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WHEN I GET HOME Solange (Sony) by MASAAKI KOBAYASHI
TATSUMI JUNK
RYUTARO AMANO
April 26, 2019
WHEN I GET HOME

郷愁エモディティと文化史を漂流するブラック・カウボーイ

「エモディティ」という言葉がある。特定の感情を作り出す商品を指すのだが、面白いことに、その代表例は音楽とされる。社会学者エヴァ・ルイーズによると、かのトーマス・エジソンは1920年代に「さまざまな魂の状態(ムード)を生み出す音楽」を商品化しようと試みていたそうだ。それからおよそ100年が経ち、個人の感情が渦巻くソーシャルメディアによって「エモい商品」の注目度は上昇、エジソンが生まれたアメリカでは「ムードな音楽」が大衆市場におどり出ている。フランク・オーシャンからアリアナ・グランデまで──「ムード」は我々が求める音楽形態そのものとなった。そう宣言した評論家のケイト・モスマンは、この新たなスタンダードを「フックやコーラスが重要視されずスケッチのように短尺」と特徴づけている 。もちろん、この音楽の第一線には、R&Bシャーマンと呼ばれるソランジュがいる。

「前作『A Seat at the Table』では、言いたいことが沢山あった。今回は、感じたいことがたくさん」

ソランジュ自身がそう語るように『When I Get Home』はかなり“Feel”なアルバムだ。短尺な曲にインタールードが挟まる約40分間はミニマルでアビエント。そのムーディさたるや、もはや瞑想を引き起こしそうな領域だ。ソランジュは、本作における反復構造を語る際「マントラ」という言葉を用いている。開幕を飾る“Things I Imagined”が象徴するように、同じ言葉やメロディが繰り返されるたびマントラが強化され、人々はアーティストが奏でる「ムード」に没入していく。R&Bシャーマンという二つ名も腑に落ちる超自然的エモディティではなかろうか。

故郷ヒューストンを題材にした『When I Get Home』において、ソランジュが重要としている要素が「ブラック・カウボーイ」だ。たとえば“Things I Imagined / Down with the Clique”のMVでは馬に乗る黒人男性が登場しており、ソランジュ自身もカウボーイ・ハットを被っている。実は、こうした黒人のカウボーイ装は、現在「YeeHaw Agenda」と呼ばれるムーブメントになっている。TwitterやTikTokにおいても流行が確認できるが、代表例はナンバーワン・ヒットに輝いたLil Nas Xのカントリー・ラップ“Old Town Road”であろう。ただし、ソランジュとファッション・シーンの動きはもう少し早かった。彼女やデヴ・ハインズが参加した2017年のカルヴァン・クライン・ジーンズのキャンペーン「Our Family. #MYCALVINS」、2018年のパイアー・モスのフォール・コレクションにブラック・カウボーイ・スタイルを見ることができる。これらキャンペーンのテーマが「アメリカーナ」であったように「YeeHaw Agenda」にはマイノリティである黒人たちが「白人男性の文化」とされてきたカウボーイの格好をする批評性がある。しかしながら、それだけでは終わらない。

ソランジュは語る

「ジョン・ウェインが誰だか知らない。彼のストーリーも知らない、本当に」「私が最初に見たカウボーイはブラックだった」

ジョン・ウェインとは、1930年ごろから活躍した白人男優であり、ジョン・フォード監督作『駅馬車』などに主演した西部劇の大スターだ。ソランジュは、ウエスタン・モチーフを表現しながら、この偉大なるアイコンをまったく知らないと宣言したわけである。彼女にとってのカウボーイとは、最初から黒人なのだ。どういうことなのか。実は、ブラック・カウボーイは、歴史上に実在した。19世紀テキサスの複数の地域では、なんと4人に1人ものカウボーイが黒人であったと研究されている。現在普及している白人男性オンリーのカウボーイ像は、おもに20世紀の小説や映画、それこそウェインやフォードのヒット作が創り上げた偶像とされる。ゆえに、ソランジュらが牽引する「YeeHaw Agenda」は、過度に白人化されたイメージを修正し歴史的事実へと近づける効果を孕む文化運動なのだ。

中々に興味深い事柄ではないだろうか。『When I Get Home』は霊的なムードを授ける音楽作品だ。その一見パーソナルなエモディティは、ファクト重視の姿勢からはほど遠いように感じられる。しかしながら、カウボーイ像に関しては、我々が「歴史」と思っている「普及したイメージ」こそ偏重したもので、この瞑想的なアルバムが知られてこなかった事実を提示しているのだ。テキサスに生まれ育った黒人女性の記憶が主軸だからこそ、本作は歴史から抹消されたブラック・カウボーイを大衆文化の第一線へと蘇らせたのである。元々、アメリカで「ブラック・カルチャー」と呼ばれる音楽や食べ物の多くは、奴隷制やジム・クロウ法のもと黒人たちに許可されていたライフスタイルが由来とされており、ヒップホップに代表される華々しいファッションにしても「奴隷主が与えていた教会用の一張羅」がルーツと考えられている(ドキュメンタリー『フレッシュに着こなせ』より)。しかしながら、 文化史を漂流したブラック・カウボーイの存在が示すように、アメリカの黒人コミュニティが受け継いできたレガシーは「普及したイメージ」以上に広大なはずだ。『When I Get Home』は、そんな歴史や文化、果ては未来の雄大なる可能性を実感させてくれる一品だ。

文:辰巳JUNK

フリー・ジャズとヒップホップが共犯関係を取り結んだ場所で
細切れな断片のモンタージュが永遠に円環し続ける「目撃者」の夢

「Some thing I imagined」と歌い出すソランジュ。そこから先は唱えるかのごとく「I saw things I imagined」を繰り返す。呪文のようなこの文句を噛み締め、表題の『When I Get To Home』を踏まえて聴き始めると、早くも2トラック目の“S McGregor(Interlude)”から、彼女の「Home」がヒューストンであることを示されている。

ここでは、同地のDJスクリューにより確立されたチョップト&スクリュード(C&S)の手法が使われている。そもそもC&Sによる効果は悪目立ちしやすいものだが、それにしても、ここでの聞かせ方は実に慎ましやかだ。明らかにC&Sしているのに気づかない人もいるだろう。

3曲目で「成功後も出身地のことを忘れるな」と、そして続く4曲目がキャンディ塗装を施した地元のカスタム・ペイント車のことを歌っているとは、教えられるまで気づけなかった(特に前者)。どちらもヒューストンへの愛着を示しているのに、ヒューストンという固有名詞を出したりしない。本作はソランジュ自身が演出を手掛けた同名の映像版もすかさず発表されているが、ここでも、そこがヒューストンであることをこれ見よがしに見せたりしない。

彼女の姉が2014年にミュージック・ヴィデオ化した“ノー・エンジェル”では、最初のショットから、とにかくそこがヒューストンであることを事あるごとに明示しようとしているのとは対照的だ。もっとも、見ず知らずの人に自分の地元について説明するためにはそうしなければならない。しかし、自分の身近な人と地元の話をするときにはそうはならないだろう。本作には、そういったタイプの「親密さ」が一貫して流れている。

ところで、その映像版のほうだが、その特色は「I saw things I imagined」の「things I imagined」の部分を捉えている、と言ったらよいだろうか。ここで彼女が、画面を左右に横切ったり、画面の奥から近づいてきたり、時にイラスト動画で現れる手綱を操るブラック・カウボーイの姿に愛着を示しているのはすぐわかる。彼女自身も、自分の黒いカウボーイ・ハットを被らない時でも身近な場所に置くようにしている。それともうひとつ、円や円状のものへこだわりがあり、それをモチーフにしていることにも気づかされる。

この映像作品には、昨年(2018年)夏に放映されたHBOのTVシリーズ『ランダム・アクツ・オブ・フライネス』を手がけた監督のテレンス・ナンス以下複数の演出家が協力している。ソランジュは、このTVシリーズのシーズン1の最終話の終わりに姿を現し、(今思い返せば、本作に収録されていてもおかしくない作りを持つ)新曲を鏡に向かって披露する。監督によれば、制作当初から彼女の曲を使うことを希望し、送ってもらった候補曲は本作収録曲の一部だったという。このシリーズは、人種、階級、ジェンダー等に関する問題(意識)を無理に切り離すことなく、絡み合ったものとして、ドラマとドキュメンタリーとアニメとゲームがシームレスにつながる(TVシリーズでは通常ありえない)映像の流れのなかで、いくつかのスキットとして取り上げてゆく斬新な作品だ。単純な比較はできないものの、映像面に関して言えば、例えば、同じコメディである『アトランタ』が古典的に思えてしまうはずだ。そんな混沌と見紛うような映像世界の締め括りで、いきなりソランジュ自身が登場し、歌い出すのだ。『When I Get To Home』の構造も全体的にはシームレスではあるけど、曲間が必ずしもスムースにつながってはなくて、唐突に何かが始まる気配が残されていたり、誰かが話す言葉の録音(サンプル)が投げ込まれるように挿入されてゆく感じも、『ランダム・アクツ・オブ・フライネス』の表現感覚に通じている。

それらを映像作品でおこなっているテレンス・ナンスに対して、音楽作品上で「既存の“ソング”の形式は足かせなのでは」との不満をある種作品作りのバネにしてきたブルックリンの二人組スタンディング・オン・ザ・コーナーが、本作ではインタールードを中心に5つのトラックで制作に関わっている。あいにく二人での活動は本作が最後になってしまったようだが、2017年にリリースされた2作品のうちのひとつは30数分で15曲が、もうひとつは30数分の曲が2曲収録されている。どちらを聴いても、「ソング」あるいは「アルバム」という形式に関わる問題はもちろん、フリー・ジャズとヒップホップとの共犯関係の先に見えてくる表現の可能性に興味を抱かずにはいられない。昨年2018年の『Some Rap Songs』で、アール・スウェットシャートと共演していたのも、このスタンディング・オン・ザ・コーナーだし、そのアールも本作の中盤に出てくる“Dreams”に参加している。

この“Dreams”(製作陣には、シャソル、アール、デヴ・ハインズ等が名を連ねている)では、夢の実現を辛抱強く待つことが促されている。思い描いていたことを実際に目にするという意味が、「I saw things I imagined」にあれば、この呪文は「夢の実現」を祈る言葉にも聞こえてくる。そして、それが前述したような「親密さ」の中で起きている。その数曲後の“Time (Is)”では、「キープ・イット・リアル(自分を飾り立てるな、常に自分自身であれ)ということが理解できるようになってきた」と彼女は歌い始める。さらにその先のスキットでは「女性は性的な存在であるだけではいけない」との彼女以外の女性(活動家)の主張がサンプリングされている。

本作で様々なヴァリエーションを見せる、地元について歌う、地元にまつわる様々なことを歌うとは、ヒップホップの世界では知られているように、素のままの自分を表現するときに大きな意味を持つ。“My Skin My Logo”にいるのは、ラッパーとしての自分をアピールするよりも、自分らしいフロウでラップしたらグッチ・メインのそれに近かったことに気づいて微笑むソランジュだ。彼女が自分のお気に入りの事物について歌うだけでなく、お気に入りの音楽やアーティストを集めたのも、そこにつながっている。1曲目からシャソルが制作に関わった曲がスティーヴィー・ワンダーの楽曲のように聴こえてしまったら、それも彼女の思惑なのだろう。

それと共に興味深いのは、自分について語ろうとする場合には、自分がいかに苦労して、いかに成功した云々だとかいう、嫌な言い方をすれば、ありがちな表現(もちろん不必要なものではない!)に走りがちになる。それを本作では割愛し、全体を通じて限られた言葉で表現する方向性を選び、実践している。本作の音楽面に物足りなさや生煮えである印象を受けるリスナーがいたら、今書いた彼女が選んだ方向性とのバランスで作り上げられた、とまずは考えたらよいのではないだろうか。

そうなると、アルバム最終曲を“I'm a Witness”と名づけたのは強いし、実際、本作中もっとも力強く歌われているように聞こえる。自分は(キリスト教でいうところの「あかし」、つまり)、実体験を語れる者、実際に「見た(目撃した)」ことを伝えられる者だというわけだ。その中には、「夢の実現」者あるいは成功者としてのソランジュが含まれているかもしれないし、何かしらのヴィジョンが見えたソランジュも含まれるかもしれない。いずれにしても、これは、1曲目の「I saw things I imagined」にきれいにつながる。

本作の映像版では、円をモチーフにしたものも目立つと書いたが、円は、キリスト教においては永遠の象徴だ。よって、どちらも同じパートを持つ"I'm a Witness"と"Things I Imagined"が重なりあうことで、アルバム全体が見事に円を完成させるというわけである。

文:小林雅明

弱くかすかな光を放つソランジュのグルーヴと歌は
つねにあなたを驚かせ、心をやさしくシェイクする

1.
2018年。ちょうど1年前のいまごろ、海外のポップ・カルチャーに多少なりとも興味を持つ者のあいだでは「コーチェラのビヨンセ」の話題でもちきりだった。1年の延期を経て(彼女は双子の子どもを妊娠していた。双子は2017年6月に生まれ、“Sir”と“Rumi”と名付けられた)、4月14日にビヨンセが〈コーチェラ〉でおこなったパフォーマンスは、稲妻のような、電撃のような、とにかくそういうスタニングで衝撃的なものだった。会場で目の当たりにした者のみならず、YouTubeのストリーミングを通して目撃した者(おそらくこれがいちばん人数が多いはず)や、僕みたいにそれを見逃してPronhubのようなイリーガルなコンテンツをあつかうポルノ・ヴィデオ・サイトで見た者、あるいはInstagramやYouTubeにアップロードされた断片的なファン・ショットを見た者など、メディアは問わないが、とにかく見た者の多くに強烈な印象を残した。ひとりひとりの心に、そしてすなわち、抽象的で無責任な尺度を用いてしまえば「社会全体」に。

〈コーチェラ〉のビヨンセ――いまは“Beychella”という便利な言葉がある。当時はハッシュタグが付けられていた――は、きっと「ニューポートのボブ・ディラン」とか、「モンタレーのジミ・ヘンドリックス」とか、そういった出来事と同じように、並列に大文字で歴史に記されるだろうと僕は思う。いや、もうすでにされているといってもいいかもしれない。ウィキペディアにはご丁寧にも「Beyoncé 2018 Coachella performance”という項目があるし、当時多くのメディアやクリティックはあのパフォーマンスを“historic”だと評した。ポップ・ミュージックの歴史にはこれまでにも転換点となるようなステージがいくつかあって、2018年4月にもそれがあったというわけだ。

それからちょうど1年が経った2019年4月17日、Netflixでドキュメンタリー『HOMECOMING: ビヨンセ・ライブ作品』が、そしてライヴ・アルバム『HOMECOMING: THE LIVE ALBUM』がリリースされ、より詳しい再検証も可能になった。HBCUにブラック・フェミニズム、おびただしい引用の数々(Beyは白人が多数を占めていたであろう会場に向けて“Lift Every Voice & Sing”を歌い、分厚いホーン・セクションはフェラ・クティの“ゾンビ”のリフレインを奏でた)、あるいはバルマンの衣装からセットリスト、ホーンとパーカッションを中心としたサウンドまで、Beychellaについてはいくらでも語ることができるだろう。しかし、その歴史的な意義や意味はここでは措く。そういったことについてはウィキペディア・ページや数ある論考、日本語で読めるものとしては辰巳JUNKによるテキストが詳しいし、それに今回の2作品のリリースでさらなる分析が出てくるはず。本稿の主役は、あの歴史的なステージで姉とともに踊っていたビヨンセのシスター(フッド)、ソランジュ・ノウルズだ。

2.
ソランジュの作品や歌、パフォーマンスは、ビヨンセの力強く断定的な表現(ミドル・フィンガーズ・アップ! 女たちよ、隊列を組め!)とはコインの表裏の関係にある。なおかつ、そのオルタナティヴとしてあると僕は考える。しなやかで軽やか、柔らかくソフトでなめらかで、逡巡や迷いが濃くたちこめ、浮き出た表現。たまにtwitterやInstagramで悪態をついて、すぐにそれを消したりとか、そういう実に人間臭いこともするソランジュの音楽と歌。彼女のアルバム『When I Get Home』には、そういうパーソナリティがそのまま音楽にあらわれているように感じられる。それは、前作の『A Seat at the Table』(2016年)よりずっと濃厚に。

ちょっと言葉遊びをすると、Beychellaが“historic”だとしたら、一連の『When I Get Home』というアート作品(音楽や映像、そこに出てきたオブジェクトを含めた総体)は“historical”だといっていい。『When I Get Home』はヒューストンという土地の、ほこりっぽい土のにおいがかおってくるようなレコード/フィルムだ。僕はヒューストンに行ったことはないけれど、その土地、そしてそこに根差した歴史の総体と、それにひもづいたソランジュの個人史をもとにしたものだということが生々しく伝わってくるのだ。アルバムにはDJスクリューが音楽にかけた紫色の魔法、陶酔的でくらくらさせるチョップト・アンド・スクリュードが全編にまぶされ、ゲトー・ボーイズのスカーフェイスの低い声が響き(「……はスクリューされてねえ!」)、ブラック・カウボーイたちは馬を駆って風を切る。

『When I Get Home』の1曲目を聞いてみよう。

「Some / things / I imagined / I saw things / I imagined / I saw / things / I imagined / I saw things / I imagined I saw / things / I imagined / things / I imagined / things / I / imagined / things / I imagined...」(“Things I Imagined”)

スラッシュはこの曲のユニークな譜割り、歌のリズムを超簡易的に表現しようとしたもの。ソランジュはこのシンプルな詞(このアルバムの詞はいずれもかなりシンプルでミニマルだ)をちょっと変わったリズムでとぎれとぎれ歌ったり、たまに口をすぼめてすこし低い声で歌ったりする。吸い雲はこれを「スクリューによって楽曲のテンポとピッチが落ちるという効果を人力で再現してい」ると書いている。“Things I Imagined”がスクリューとまでいえるかは微妙なところだが、この歌のリズムに対する独特かつかなり確信的なアプローチは『When I Get Home』における音楽的な試みをひとつ象徴しているといっていいだろう。

僕たちはヒューストンのバイパス(“S McGregor (interlude)”)を通り抜け、そのままシームレスに“Down with the Clique”へと流れ着く。控えめな音色で鳴る、ちょっと不自然なパターンの、6拍子のマシーンビート。コーラスに差し掛かると、ビートとソランジュの歌はどもり、よどみ、つっかえる。「Dow-dow-dow-down with ya...」。まるでレコードが針飛びするかのように。傷ついたCDがエラー音を発するかのように。処理落ちしたパソコンががたつくかのように。アルバムのなかでももっとも親密なムードを持つ、メロウな“Dreams”でも似たアプローチが聞ける。「I grew up a little girl with / Dreams, dreams, dreams…」「They come a-, they come a-...」ソランジュはなめらかな歌声とスロウダウンしたビート(全体的にBPM 50-60の曲が多い)、あるいは打音が刻まれないビートレスのグルーヴのうえで、歌いどもり、歌いよどむことのリズム的なおもしろさを軽やかに、そして自然に探究している。ループし、つんのめり、違和感のないかたちでつぎはぎされ、伸びたり縮んだりするリズム。InstagramのストーリーやTikTokの動画をどんどんスキップしていく感覚で跳躍し、前進していく断片的なビート。ほのあかるいグルーヴ。ソランジュが試みているリズムは、プレ・モダン・ジャズ的なニュー・オーリンズのホーンや地中海的なパーカッションが力強く、なにかを断言するかのようなビートを打ち鳴らしていた勇壮なBeychellaのそれとは好対照をなしている。

いくつかの曲でソランジュの歌にユニゾンでぴったりと寄り添うピアノや柔らかい音色のシンセサイザーは、おそらくシャソルによるものだろう。が、彼の存在以上にシンセサイザーの音色が喚起するのは、(柳樂光隆も指摘しているとおり)スティーヴィー・ワンダーの音楽だ。それも彼にとって、そしてソウル・ミュージックの歴史においてもっとも重要な1970年代の作品群。“Way to the Show”や“Time (is)”、“Jerrod”や“Binz”で聴けるモーグベースの太いアナログな響き――これはあきらかに1973年のクラシック『インナーヴィジョンズ』を(もっといえばその前々作である『ミュージック・オブ・マイ・マインド(心の詞)』以降の一連の作品群を)想起させる。だがそれは、シンセサイザーの音色という限定的な話題に終始するものではもちろんない。『When I Get Home』が時をかけ、空気をふるわせ、およそ半世紀前の『インナーヴィジョンズ』と共振しているように感じられるのは、きわめてパーソナルなテクスチャーと筆致で書かれた作品であるにも関わらず、それがあきらかに彼/彼女の目の前で起こっていること――簡単にいってしまえば、社会的な事柄や出来事、そして他者の存在に向けて開かれ、それらと関係しているように感じられるからだろう。『When I Get Home』のパーソナルな質感は、その音楽を薄暗くて寒くて狭い座敷牢に閉じ込めるものではない。むしろ、「わたしの音楽」であると同時に「あなたの音楽」でもあると聞き手に感じさせるゆらぎや両義性を持つものだ。それには、ここまで書いてきたビートやリズム、歌いかたの意識的な選択とナチュラルなチャレンジが大きく貢献していることはいうまでもない。

3.
2019年。いまビルボードホット100で1位になっているのは、Lil Nas Xの“Old Town Road”だ。2分足らずのこの曲はTikTok発でヒットしているといわれており、アプリで動画をいくつか見てみれば、さまざまな人種のひとびとがこの曲に合わせてダンスや口パクをしているのを見ることができる。もっともポピュラーなのは、イントロが力強いトラップビートとともに「I got the horses in the back」というヴァースへと切り替わるその瞬間、衣装がカウボーイ風に変身するように編集されたタイプのもの。普段どおりの格好をしている若者たちが、突然チェックのシャツやデニム(女性は大抵ホットパンツ)を着た格好に変わる。それらの映像で特に象徴的なアイテムとしてもちいられているのがテンガロン・ハットで、ジャージを着ていても、Tシャツを着ていても、テンガロン・ハットを被りさえすればカウボーイに早変わり。文脈から自由な数十秒の映像が無限に連なったTikTokのタイムラインのなかでは、あるいはその神経質でミクロな動画のなかでは、あなたもテンガロン・ハットを被ってカウボーイになれるというわけだ。

2018年。ミツキの『ビー・ザ・カウボーイ』というアルバム・タイトルはすくなからぬ人々を驚かせた。なにせ見た目は完全に「アジア人」で、(大阪弁をしゃべる)「日系アメリカ人」、そして「女性」のミツキ・ミヤワキが「カウボーイになる」というのだ。どういうことだろう? 多くのインディ・ロック・ファンはそう思ったはずだ。そんなタイトルのアルバムを世に問うたこと。そこにはそれなりの意味があった。

ミツキはアングロサクソンのひとびとがつくりあげた社会のなかでマイノリティとして生きていた。そして、慎ましやかでおとなしいとか、そういうアジア人女性のステレオタイプが他者から彼女自身に投影され、ときには強制されることに辟易していた。「私は存在していることを謝らなきゃいけないような気さえしていた」。ミツキのフラストレーションは、くびきから逃れたカウボーイの自由さや孤独に向けられた。カウボーイへのあこがれ。彼女にとってそれは自由の象徴であり、同時に孤独のシンボルや投影でもあった

それまで――つまり、20世紀まで孤独なガンマンであるカウボーイというのは、男性優位主義的で、抑圧的で、保守的で、白人至上主義的で、人種差別主義的で、女性差別的で、けれども同時に、最高にクールな形象だった。カウボーイに投げかけられたイメージの厚み。いくつもの線が絡まり合った文脈。それをミシェル・キムは、「いかにしてソランジュとミツキは『誰がカウボーイになれるのか』を再考したか」という題の〈ピッチフォーク〉の記事で、「ジョン・ウェインの神話」と多少皮肉っぽく書いている。

「ジョン・ウェインの神話」はまさしく作り上げられた神話だった。ゲイリー・クーパーやジョン・フォードやヘンリー・フォンダ、そして僕たちのような観客たちが築き上げ、共有してきた、数十年間は有効だったある種の幻想だった。アメリカにはネイティヴ・アメリカンのカウボーイもいれば、ブラック・カウボーイもいたのだ。それこそ、ソランジュが『When I Get Home』で示したように。「私が初めて見たカウボーイはみんなブラックだった」。ソランジュはそう語っている

『When I Get Home』の映像を見ていると、僕たちはどうしてかテンガロン・ハットをかぶった若きブラック・カウボーイたちの姿にどきどきしてしまう。文脈から切り離されたTikTokのタイムラインではいくらでも見られるというのに、ソランジュが見せるブラック・カウボーイ/カウガールにはなにか心が揺さぶられるものがある。それは、ソランジュが編み込んだ複数の文脈の糸がタペストリーをなしているからだ。そのうえで、そこに映っているカウボーイが「白人」でも「男性」でもないということ。彼/彼女らがブラック・カウボーイ/カウガールであるということ。そんな小さな、ちょっとしたと表現するには重みがありすぎるちがいによって、僕たちの思い込みや常識、慣習は簡単にシェイクされてしまう(ちなみに、ブラック・カウボーイのイメージを音楽に持ち込んだ先駆者にはLee BannonことDedekind Cutがいるが、それはここでは措く)。

だがソランジュは歴史を書き換えたり、ましてや修正したりしたわけではない。彼女はもちろんリヴィジョニストではないからだ。さきほど僕は、Beychellaが“historic”だとしたら、『When I Get Home』は“historical”だと、なかば言葉遊び的に書いた。換言すると、Beychellaが歴史の流れのなかにマイルストーンを打ち立てたのだとしたら、他方ソランジュの『When I Get Home』は埋め立てられ、地下深く見えなくなっていた歴史を掘り返したのだというふうにいえる。そうしてソランジュは、カウボーイという形象の意味をちょっと変えてみせたのだ。そこ――アメリカ、ヒューストン、あるいは僕たちの心の中に確かにあったにもかかわらず沈潜し、潜在していたもの、すなわち潜性的なものを彼女は炙り出してみせた。マーク・フィッシャーふうの言いかたをすれば、『When I Get Home』という作品には確実に過去の亡霊がひそんでいる。その過去とはソランジュの地元であるヒューストンの歴史や彼女の個人史、あるいは魂のよりどころであるブラック・カルチャーの連なり、束だといっていいだろう。

音楽史にしろ、ひとつの国や土地の歴史にしろ、あるパースペクティブから歴史を編纂したり、過去を書き換え、塗り替えるというような言いかたがなされることがある。だが、それはとんでもない、おそろしいことだと僕は思う。過去や歴史は僕たちが考えるほど従順なものではないし、いつその牙をむき出しにするかわからない。過去の曲やアルバムひとつ取ってみても、それがあなたにとっての常識を打ち壊し、文脈の束でできた社会に順応できないような状態にしてしまわないという保証はどこにもないのだ。過去や歴史の荒々しさ、凶暴さに気を付ける一方で、また僕たちも過去や歴史に従順であってはならない。どこかシニカルなリヴァイヴァリズムに染まらないように。その点、ソランジュは『When I Get Home』でうまく過去や歴史の亡霊を取り成し、うまくなだめている。さらに未来からの亡霊すらも呼び込み、いままでどこにもなかった音楽を志向している。そのうえ親密だし、「これはわたしの音楽だ、ホームだ」と感じることができる響きをもっている。だからといって、安全な音楽ではけっしてない。断片的で、自由に伸縮し、弱くかすかな光を放つ『When I Get Home』のグルーヴとソランジュの歌は、あなたをつねに驚かせ、脅威をあたえ、心をやさしくシェイクする。

文:天野龍太郎

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