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paradise lost, it begins 吉田ヨウヘイgroup (P-VINE) by RYUTARO AMANO
SHINO OKAMURA
RYOTA TANAKA
June 24, 2015
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paradise lost, it begins

吉田ヨウヘイgroup、3作めとなるLP。
それは、亀裂が走る日常を縫って「音楽」へと漸近するドライヴ

tofubeatsは「てゆか毎日 音楽で」とラップしていたが、吉田ヨウヘイgroupの3作めとなるLPは、音楽へのラブレター、とでも呼べるような“Music, you all”で幕を開ける。「音楽よ、あなたがすべてだ」という、tofubeatsのカジュアルさ(けして否定的な意味ではなくて)と比べるとあまりにも直截的で、悪く言ってしまえば大げさで、音楽という神に跪き、崇め奉るかのようなストイシズムを吉田は、ひいてはこのバンドは表明している。「ただ僕が知りたいことは一つだけ/君に近づいているかっていうことだけ」――勿論ここでの「君」とはすなわち音楽のことなのだろう。前作『Smart Citizen』 の“アワーミュージック”(=our music)のリリックは、音楽へ、バンドへと身を捧げることについての決意表明についてのものだと思われるが、そういったある種求道的で禁欲的なアティチュードがこのバンドを(森は生きていると同様)数多いるバンドとは一線を画する、特異な存在にしている。

そう考えると、『paradise lost, it begins』――前作同様、タイトルに批評性が多分にはらまれているが、それはそれとして――で歌われている代名詞はどれも音楽を指していて、登場するシンボリックなものはどれも音楽(この巨大でとらえきれない総体)の暗喩のように思えてくる。“シェイプオブシングス”の「彼女はいつも僕を戸惑わせる/話せば話すほど遠くなる」という逡巡、“パラダイスロスト”の「大分変わって」しまった「長く好きだった人」、“グッドニュース”の頽廃した「彼」、「でもあなたには間違って欲しくない」(“間違って欲しくない”)という憂惧……これらすべてが音楽についてのものだったとしたら(“キャプテン・プロヴァーブ”はどうだろう。これはコンポジションについてのリリックなのだろうか)?

というのは、考えすぎかもしれない。吉田の書く詞の魅力はもうすこし卑近なところにあるのだろう。しばしば歌われているのは日常のちょっとした亀裂のようなもので、“サバービア”などがわかりやすいが、そこでは直線的な言葉で素描される情景に異質ななにかが突然さしはさまれる。“サバービア”において無個性で匿名的な郊外の町並みにふと立ち現れた「君」は崇高ですらあるが、それはどこか手の届きそうなところにあるかのような卑近な崇高、というのは形容矛盾だけれどそうとしか言い表せないような奇妙な感触を持ったものが、吉田が歌っている日常の裂けめなのである。

言葉についてすこし書きすぎたかもしれない……。『paradise lost, it begins』を聞いてまず感じたのは、音の質の変化だった。端的に言って音質は格段に向上している。特にドラムの響きにそれは顕著だが、聞き手に迫るリアルな音像は攻撃的で、かつ野蛮に陥らない丁寧な鳴りかたの音がアルバムを特徴づけている。

その音はアンサンブルの深化にともなって選択されたものなのかもしれない。つづれ織のように重なりあう楽器どうしの呼応や競合は前作よりも複雑な様相を見せており、メタリックで異形なオルタナティヴ・ロックに結実している。なかでも西田修大のギターと高橋“TJ”恭平のドラムのスリリングな絡まりあいは圧倒的で、冷たく異様なグルーヴを生んでいる。“キャプテン・プロヴァーブ”などで最低限のシンプルなリフを弾くreddamのシンセサイザーは適確な音色でファンクネスを演奏にまぶす機能を果たしている。機能、と書いたのは形容ではなく、可憐に聞こえるがどこか無機的な女声コーラスが抜き差しされたり配置されたりする演奏のさまは、各楽器がパズルのピースか、あるいは大小さまざまな歯車か、といった具合の聞こえかたをする(“話を聞いたんだ”ではまるでプログレッシヴ・ロックのようなフレーズがかっちりと嵌っていく)。吉田ヨウヘイgroupの演奏が機械的だ、というはなしでは、勿論ない。これは、この稀有なバンドのストイシズムゆえの複雑なアンサンブルの、屹然としたあり様についてのはなしである。アルバムごとにメンバーが入れ替わりながらもこうやってバンドの最高傑作を更新するさまは、吉田ヨウヘイgroupというバンドそれ自身が意思を持った個体としてドライヴしているかのようである。そのドライヴは亀裂が走る日常を縫って進みながら、「音楽」へと漸近している。

文:天野龍太郎

管楽器を軸にしたジャズ・コンボ・スタイルから、
ギターのフレーズが牽引する立体的なアンサンブルへ

これはもうポップ・ミュージックの未来を求めてさまよえる者たちのための新たなギター・アルバムと言っていいだろう。それも超変化球型の。これまでは管楽器や鍵盤、女性コーラスら他のウワモノ楽器のリフを邪魔しないように、比較的遠慮がちにフレーズを乗せていた西田修大というギタリスト。ライヴではステージ上の隅から上背のある体型を生かしてバンド全体を見渡すように音を鳴らしていたこの寡黙なる男が、本作でアンサンブルの核を支えていることは誰が聴いても明らかだろう。そしてさらに重要なのは、その西田に引きつられるかのようにリーダーでヴォーカリスト、ソングライターの吉田ヨウヘイもまた過去になくギターを弾いているという点だ。ジャズに造詣の深い吉田はアルト・サックスを主に吹くイメージがあるが(そして確かにサックスも担当するが)、少なくともこのニュー・アルバムでは西田以上に多くの曲でギターを鳴らしている。2本のギターのフレーズの組み合わせがほとんどの曲において構成の中軸となっているアルバム、と言い換えることもできるだろう。

実際に本作では、多くの曲において、曲を聴かせるポイントが、ヴォーカルや管楽器による主旋律ではなく西田と吉田によるギターのフレーズの組み合わせにシフトしている。結果、3rdアルバムの頃のウェザー・リポートさながらの奇妙なファンク・グルーヴが備わるようになり、いわゆる合奏としてのオーケストラルなニュアンスが後退する格好となった。この変化は前作と今作とのもっともわかりやすい違いの一つで、ファゴットの内藤彩、テナー・サックスの榎庸介が昨年終盤から今年にかけて相次いで脱退し、バンドに溢れていたウワモノ楽器が整理された結果を象徴する形ともなったわけだが、しかしだからと言って西田と吉田のギターが一般的なツイン・ギターのような、言わばハーモニックな絡み方をしているのかと言えば決してそうではないのが本作の面白いところではないかと思う。

たとえば“ユー・エフ・オー”という曲が顕著だ。ヘッドフォンで聴くとハッキリとわかるが左右で全く異なるギターのリフが鳴っている。しかも、イントロで女性コーラスが入ってくると今度は音の打点さえもズレてきて、吉田によるヴォーカルが始まると、さらに片側が異なるワウによるフレーズに切り替わる。飛び散る音の点と点とを強引に結びつけてリフにしてしまうような恐ろしくメカニカルな作業を両サイドのギターが好き勝手におこなうことで、聴く方はそのリフを追いかけるのに必死になり、結果、テンポやリズムではなくあくまでリフで曲のスピードを体感できる、という仕組みだ。おまけに、その2本のギターの間でヴォーカルやコーラス、他のウワモノ楽器のパッセージが前後左右に転がり合うことで曲にパースペクティヴな立体感が備わっている。最初は一聴しただけではあまりにぶっきらぼうな仕上がりのように思えて言語化することを難儀に感じたが、2本の独立して鳴らされるギターのフレーズが、家の屋台骨であり、入り口であり、人が集まるリヴィングでもある……というあり得ないような構造に今はただ驚くばかりだ。吉田はまったくもってとんでもない曲を作ったと思う。“ブールヴァード”のようなわかりやすい展開のキャッチーさはまるでない曲だが、この構造でポップ・ミュージックとしての体までもっていった吉田たちのテクニックは見事だという他ない。

“ユー・エフ・オー”に限ったことではないが、本作におけるこのギターありきの奇怪で驚くべき構造を際立たせているもう一つの要因は、今作からサポートで加わったTAMTAMのKuroを含めた女性コーラス陣(フルートの池田若菜と鍵盤のreddam)の発声だ。まるでロボットの声のような人工的とも思えるコーラス。1stアルバムの“ボーダーレス”あたりのコーラスと比べると歴然だが、意識的に女性陣の歌の感情を抑えることで、ギターのエッジーなフレーズが曲の軸にあるという構図がより明確に浮き彫りになる。もしかすると、彼らはこの3作目で、大所帯バンドにありがちな合奏の一体感、ジャズ・コンボ的な定型のアンサンブルからいかにしてハズれていくのかを追求していたのかもしれない。そこで出てきた西田のギタリストとしての成長とそこに同調するかのようにギタリストとしての自覚を高めた吉田。そして、他のメンバーもその極端なアンサンブルの図式におもしろがってのっかっていった結果、こうした内容のアルバムが出来上がったのではないか、なんて推察もできる。

ライヴにおいてシンガロング・スタイルで盛り上がれるような曲はほとんどない。ちょっとしたブレイクでフルートのパッセージが高揚感をもたらすような、そんなソロ・パートありきのような展開の曲もない。だが、これが今のモダン・ポップスだ、と堂々言いきるような誇らしさはこれまでのどの作品よりも強く伝わってくる。広く多くの人の元に伝わるのかどうかはわからない。だが、この作品にみなぎっている無防備な自信に筆者はこのバンドの未来をやはりかけてみたいと思っている。

文:岡村詩野

ノー・カントリー・フォー・スマート・シチズン
されど気高き息子たちはザ・ロードを進む

ポリリズミックなハンドクラップに、厚い混声のコーラス、そして、各楽器が重なっては、渦巻きのごとく天空へと昇りつめるアンサンブルと、このバンドのカタルシスを30秒に濃縮したような、今作の冒頭曲はこう締められている。

「ただ僕が知りたいことは一つだけ/君に近づいているかっていうことだけ」

背伸びして手をのばし、噛み砕けないまでも呑みこもうと努めた、幾つものアートを思い出しながら、それら全ての営みに込められた目的へと辿り着く、この曲のタイトルは“Music, you all”。とすれば、このアルバムは、冒頭でいきなり音楽主義宣言をかましているわけで、ひとまず吉田ヨウヘイgroupという音楽家集団のドグマを打ち付けた作品と想像することができるだろう。

実際、今作は、ほぼ全てのリリックを音楽へと紐付けすることが可能に思う。まずは、4曲目の“サバービア”がわかりやすい。該当曲において、こんなラインが出てくる。

「君が道を/通り抜けると/空気が避けて/木々がざわめく」

言うまでもなく、ここで歌われる「君」は「音楽」へと置き換えできよう。また、3曲目のダンサブルな“ユー・エフ・オー”は、UFOの目撃体験をメタファーとした、予想もできずに出くわしたアートが、自分の全てを変えてしまうという、宗教的経験とも言うべき例の瞬間を綴った曲と解釈ができる。近づけば近づくほど遠ざかるという、完璧な「彼女」が醸す魅力の謎へと思いを馳せた、重厚な“シェイプオブシングス”含め、アルバム序盤には彼らから音楽への賛美歌と思しき楽曲が集められている。

だが、アルバム半ばから後半にかけて、ピュアな信仰の挫折が率直に描かれる。「やつは新しい諺を/作るつもりでいたけど/思いつく限りのものは/どの街にでもあったって」と歌われる“キャプテン・プロヴァーブ”は、新しいサウンドを奏でたつもりでいても、即様に過去のアーカイヴからの参照点が指摘される、昨今の作り手たちを取り巻く状況が綴られる。そして、“話を聞いたんだ”では、主人公は、頭のてっぺんから爪先まで完璧に見えた「彼」から、つねにそう見えるよう身体中の神経をいつも張り詰めさせているんだとの告白を受ける。つまり、この曲は、“シェイプオブシングス”の礼賛を上書きしている。ここで、今作のタイトルを思い描いてほしい。『paradise lost, it begins』。そう、今作は楽園を失う経験が描かれているのだ。

では、失楽園のあとに、なにがビギンするのだろうか。ずばり“パラダイス・ロスト”というタイトルを持つ8曲目、アルバム中もっともアンビエントなバラッドでは、こう綴られている。

「楽園は失われたけれど/一日が始まる」

さらに、この曲の後半では、それでも失われなかったものへの言及もなされている。実にさらりと感動的に。

「みんなを引っ張った人は/自信を失っている/でも後に続く人は 胸に/彼の名を刻んだ」

アルバムの終盤2曲は今作でも屈指の優しい眼差しを持っている。つんのめっては反り返るビートの組み方に、新世代トラックメイカーとの親和性さえ感じさせる“グッドニュース”で登場するのは、「全然連絡がつかなくなって」「電話も止められてるみたい」という、いわば影さえなくした「あいつ」だ。この歌では、彼が「もういい」と諦めてしまった結果が、今しがた、予想だにせぬ、良い知らせとして飛び込んできたことが明かされる。

「なんといいほうに/話が進んで/全てうまくいきそうなんだ」

曲のなかで、主人公は苦々しい悔恨をふと漏らす。

「何であいつが出て行くときに/少し待とうと言えなかったんだろう?」

ここのヴォーカル・パートの分け方、吉田は異なるリリックで自らのネガティヴな思考を省みながら、reddamが悔いを投影させた上記ラインを、しかも別メロディでなぞるという、二重のエモーションを同時進行で響かす構成がほんとうに見事だ。まさに、このバンドならではの、音楽的表現と言えよう。

そして、主人公はどうにか「あいつ」へと伝えんと思いを放つ。

「あの街へ行くのなら/彼にもし会えたなら/すぐに教えてくれないか/早く伝えてあげたいんだ」

最終曲“間違って欲しくない”は、浮世離れした友人が、この世界で、これ以上傷ついてしまわないようにという祈りだ。口を滑らしがちな彼を諭しながら、こんな言葉が繰り返されている。

「でもあなたには間違って欲しくはない/ただ辛いことがあまり起きないといい」

それは、己へと向けた言葉でもあるだろう。以下のラインでは、君と僕は似たもの同士であると述べられている。

「自分が普通に思う考えが/大分ズレてきてわると分かるから/僕と一緒にいても違和感のない/君のことが心配になるんだよ」

では、吉田ヨウヘイgroupが今作を通して描いたパラダイム・シフトはいかなる経験を写し出したものなのだろう。2014年6月リリースされた前作『Smart Citizen』 以降の彼らを振り返るに、取り巻く状況自体は常に広がりを見せていたように思う。アルバムは高評価を受け、夏には〈フジロック〉へと出演、この日のルーキー・ア・ゴーゴーでのライヴはほとんど伝説のようになっている。さらに8月のツアー・ファイナルでは、渋谷クアトロをワンマンでフルハウスにするなど、大きな躍進を果たした。その一方で、昨年末から今年序盤にかけて、内藤彩、榎庸介が脱退。状況の加速は、バンド内での変化としても表出した。

想像するに、『paradise lost, it begins』で彼らが失った楽園とは、ポップ・ミュージックへと彼らが抱いていた夢物語ではないだろうか。カルチャー(インダストリーと言ったほうが適切か)に深く入り、内実を垣間見ることで知った、ロックンロールを取り巻く現実。その倫理もロマンもない構造へと、やり場のない怒りを抱えることもあっただろう。それは、知性とポップネスを両立させた傑作アルバムに『Smart Citizen』と名づけた彼らにとって、理想主義の挫折だったかもしれない。聡明なディレッタントにとって、この国は随分と生きづらい。

実際、今作と前作を比較すると、音楽的なキャッチーさという面では『Smart Citizen』に軍配が上がるだろう。というか、このアルバムの楽曲はカテゴライズがきわめて難しい。前作までは元ネタのわかりやすさが微笑ましくもあったが、今回はそうした人懐っこさを封じるかのように、終始ストイックに音が紡がれている。なにかが取り憑いたかのようにトリッキーなフレーズを繰り出し続けるギターの西田を筆頭に、各々のプレイヤーとしての成長は、かくも強靭なアンサンブルを編み出しえた。とにかく各楽器の掛け合いそのものが、新鮮な驚きに溢れ、しかも全体像で捉えると、いずれもがその並びでしかありえないほどに、考え抜かれて配置されている。これ、波形で見てもめちゃくちゃ美しいんじゃないだろうか。彼らのアルバム3作のどれを一番のお気に入りとするかは、聴き手によって別れるところだろうが、今作が現時点での吉田ヨウヘイgroup最高到達点であることは、誰もが首を縦に振るだろう。

かつての夢には随分と傷跡が増え、幾人かの仲間は去った。理想の場所は思い描いてものとはだいぶ違ったかもしれないが、それでも音楽へとさらに歩みを続けた。彼らは音楽家としての矜持を一切崩すことがなかった。まずは、その誇り高き姿へと賛辞をおくりたい。そして、生き馬の目を抜く世界のなかで、かつて自らが受け止めた、思いもしなかった好機を、心に刻み続けんとする彼らの、そのナイーヴさを精一杯抱きしめよう。それは、“グッドニュース”で、こう歌われている。

「こんなことがあるんだね/少し元気がもらえるね/ずっと頑張ってはいたんだから当然といえばそうだね」

文:田中亮太

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