あらゆる場でゲーム・チェンジャーであろうとする、ドナルド・グローヴァーによるドラマのシーズン2。「泥棒シーズン」というタイトルはクリスマスが近づき、アトランタで窃盗が一番増える季節を指すそうです。金目のものがあり、その奪い合いになる――つまりシーズン1で描かれたストリート・ライフは次のフェイズに入り、ラッパーとして成功をつかんだペーパーボーイらはその手応えを感じながら、「何が起きるかわからない」過渡期にいる。その恐怖感とコメディが融合しているのは『ゲット・アウト』(2017)的とも言えるかも。そんなムードは通底していても、これほど回ごとに趣旨やストーリーが違うドラマは見たことがない。短編映画を11本並べたような野心と洗練は前シリーズを超えています。個人的に楽しんだのはフライング・ロータスとサンダーキャットが劇伴を担当したバーバーショップ回、ゴシックな館が舞台のホラー回、ドレイク邸で繰り広げられるパーティ回。この三連チャンには感服しました。盗まれるのは金品やドラッグだけでなく、カジュアルな差別による尊厳やインスタに載せる写真、子ども時代も。前シーズン含め、とにかく早く日本で配信しないと『デッドプール2』のドミノ役、ザジー・ビーツの旬な魅力も伝わりません!
一方、ロキュメンタリーの傑作『スパイナル・タップ』(1984)がなんと日本劇場初公開。ロブ・ライナーの初監督映画です。60年代にデビューし、時代の流行に合わせ音楽スタイルを変えながら、80年代にヘア・メタルとなったバンドの全米ツアーを追う――という偽のドキュメンタリー。このジャンルを切り開いた作品だけあって、音楽ビジネスやバンドというものの荒唐無稽ぶりをすくうギャグはいまでも新鮮で笑える。と同時に、あの頃はとんでもない場所に金が溢れていたからこそ、これが成立したんだなあ、という感慨も湧いてきます。同じことを現代でやろうとしたコメディ映画『俺たちポップスター』(2017)では、物語中でさえレコード業界の仕組みがもう老朽化していて、ちょっと悲しい気分になったもの。というわけでちょっとしたノスタルジーはあるものの、リファレンスとして重要な一本。昔ながらの「ロック・バンド」の呑気さを楽しむのも一興です。
20年、30年前のレコード業界で起きていたことを「いまのもの」として笑うには、業界を移すしかない。というわけでIT業界でのドタバタを描き、シーズン6の製作も決まった人気シリーズが『シリコン・バレー』です。コードが書けるナードが画期的なものを発明すると、札束を叩きつける奴がわらわら寄ってきてビジネスが動き、金が浪費され、結局のところナードは搾取される。搾取されたくなかったら苦手なビジネスの場で戦うしかない。とまあ、まさにディス・イズ・スパイナル・タップ、なのです。そのありえなさや人々の奇行にリアリティがあるのも、技術的/企業的ディテールに説得力があるから。登場するコードも実際使えたりするそうです。『ビッグ・バン・セオリー』など同様のナードものより取材が徹底しているはず。この番組からは『ビッグ・シック』(2017)主演のクメイル・ナンジアニや、『レディ・プレイヤー・ワン』(2018)のT・J・ミラーらが映画界に進出。ただシーズン4になっても、クメイルをはじめアジア人キャラクターがステレオタイプを突破できていないのが気になるところ。
海外では青少年より大人の読者の方が多いと言われるYA(ヤングアダルト)小説。私もそのひとりですが、手に取る理由はたとえファンタジーでも逃避的というよりは挑戦的で、オルタナティヴであろうとする小説が多いこと。その意識はラノベより強いと思います。これは2012年発行のYAベストセラーの映画化。遺伝子疾患により生まれたときから顔の手術を繰り返してきた少年オギーが、初めて学校へ通うことになった1年間の物語。学校でのいじめや家族の問題がオギーだけでなく複数の視点で語られることで、善意だけではないさまざまな思いをすくい取り、それが後半、一気にカタルシスの涙となります。映画ではその複雑さがやや薄まってはいるものの、感動を呼ぶコア部分は健在。人も動物も、生きていることがワンダーなのだ――ということを誠実に描いています。YA作家は映画に関わることも多く、本作も『ウォールフラワー』(2012)の原作者にして監督を務めたスティーヴン・チョボスキーが再度監督。あるキャラクターに関して、ディズニーが太っ腹な対応を見せているのにも注目です。
「作家と作品への評価は別物なのか」は、音楽でも映画でもいまや大問題。特にSNSやメディアにおけるアーティストの発言や姿勢も人気やビジネスの一部に組み込まれているアメリカでは、その二つはもう切り離せない。#metoo以降のアメリカで、日本のようにスルーする形でポランスキーやウディ・アレンの映画を公開することは無理でしょう。その議論においては、アレンの息子で告発者でもあるローナン・ファローのインタヴューが一読の価値あり。彼によると作品をボイコットするかどうかは「個人の選択」。とはいえ悩ましいのは、ポランスキーの新作『告白小説、その結末』もウディ・アレンによる『女と男の観覧車』も、作品にも女性像にも流石の貫禄があること。女性への容赦なさが切れ味になっているのです。ウディ・アレン作品においては元々、男女とも人物像はステレオタイプの域を出ていないと思うのですが、俳優によってそれが強烈な力を持つことがある。本作ではケイト・ウィンスレットが真実の愛を求めて若い男に執着する女性を熱演しています。その迫力は『熱いトタン屋根の猫』のマギーや『欲望という名の電車』のボランチになぞらえられるのも納得。コニーアイランドの風景、ヴィットリオ・ストラーロの映像もクラシックな名作の趣です。