバム『ナッシング・ワズ・ザ・セイム』には、彼を嫌う連中に対しての当てこすりや恨み節が端々に登場する。まず冒頭を飾る“タスカン・レザー”から、いきなり自らの成功を当てつけのようにラップ。この曲は6分を超える長尺でありながらコーラスのないラップ・ソングであり、前2作のオープナーがどちらも美しくセンチメンタルな情感を湛えた歌をフィーチャーした楽曲だったのとは対照的だ。その後も、“スターティッド・フロム・ザ・ボトム”では「ボトムから始めて、今オレたちのチームはここにいるぜ」と声高に宣言し、“ワースト・ビヘイヴィアー”では「マザーファッカーがオレたちを愛してくれたことはなかった」と恨み節を繰り返している。また、ウータン・クランの97年作のタイトルをそのまま引用し同作収録の“イッツ・ユアーズ”をサンプリングしながら、いかにもドレイクらしい惨めったらしさで女への未練を語る“ウータン・フォーエヴァー”などは、原理主義者の神経をわざと逆撫でするかのようでもある。本作は、彼の事をラッパーとして認めようとしない、ヒップホップ・シーンの一部に蔓延る「ヘイト」に対して彼らしいやり方で答えた一枚とも言える。

ここで、サウンドについても触れておくべきだろう。前作『テイク・ケア』でジェイミー・XXとギル・スコット=ヘロンのコラボ曲を大胆に使用するなどして、R&Bからエレクトロニカやポスト・ダブステップを股にかけるエクレクティックなプロダクションを見せたドレイクと彼のパートナー、ノア“40”シェビブの手腕は、ここでも実に冴えている。ロマンティックな感傷を感じさせた前二作と比較すると、全体的に削ぎ落とされミニマルな印象を受けるが、ピアノや電子音のメランコリックなループ、ハウスやビート・ミュージックからの反響が聴こえる多彩なビートはどれも繊細で情緒豊か。ハドソン・モホークが参加した“コネクト”、サンファの美しいくぐもりを湛えたヴォーカルをフィーチャーした“トゥー・マッチ”など、前作同様、現行のUKダンス・カルチャーへの目配せも忘れていない。

『サンク・ミー・レイター』と『テイク・ケア』が「不安に駆られて惨めな自分」を極めたアルバムだったとすれば、本作は王座を手にしていくらかの自信を得ながらも、いまだにどこか不安で惨めったらしいままの、「王者の憂鬱」についてのアルバムである。弱い自分を徹底的に曝け出す、彼の表現の根本的な部分は今も全く変わっていない。そして、ヒップホップのステレオタイプとはかけ離れたそのドレイクらしさが失われない限り、彼の時代はしばらく盤石だろう。

文:青山晃大

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