いまポップなフィールドにおいて、時代とともに性的マイノリティ表象の変化をもっとも体現しているのがティーン・ドラマだ。様々なジェンダー・アイデンティティやセクシュアル・オリエンテーションのキャラクターが多数登場するのはもはや前提として、当事者のキッズたちの青春をどのように「ポップに」描くかが重要な命題になっているのだ。本作はアリス・オズマンによるコミックを原作とするイギリス発のNetflixドラマ(オズマンは脚本・制作で関わっている)。地味めの男の子チャーリーが1学年上のラグビー選手の男の子ニックに恋をする……というのは昔ながらのティーン・ゲイ・ロマンスものながら、トランスジェンダーの女の子やレズビアン・カップルやシスジェンダー・ヘテロセクシュアルの男の子たちとの友情がドラマのもうひとつの軸になっているのがとても現代的。LGBTQ+をめぐる固有性は落とされていない(アウティングからのいじめ、トランス女性への差別といった問題も描かれている)けれども、それ以上にキッズたちの恋のドキドキや友情のキラキラがメインになっていて、だからこそ、性的マイノリティの子どもたちをエンパワーメントするものになっているのだ。原作コミックのイラストが挿入される演出のタッチもキャラクター像も等身大で、流れるポップ・ミュージックもまさにいまのティーンたちが聴いていそうなものばかり。相手役のニックがカッコいいのは「きちんと思いやりがある子だから」というのもいまっぽいし、彼のセクシュアリティの葛藤が丁寧に描かれるのも誠実だ。カミング・アウト・オブ・ザ・クローゼット(クローゼットから出てくる)ことはいまも昔も性的マイノリティにとって切実なテーマだが、その語りがこんなにも軽やかになったことに胸を打たれる。
『ボージャック・ホースマン』のケイト・パーディとラファエル・ボブ=ワクスバーグのタッグで制作されたこの作品が画期的だったのは、ロトスコープ・アニメーションの手法を生かしたファンタジックなイメージを用いながら、メンタル・ヘルスを巡る「思索」を映像化したことにある。「なぜ主人公のアルマは時を超えることができるのか?」というSF的な問い自体が、トラウマを抱えて生きるしかない人間たちの内面のメタファーになっているのだ。これは『ボージャック・ホースマン』でもほとんど執拗に描かれていたことでもある。シーズン2では前シーズンの主題を反復させながら、そこに世代を超えた移民女性たちの複数の記憶を重ね、現代のアメリカで生きる人びとのパーソナルな歴史をポリフォニックに浮かび上がらせていく展開の巧みさに舌を巻き、そして感動する。何かとパラレルワールドがブームの現代にあって、なぜひとは別の世界を想像するのか、想像してしまうのか、をこれほど切実に考えた作品はそうそうない。
ロトスコープをたんなる手法とせず、ある種の詩情として表現しているのは本作も同様。アルフォンソ・キュアロン『ROMA/ローマ』以降、名監督たちによる自分の子ども時代を振り返る映画がブームになっているが、1960年生まれのリチャード・リンクレイターはここで1969年のテキサス州郊外をアニメーションで具体性と抽象性を行き来しながら回顧する。アイデンティティ・ポリティクスと米ソ冷戦による宇宙開発競争のニュースが中産階級家庭のリヴィング・ルームで交錯した時代を、明確なストーリーラインではなく、ややランダムな日常のスケッチとして立ち上げるのはビフォア三部作や『6才のボクが、大人になるまで。』のリンクレイターらしいやり方だ。無為な時間の積み重なりのなかに、特別な輝きがあるのだと。そしてまた、アメリカン・カルチャーにおけるイノセンスの終わりとしての1969年を、子どもの視点でいま一度みずみずしく見せる試みでもある。
『ある結婚の風景』のリメイクにせよ、『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン3にせよ、いまイングマール・ベルイマンの作品群がひとつの参照点になっているのは、人間を冷徹なまなざしで捉えてきた彼のあり方が求められているからだろうか。本作はベルイマンが暮らしたスウェーデンのフォーレ島を舞台に、映画監督同士のカップルの関係性の移ろいを中心に置いており、そのこと自体は監督のミア・ハンセン=ラヴと元パートナーのオリヴィエ・アサイヤスのことを想起させるが、それ以上に主人公のクリス(ヴィッキー・クリープス)がベルイマンに触発されて創作の探求に分け入っていくことに引きこまれる。彼女の構想は映画内映画となり、やがて現実と創作の境界もなくなっていくだろう。それはベルイマンの作品が持っていた力でもあるが、ストレートなオマージュと言うよりは、ミア・ハンセン=ラヴ自身の作家性――人間の心の無常――が貫かれていることにそその芯の強さが見て取れる。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まる前から東ヨーロッパの映画が強度を増していたのは、芸術が時代をつねに先取りすることの皮肉な証明だろうか。コロナ禍のルーマニアはブカレストを舞台に、夫とのセックス動画がインターネットにリークされてしまった教師の受難を描いた本作は、非常に不遜な態度で「現代において卑猥とは何か?」を観る者に問う。生のセックス・シーンで始まり(「監督〈自己検閲〉版」である日本公開版ではおちょくった修正が入っていて何も見えない)、パンデミック下のブカレストをそのまま映した第1部、現代の様々な事象を羅列し哲学的な言葉で考察していく第2部、裁判劇を通して人びとの議論がまったく成り立たないことをあっけらかんと見せる第3部で構成され、さらには3つのマルチ・エンディングが用意されている。シュールでクレイジー。基本的にふざけているし、かなり意図的に観客に挑発しているのだが、あらゆる出来事が断片化され空虚な分断が生み出され続ける現代社会の風刺という意味ではシリアスだ。政治の腐敗がたびたび告発される現代のルーマニアから、大衆の愚かなあり様を冷徹に見せる映画が出てきたことの意味は重い。観客を思索に誘導する作りが高く評価され、ベルリン国際映画祭で最高賞を受賞した。