ヘルメットとマスク以外は、真っ裸。3月18日、ロザリアの3作目『モトマミ』のアートワークとサウンドのセットに、度肝を抜かれた。それから5週間後、少女時代に頭蓋骨にチタン・プレートを埋め込まれたがために車に欲情するアレクシアが主人公の仏白映画『チタン/TITANE』で、仰け反った。『モトマミ』を貫くコンセプトは、カワサキのバイクだ。
2022年は、一体どうなっているのだ。西ヨーロッパでは「金属と肉体」がテーマとして流行っているのか。スペインの伝統音楽、フラメンコを思いっきり現代、いや近未来形にしたロザリアと、愛情を注ぐ先が一貫して倒錯している、殺人兵器のようなアレクシアを描いてカンヌ映画祭のパルム・ドールをもぎとったジュリア・デュクルノーは、2020年の制(製)作時期に2022年にさらに東に位置するヨーロッパで、金属がもっとも禍々しく使用される事態=戦争が近づいているのを図らずも予知したのか。あ。誤解を生まないように注釈すると、『モトマミ』は暴力的な作品ではないし、『チタン/TITANE』は(めちゃくちゃ)暴力的だけれど戦争とは関係のない愛の話だ。ただ、戦争を予知するかのように鉄の匂いを纏った刺激的な作品が生まれたことに、驚いたのだ。時として、優れた芸術作品は時代の匂いを敏感に嗅ぎつける。
ロザリアを語るとき、私は古今東西の芸術家を引き合いに出したくなる。彼女は10代半ばからしっかりした音楽教育を受けた人だ。天性のソプラノ・ヴォイスを惜しみなく聴かせるフラメンコ流儀の曲と、あえて狭い声域しか使わずにレゲトンを土台にしたミニマムなダンス・ミュージックとのあいだを行ったり来たりするのが、本作の聴きどころ。その聴きどころへの落とし込み方で、私はまずキュビズムを思い起こした(パブロ・ピカソ先輩!)。それから、シュルレアリスムに分類されるマンディアルグの小説に『オートバイ』があったなぁ、とも連想した。実際、マンディアルグの小説のイメージは『チタン/TITANE』にも通じる。またメキシコの画家、フリーダ・カーロを意識したようなユニブロウ(一本眉)も、ヴィデオで披露してもいる。
ここでゴシップを。13世紀の恋愛小説『The Romance of Flamenca』を下敷きにした前作『El Mal Querer』は全11曲中8曲が、当時のボーイフレンド、セー・タンガナとの共作である。あの2ndアルバムから極東のあっさり系島国では受け止めきれないほどの濃密なフェロモンを聴き取ったとしたら、そこに理由がある。念のため記すと、セー・タンガナはスペインのトップ・ラッパーであり、当時は知名度で彼が優っていた。2018年にその関係が終わり、“La Noche De Anoche”で共演したバッド・バニーとちらっと噂になり、いまの恋人は新レゲトン・キング、ロウ・アレハンドロだ。ロザリアはスペイン語圏のポップ・カルチャー切ってのモテ女、と書いても差し支えないだろう。このモテっぷりは、よく引き合いに出されていたリアーナを思い起こすし(クリス・ブラウン→ドレイク→アラブの大富豪→エイサップ・ロッキー)、「前衛的」というパワー・キーワードでつながるエリカ・バドゥ(アンドレ3000→コモン→ザ・D.O.C.→ジェイ・エレクトラ)を重ねてもいい。彼女たちは交際相手のミューズになりながら、その恋愛から養分を得て自分のアートへ昇華させる凄腕たちだ。ちなみに、エリカが『ママズ・ガン』を、ディアンジェロが『ヴードゥー』をレコーディングしたグリニッジ・ヴィレッジのスタジオ、エレクトリック・レイディで、ロザリアは『モトマミ』の数曲を録音している。霊感がそれほど強くない私でも、「おっと。ジミヘンのスピリット(精霊)が宿ったままだわ」と感知した、ちょっぴり怖い歴史的なスタジオだ。
ビリー・アイリッシュ、トラヴィス・スコットなどから共演のラヴコールを受け、向かうところ敵なしに見えるロザリアでも、目立てば必ず叩かれる2020年代特有の現象から逃れられない。まず、フラメンコを巡る「文化の割当(Cultural Appropriation)」問題。フラメンコはスペインでも被差別側であるロマ族の音楽が土台であり、それを恵まれた出自のロザリアが前面に出して大成功するのはいかがなものか、と槍玉に挙げられたのだ。元宗主国のスペイン人である彼女が、元植民地出身者が多いヒスパニックの音楽であるレゲトンを取り入れることに違和感を唱える記事もあった。ザ・ウィークエンドとの“ラ・ファマ”も無傷ではなく、ドミニカ共和国のダンス・ミュージックのバチャータを取り入れているのだから、ドミニカ出身のアーティストをフィーチャーするべきだ、というコメントを目にした。ロマ族の件は、ロマ民族の活動家であるノエリア・コルテスさんからでた意見であり、一聴に値する。ロザリア本人は、フラメンコにたいする想いを語ってやんわりかわした。私がこうやってフラメンコについて熱心に調べていること自体、マイナスよりプラスが大きいように思うのだが、彼女の音楽にさまざまな音楽、文化のDNAが交錯している以上、軋轢も出るのはしかたないだろう。
そして、フラメンコと同じくらい『モトマミ』の至るところにまぶされているのが、ハポネ、日本である。変態にテリヤキチキン、桜。曲名だけで3つもある。“サクラ”は散り際が美しいから、とインタヴューで答えていたロザリアは、animeやmangaを入り口にしながらも、日本文化の本質を捉えている。“テリヤキチキン”は、ロウ・アレハンドロとニューヨークをうろうろしていたきにできた曲だそう。この曲を聴くたび、私はニューヨークで最後に住んでいたアパートのすぐ隣に、日本人経営ではないテリヤキチキン屋ができてその絶望的な不味さに腹を立てた過去を思い出す。ロザリアが食べたのはおいしいテリヤキチキンだったことを願いつつ、ブルックリンにテリヤキチキン専門店ができたこと自体はおもしろがるべきだったかも、と心境の変化があった。それくらい、『モトマミ』のミクスチャー具合には「勘ちがいはあるにしても、お互いの文化をありがたがるのはすてきじゃない?」というメッセージが宿っているのだ。
“ヘンタイ”は、こちらも日本好きとして名高いファレル・ウィリアムスのプロデュースだ。フランク・オーシャン、ザ・ウィークエンドなど、モンスター・アルバム『モトマミ』を制作するうえで、ロザリアをサポートした大物たちのなかで、もっとも影響を受けたのがファレルだとインタヴューで答えていた。20才年上のファレルは彼女にとって憧れのプロデューサーであり、そういえば彼もミクスチャーが得意。リリースされてから2ヶ月弱、「ひょっとして、そのうちスペイン語を話せるようになるのでは?」(ならない)という勢いで、私は『モトマミ』を聴いている。もの珍しく、刺激的なサウンドに慣れても魅せられ続けている理由は、彼女の歌声だ。天使のようなソプラノから、声優ばりのアニメ声、本職に負けないラップ。このアルバムに参加している「本職」はドミニカ共和国のラッパー、トキーシャである。彼女との共演はもろデンボーだった2017年“Linda”以来2回めで、今回の“La Combi Versace”もゆるくデンボーが入っている。デンボーはシャバ・ランクスのダンスホール・クラシック、“Dem Bow”から派生したリズムを使い倒しているドミニカ共和国の音楽。レゲトンのいとこみたいなジャンルで、シャバとこれを作ったスティーリー&クリーヴィーがすごい、という見方もできる。『モトマミ』を解析すると、さらに細かい音楽的なDNAが出てきそうだが、キリがないのでこの辺にしよう。コロナ禍が許すかぎり多くの都市を巡りながら作ったという本作。時代や場所、ジャンルをぶっ飛ばす疾走感がいかにもオートバイっぽくて痛快だ。乗れないけど、バイク。
「ミュージシャンとしての個性を打ち立てるには、たくさんの音楽を聴かないと駄目」。いざ言われると、ありふれた意見だ。特に、シンガーソングライター領域だと当然とされる類だろう。それどころか、情報が溢れる今、受け手であるリスナー間ですら「音楽好きならあの名盤は聴いて当然」といったプレッシャーは珍しくない。ただ、言葉の主がロザリアなら、見方も変わってくる。
『モトマミ』は、おもちゃ箱をひっくり返したようなアルバムである。お得意のフラメンコはもちろん、レゲトンからバチャータ、ヒップホップにシンセイザー、ハイパーポップまで、目まぐるしくサウンドが展開していく。当人いわく、ジェットコースターのような「音楽的自叙伝」。おおよそ29年の人生で愛してきた「たくさんの音楽」を42分にめいっぱい詰め込んでいるのだ。
音楽好きなら誰もが憧れそうなコンセプトは、ロザリアという音楽家とベストマッチだ。近二作でフラメンコを現代大衆化させた彼女の創作衝動は「聴いたことのない音を創ること」。ジャンル・ブレンディングはすっかりチャート・ヒットのスタンダードになったが、彼女の場合、それぞれジャンルと規定されるサウンド形態を解体してつなぎ合わせる──ファレル・ウィリアムスがいうところのフランケンシュタイン博士的な──実験家に近い。
その実験性をアグレッシヴに拡張させた『モトマミ』の未知なる荒野は、自由に満ちている。蝶のような「変身」をテーマにした本作の支柱になっているのは“サオコ”にも登場する盟友、フランク・オーシャンの言葉。「Frank me dice que abra el mundo como una nuez./Frank tells me to open the world like a nut.」、直訳するなら「ナッツをこじ開けるように世界を開け」……といった風だが、「nut」というワードにはさまざまなニュアンスがあるため、受け取り方は人それぞれだろう。その開放性こそ、ロザリアがお気に召した点だ。フランクの言葉と同じく、変身を繰り返す『モトマミ』の楽曲はさまざまなコンテキストで捉えることができる。
確かなのは、『モトマミ』がナッツのように世界を開いたことだ。未知性、いわゆる革新性を認められ、リリース早々に年間最高の評価を確立したのだから、今後さまざまなコンテキストが探求されていくだろう。ただ、定評が確立する前に、大切にしておきたいフィーリングもある。自分にとって、この「音楽的自叙伝」を特別たらしめているのは、制作にあたって子ども時代の遊び心への回帰が重視されたことだ。悲愴や皮肉も歌われるが、それ以上に音楽家自身が愉しむ様が満遍なく伝わってくる。だからこそ、この未知なるサウンド群は、聴く者をかしこまらせるどころか、子ども心に戻していってくれる。膨大な情報に囲まれるゆえの不自由がかさむ今、音楽の原始的快楽を授けてくれるアルバムなのだ。忘れがちなことだが、快楽はいつだって探求の前にある。
前作『El Mal Querer』が出たあとも引き続き今回のアルバム『モトマミ』に至るまでロサリアの発表してきた楽曲を一曲ずつ聴いてきたなら、その間、彼女がフラメンコと距離をとっていたことに気づいたことだろう。
彼女が『Los Ángelesx』でデビューし、スペイン語圏外での知名度を一気に広めた前作のリリースするまでのあいだは、J・バルヴィンの“デスパシート”をきっかけにレゲトンがより一層グローバルな音楽へと転身していった時期だった。例えば、セー・タンガーナは、プロデューサーとして深く関わった彼女の前作がリリースされるのより先に、ベッキー・Gとの“ブーティ”でレゲトンに進出。前作以降初の新曲として、前作のもう一人のプロデューサー、エル・ギンチョと共にロサリアが出した新曲もレゲトンだった。しかも、J・バルヴィンのヴァースを加え、有無を言わさぬレゲトンとして仕上げた結果、スペインではこの時点での記録的なヒットとなった。
フラメンコをベースにした『El Mal Querer』が音楽的にも物語的な歌詞にも一貫性を持ち、完結された/閉ざされた作品だったことから、次なる一手として、大きな転換を図るのにも、絶好のタイミングであったとも言える。この“Con Altura”が大成功した時点で、来るべきアルバム(つまり本作)に、レゲトンが入らないはずがない。
この流れでは、この曲のあとにも、レゲトンのスター、オズーナあるいはトラヴィス・スコットとの共演曲で、レゲトンを散発するも、凡庸な出来だった。だが、そのタイミングで、2010年代半ばからのレゲトン人気のグローバル化に貢献してきたバッド・バニーが、オールド・スクール・レゲトン(とは言え、2004、5年前後の「ブレイクスルー」期のものを指す)リヴァイヴァルを打ち出す。他のレゲトン・アーティストが追随しただけでなく、カリー・ウーチスのようなシンガーのアルバムにも、オールド・スクール・レゲトン期から活動を継続中のプロデューサー、タイニーがしっかり関わった。そして、2021年には、バッド・バニーのアルバム『El Último Tour Del Mundo』収録曲で、そのタイニーがプロデュースした“La Noche de Anoche”で、ロサリアが共演する。
そういった創作経緯を経て出てきたのが、本作『モトマミ』の先行カットの1曲“サオコ”だった。キャッチーすぎるリフレインは、まさにオールド・スクール・レゲトン期ど真ん中のウィシンとダディ・ヤンキーによる“Saoco”から直接持ってきたものである。この語には、ニュアンス的に「swag」に近いものがあるように聴いたが、これをアルバムの1曲目で唱える意味は大きい。
話を2019年に、レゲトン“Con Altura”の次のシングルとしてリリースされた“Aute Cuture”にまで戻そう。オートクチュールの綴りをいじった表題にあるように、ここではファッション・アイコン、ポップ・アイコンとして自分自身を明確に打ち出している。こうした一面は、翌年のザ・ウイークエンドの“ブラインディング・ライト(リミックス)”やビリー・アイリッシュとの共演曲“Lo Vas A Olvidar”によっても補強されてゆく。
巧みなのは、そういった意味での重要曲“Aute Cuture”の次の“Millionària”(2019)も、同系統のポップ路線と見せかけて、かなり含みを持たせているところだ。まず、スペイン語ではなく、カタルーニャ語で歌われている(ことをMVを初めて観た時知った)。そこで、思い出されたのは、前作ブレイク時に生じたロサリアのフラメンコをめぐるカルチュラル・アプロプリエーション論争だった。フラメンコはその形成過程において複雑な経緯を経てきた音楽文化である。アンダルシアが本場なのに、カタルーニャの人が、フラメンコの伝統とは全く無縁の環境で育ち、フラメンコを知って10年程度で、フラメンコをレプレゼントされても困る。その影にはアンダルシアで地道に演ってきたアーティストがごまんといるのに……というのが、その言い分だ。彼女が、前作以降フラメンコと距離を取り始めたのは、この論争がきっかけだったのかはわからない。それでも(おカネは大事だよ、おカネだよ、とにかくおカネと迫ってみせる)“Millionària”は、彼女自身の地元の言葉で歌い、しかも、「ルンバ・カタラナ」(AKAカタロニア・ルンバというジャンル)のスタイルに倣った楽曲(エレクトロニックな装飾こそ加わっているものの)であるのは、この論争へのひとつの返答であると考えられないこともない。「ルンバ」とは「パーティ」を意味する通り、この曲も陽気だ。ここで振り返るなら、“SAOKO”で歌われている「変容」とは、レゲトン“Con Altura”から、この曲までのわずか3曲のあいだに起きた/見せたことも含まれているのだろう。
“Millionària”での試みは、今回のアルバムでは、“DERILIO DE GRANZENA”を通じて、深化されたように聴こえる。曲名やアーティスト名がわからずとも、一聴してこれがカヴァーだと察知できるのは、先に触れた2020年のアルバムで、カリー・ウーチスが往年の大歌手ラ・ルーペの楽曲を情熱的に歌っているのを知っていたからだろうか。ただ、ロサリアのこの曲の場合、アルバムのフォーマットにおけるカヴァー曲というのとは少し違うような気がする。
この“DERILIO DE GRANZENA”のオリジナルを歌っているのは、キューバのフスト・ベタンクール。〈ファニア〉からサルサのアルバムを出していることしか知らなかったが、この曲はジャンルで言うと、キューバ発祥の「ボレロ」。キューバをハブ(というか栄養源)として成長していった様々な音楽スタイルの変遷は、どれも複雑かつ独創的であるため、簡単に説明するわけにはいかないけれど、前述の「ルンバ・カタラナ」については、スペインとキューバの往復を通じて双方の地で吸収したり、触発された音楽的要素が作用しあい、1950年代のスペインで、ひとまずひとつの形に落ち着いたことだけは間違いない。そう考えれば、ロサリアが1968年にキューバで録音された「ボレロ」を(テンポを速め、ベースを抜いて)歌うのも、さほど唐突ではないだろう。
この「ボレロ」から数多くのサブジャンルが派生したが、そのひとつが、ザ・ウィークエンドがスペイン語で客演し、ロサリアはカタルーニャ語で歌う、先行カットのひとつでもある“ラ・ファマ”で聴かれるバチャータである。つまり、オールド・スクール・レゲトンのリメイクで始まった今回のアルバムは、レゲトン、バチャータ、ボレロ、そして、フラメンコ(4曲目の“Bulerías”1曲に全神経を集中させたかのよう)を、さらに、曲によってはカタルーニャ語で歌っている。つまり、フラメンコから距離をとってみたら(もちろん、フラメンコが彼女には、とって取っておきのものであるのは、そうした想いを凝縮したかのような2020年の新曲1曲目として発表された“Juro Que”や前述の“Bulerías”から伝わってくるわけだが)、自らのアイデンティティの確認につながるような(カタルーニャ語で歌うこともそうだろう)様々な音楽スタイルと出会えてしまった結果が、このアルバムに集約されたということになるのだろうか(ただ、それはアルバム制作時の彼女自身にできたことであって、今現在のそれではないかもしれないけれど)。同時に、グローバルなリスナーにとっては、本作に詰め込まれた様々なスタイルの音楽を、彼女以上に新鮮なものとして受け止めることもできる。
ロサリアは、彼女自身でさえ自分の作品において次の瞬間何が出てくるのかわかっていないのでは。『El Mal Querer』に先行するミュージック・ヴィデオ作品の頃から、その予測不可能な創造性に対するほめ言葉としてそう言われ続けている。例えば、特に本稿で取り上げた曲以外の本作収録曲を無作為に選んで聴いてもらえばそれは即理解できる。
そういった予測不可能な創造性を発揮で来るのも、胆力があるからだろう。『El Madrileño』において、セー・タンガーナが例えば、「ルンバ・フラメンカ」でも「フラメンコ」でも良いが、そういう音楽を演るときは、その道のベテラン音楽家を招いて、外堀を埋めたがる傾向があった(それがコンセプトのひとつではあれ、カルチュラル・アプロプリエーション論争回避の手だてであれ)。それに対して、ロサリアは今回の『モトマミ』でそういったことは一切していないのだ。