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  • Mank / マンク(2020) directed by David Fincher by TSUYOSHI KIZU December 25, 2020 1
  • ラヴクラフトカントリー 恐怖の旅路(2020-) developed by Misha Green by TSUYOSHI KIZU December 25, 2020 2
  • ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌(2020) directed by Ron Howard by TSUYOSHI KIZU December 25, 2020 3
  • フランクおじさん(2020) directed by Alan Ball by TSUYOSHI KIZU December 25, 2020 4
  • バクラウ 地図から消された村(2019) directed by Kleber Mendonça Filho, Juliano Dornelles by TSUYOSHI KIZU December 25, 2020 5
  • 当時存命中のメディア王(「新聞王」)であったウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにし、その虚飾に満ちた半生を批評した『市民ケーン』(1941)がなぜ古典となったのか、当時において何が革新的だったのかについてはすでに歴史的評価が確立されているが、その制作においてどのような「心意気」があったのかを(オーソン・ウェルズではなく)脚本家ハーマン・J・マンキーウィッツ(「マンク」、ゲイリー・オールドマンが演じる)のアングルから浮かび上がらせようとする本作。デヴィッド・フィンチャー監督の父ジャック・フィンチャーが1990年代に書いていた脚本の悲願の映画化となるわけだが、そもそもフィンチャーの代表作『ソーシャル・ネットワーク』(2010)がよく言われるように強く『市民ケーン』を踏襲するものであった。SNSが現代社会をコントロールする巨大な「メディア」となっていること、そして2016年のアメリカ大統領選で起きたことを思えば、フィンチャーが当時『ソーシャル・ネットワーク』で抱いていたであろう「心意気」は、『Mank』で描かれるそれとピッタリと重なっていく。怖いくらいに。だから本作は「歴史的傑作」の裏側の業界人脈図を描いて映画通を満足させるだけのものであるはずがなく、志を持つ映画人が抱く「では、なぜ我々は映画を作るのか?」という大いなる問いに向かっていく。ナラティヴと有機的に連動するフラッシュバックや鮮烈なパンフォーカスといったテクニックはもちろん『市民ケーン』の引用だが、フィンチャーはそれを『ソーシャル・ネットワーク』以降のテンポ感で力強く語っていく。現代に向けて。映画というものそれ自体を、そしてそれに身を捧げる者たちを、2020年においてなお本作は強く信じようとするのである。

  • クトゥルフ神話の祖、SFホラーにおけるカルト作家H・P・ラヴクラフトの名を引用し、ジム・クロウ法時代の1950年代アメリカ南部を舞台にして黒人青年を主人公に、当時の人種差別をグロテスクな描写とともにホラーとして描こうとするテレビ・シリーズ。なぜか? ラヴクラフトは人種差別、とりわけ黒人に対する強い差別が入った詩や作品を残している、かなりの人種差別主義者であったことが現在から回顧されているからだ。マット・ラフによる本作の原作小説が発表されたのは2016年のことで、ブラック・ライヴズ・マターの機運が盛り上がるなか、そこでは「偉大なカルト作家」の遺産を鋭く批判的な視線を向けつつ受け継ぐことが目指された。たとえばアフリカ系の作家ヴィクター・ラヴァルの小説『ブラック・トムのバラード』も同年の2016年に発表されているが、同作は移民に対するフォビアをラヴクラフト譲りのホラーとして語ったものだ。これらの作品はホラーというジャンル内に長く巣食っていた差別思想を、ジャンルの形式を継承しながら乗り越えるという意識が高まっていることの表れだと言えるだろう。そしてそれはもちろん、『ゲット・アウト』や『アス』のジョーダン・ピールとシンクロする。本作はまさにそのピールがエグゼクティヴ・プロデューサーを務めており筋が通っているのだが、さらにJ・J・エイブラムスが加わっていることでエンターテインメントとして見せる野心を燃やしているようだ。ただし話法は独特で、秘密結社も魔術もグロいモンスターも登場しながら謎が絡み合っていく様はなかなか混乱させられる。そのトリップのなかで、観る者は現代も続く黒人のリアルな恐怖を味わうことになる。

  • J・D・ヴァンズによる回顧録『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(原書は2016年刊)がベストセラーになったのは、トランプ時代へと至るなかでアメリカ社会が見落としていた貧しい白人労働者層のライフ(生活、人生、生命)が克明に刻みこまれていたからだ。のちにヴァンズはイェール大学のロー・スクールを卒業し社会的/経済的成功を獲得するが、その幼少期は厳しい貧困とともにあった。高度な教育はなく、薬物と暴力が蔓延するなかで、彼らはアメリカの夢から完全に取りこぼされているのだと同書は指摘したのだ。そうした白人貧困層は、メディアが取り上げることも稀だった。それが2016年以降、トランプ現象によって急激に注目されたこと自体、アメリカ社会の歪みを象徴しているのかもしれない。だがそれでも、多くのひとが彼らの「エレジー」を聴く必要があった。ロン・ハワードによるこの映画化はそうした社会的/政治的な厳しいまなざしをおそらく意図的に落としており、たんに苦境を乗り越えた家族の絆の物語へとまとめてしまった。原作にもそうした要素はあったとはいえ、これではリベラル層が見たくない現実に蓋をしているのと同じである。また、エイミー・アダムス演じる母親個人の問題に集約されて見えてしまうのも大いに問題だ。その虐待と貧困の向こう側には確実に社会構造的な問題があるはずで、映画はそここそを見つめ、語るべきだった。観客が本作の「貧困と虐待に苦しんだ青年が、家族を見捨てずに掴んだアメリカン・ドリームの物語」に満足せずに、原作にまでたどり着くことを願う。

  • 『アメリカン・ビューティー』(1999)の脚本やドラマ『シックス・フィート・アンダー』(2001-2005)で知られるアラン・ボールは、その物語のなかにゲイの人生の苦悩を繊細かつリアルに織りこんできた。自伝的要素もあるという本作では、1973年を舞台にして、ゲイの「フランクおじさん」の抱く家族に対する葛藤が姪の視点から描かれる。これもまた、現代における性的マイノリティの自由の以前に何があったのかを語り直そうとする一本だが、本作が説教臭くなっていないのは、あくまでパーソナルなものとしてゲイ・アイデンティティの獲得の困難が語られるからである。そしてだからこそ、本作で描かれる父親の過剰なホモフォビアはかつては異常なものではなく、リアルな恐怖であったことが伝わってくる。フランクおじさんを演じたポール・ベタニーも円熟した演技を見せてくれるが、何よりも救いとなっているのがその恋人ウォーリーを演じるピーター・マクディッシの存在だ。彼は実生活でアラン・ボールのパートナーなのだが、まるでこの映画自体がマクディッシの優しさと誠実さに対する精一杯の感謝のようだ。性的マイノリティにおけるパートナーシップのモデルのひとつとしても見えてくるものがある。

  • とあるブラジルの僻村。村に住んでいた娘が祖母の死をきっかけに帰郷するところから始まり、はじめは村の生活の模様をたんたんと描写するが、政治腐敗した市長が村に現れた辺りから不穏な空気が漂い、村にまたよそ者が訪れ、そして気がついたときには死人が次々に発生する抗争劇になっている。西部劇のモダナイズのようにも見えるが、しかしあまりに乾いている。そして見ていくと、これが一種の政治劇であることがわかる。中央行政が腐敗し、地方のコミュニティが見棄てられるしかないのであれば、そこで暮らす者たちはどうすればいいのか。逃げるのか、闘うのか。本作はそこである種のコミュニティ主義を選択するのだが、その「自衛」はまさにいにしえの西部劇のように切迫したものだ。無法状態、無秩序状態――それが現在のブラジルと残念ながら重なるのだろう。ボルソナロ政権下のブラジルから出るべくして出た映画である。ウド・キアやソニア・ブラガら名バイ・プレイヤーはさすがの重厚感で魅せてくれるが、しかし野性的な顔つきをした村人たちの存在が何よりも鈍く光っている。「彼ら」はこの後どうやって生き続ければいいのだろう。

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