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ST. VINCENT St. Vincent (Hostess) by JUNNOSUKE AMAI
YUYA SHIMIZU
February 18, 2014
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ST. VINCENT

はじめにリズムありき――黒く、ドープで、エレクトロニックな
変貌を遂げたセイント・ヴィンセントの「ダンス・レコード」

一言でいえば、本作はセイント・ヴィンセントの「ダンス・レコード」だ。アニー・クラークは複数のインタヴューに応えて、葬式でかけても踊りたくなるようなレコード、エモーショナルで活動的(kinetic)な音楽が作りたかったと語っている。きっかけは2年前のデヴィッド・バーンとの共作『ラヴ・ディス・ジャイアント』のツアーで、自分(達)の演奏で目の前の観客が躍り出すという光景を初めて経験して、大きな感銘を受けたそうだ。

クラークの意図するところは、リード・トラックの“バース・イン・リヴァース”が雄弁に伝える通りである。その鼻息荒いエレクトロ・ファンク・ロックは、たとえば前作『ストレンジ・マーシー』のリード・トラック“サージョン”の優雅なオーケストレーションとあまりに対照的だ。展開の目まぐるしいパーカッシヴなビートは、クラークいわく(彼女が親しんだパンテラやアイアン・メイデン譲りの)ヘヴィ・メタルとニュー・オリンズ・ジャズとの産物らしいが、十八番のクランチーなギターに絡みつくシンセのぶっといベース音が騒々しくて耳愉しい。ホーンがユーモラスにリフを刻む“デジタル・ウィットネス”では、バーンとの共演曲“フー”も習作にしながら、まるでPファンクやプリンスへのオマージュを嬉々と演じているようだ。

総じてエレクトロニックの割合が増し、そこにサポートのマッケンジー・スミス(ミッドレイク)とホマー・スタインワイス(ダップ・キングス)の生ドラムが切り込み生まれるグルーヴの豊かな起伏、黒みを帯びたリズム・セクションは、管弦楽や現代音楽の素養を窺わせたこれまでのノーブルなアンサンブルのイメージを大きく裏切るものだろう。ビヨンセ風情のフィーメイルR&Bも意識させる“ブリング・ミー・ユア・ラヴズ”のブリーピーなシンセ・トラック、あるいは、クラークの伸びやかな歌声が映えるドープな“ヒューイ・ニュートン”は、ディム・ファンクのリエディットで〈ストーンズ・スロー〉からシングルが切られても違和感がないかもしれない。そういえば、ルー・リードによるカニエ・ウェスト『イーザス』評が話題を呼んだサイト『ザ・トークハウス』に、クラークがアーケイド・ファイアの「ダンス・レコード」=『リフレクター』について興奮気味のレヴューを寄せていたのも、今からすれば象徴的に思えてくる。

以前に『ガーディアン』のインタヴューで、クラークがオールタイム・フェイヴァリットのアーティストにロシアの作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーを挙げていたことがあった。その際に、彼女がストラヴィンスキーの音楽のグルーヴの力強さ、その素晴らしさについてヘヴィ・メタルやヒップ・ホップと並べて強調していたことが印象深い。ストラヴィンスキーといえば、タイヨンダイ・ブラクストンが彼の“春の祭典”に着想を得てソロ・アルバム『セントラル・マーケット』を制作したことで名前に馴染みのある方もいるだろう。対位法やリズムのポリフォニーなど技巧的な意匠が凝らされた『セントラル・マーケット』と比べると、本作のサウンドはどこか無防備で、ある意味ローファイにも聴こえるかもしれない。が、ストラヴィンスキーが“春の祭典”を発表した「原始主義時代」と呼ばれるキャリアの初期、彼の楽曲は多くがバレエ音楽として制作されていたことを思うとき、その音楽のグルーヴに感銘を受けたクラークが、まさに“踊る”ための音楽を本作で作り上げたことに、何か符合めいたものを感じてしまう。本作のプレス・リリースによれば、オフに活動拠点のニューヨークを離れて、幼少期を過ごしたテキサスで友人の牧場に滞在したことが転機となったという。それがクラークにとって、自身の音楽的な原体験やルーツを見つめ直す契機ともなった――と考えるのは、あまりに安易すぎる見方だろうか。

それにしても、昨年、批評家筋から称賛されたジュリア・ホルターの『ラウド・シティ・ソング』が、どこかクラークの前々作『アクター』を追いかけているようにも聴こえる一方、本作には、どこかベックの『ミッドナイト・ヴァルチャーズ』をなぞるようにも聴ける屈託のなさがあり、面白い。「人生はダンスなんだよ。這うためにあるんじゃない。音楽はそれを高める作用があるんだ」――とは、同アルバムの日本盤ライナーノーツで紹介されていたベックの言葉だが、さて。その言葉を知ったら、クラークはどんなことを思うだろうか。

文:天井潤之介

デヴィッド・バーンを食い物にし、
ついに本性を現し始めたダラスの蛇女

何よりもまず、そのジャケット写真に度肝を抜かれる。髪をブロンドに染め、アレハンドロ・ホドロフスキーの映画『ホーリー・マウンテン』ばりに“近未来の教祖”に扮したセイント・ヴィンセントことアニー・クラークの姿を見て、「彼女は人間では無かったのだ」と言われたら、何の疑いも無く信じてしまうことだろう。もっとも、デヴィッド・バーンとの共同名義による2012年のアルバム『ラヴ・ディス・ジャイアント』のジャケット写真で既にその兆候は表れていたし、勘の鋭い人は、2009年の『アクター』におけるマネキンのような彼女の表情を見て、その正体に気づいていたのかもしれない。

彼女に最初の変化が起こったのは、その『アクター』のレコーディングの最中だった。スフィアン・スティーヴンス作品で知られるマルチ楽器奏者のヒデアキ・アオモリを迎え、フルートやクラリネットといった木管楽器をレコーディングしていたアニーは、装飾過多なアレンジに疑問を感じ、自身もツアー・メンバーだった大所帯バンド、ポリフォニック・スプリーのレコーディングで知り合った同郷ダラス出身のジョン・コングルトンにプロデュースを依頼。彼が付け加えたエレクトロ・ビートによってアルバムの方向性が固まり、アニーとジョンは、その後現在に至るまでタッグを組むことになる。

それは先述した『ラヴ・ディス・ジャイアント』においても同じで、世間的に見ればデヴィッド・バーンがアニーをフック・アップしたように思えるかもしれないが、ここでもジョン・コングルトンをプロデューサーに起用していることからもわかるように、実質的にはアニーの方がイニシアティヴを取っていたであろうことが、容易に予想できる。スフィアン・スティーヴンスに始まり、ジャスティン・ヴァーノン、アンドリュー・バード、デヴィッド・バーンという、いずれ劣らぬ才能を持った男性ソロ・アーティストたちを魅了し、次々と共演しては生気を吸い取るかのように自身の音楽の糧にしていく彼女を見ていると、中国の説話『白蛇伝』に登場する、美しい娘の姿をした蛇女のことを思い出さずにはいられない。

だからこそ本作が“ガラガラヘビ”を意味する“ラトルスネイク”で幕を開けるのには薄気味の悪さを覚えたのだが、実はこの曲、彼女がツアーを終えた後、地元ダラスの砂漠で全裸で寝ている時に、一匹の蛇に出くわしたという実話に由来しているらしい。そんな“ラトルスネイク”に顕著なように、アニーのトレードマークとも言えるテクニカルなディストーション・ギターとエレクトロ・ビート、ムーグ・シンセをフィーチャーしたサウンドは、前作『ストレンジ・マーシー』の延長線上にあるものだ。ブラス・セクションのようなリフ(おそらくギターを変調させたもの)が軍隊の行進を思わせる“デジタル・ウィットネス”にはデヴィッド・バーンとの共作から得た経験が生かされているが、さらに強烈なのはニューオーリンズのファンク・バンド、ミーターズのリズムを引用したという“ブリング・ミー・ユア・ラヴズ”で、ライヴでビッグ・ブラックやポップ・グループをカヴァーする、彼女のアヴァンギャルドな一面が垣間見れる。

問題なのは、過剰なエフェクトやコンプレッサーを効かせた人工的なサウンドが、曲の持つ生々しさを削ぎ、その下にあるはずの感情を消し去ってしまっていることだ。なるほど、それは確かに、ソーシャル・ネットワーク時代におけるディスコミュニケーションを歌った“デジタル・ウィットネス”のような曲のテーマにはマッチしているのだろうし、気心の知れたジョン・コングルトンとの共同作業の中に、居心地の良さを感じているのかもしれない。けれども、そろそろ違う可能性を試してほしいと思うのは僕だけではないはずだし、ジョン・コングルトンが手掛けてきたオッカーヴィル・リヴァーやクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーといったバンドの作品が、彼らの個性を消してしまった、キャリアの中では駄作と言える部類に入るのも、決して偶然ではないだろう(ジョン・コングルトン関連ではこの後エンジェル・オルセンやクラウド・ナッシングス、アニーも参加したスワンズの新作のリリースが控えているが、果たして吉と出るか、凶と出るか)。

曲の中で裸になってはいるが、アニー・クラーク自身は常にセイント・ヴィンセントというキャラクターを演じていて、決して本心を見せようとはしない。けれども、誰もがその正体に気づいた今、本当に全てを曝け出したとしても、もう驚く人はいないはずだ。

文:清水祐也

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