ボストン郊外で便利屋として働くリーのもとに、あるとき兄の死の報せが届く。リーは久しぶりに故郷に帰るが、町の人間のなかには彼の姿を見て眉をひそめる者もいる。どうやら彼には過去この町で何かあったようだ。兄には息子がいて、つまりリーにとっては甥に当たるため彼の後見人になる話が出るが、リーはどうしても町に戻る決心がつかない……。そうして映画はリーの過去をじっくりと浮かび上がらせていくが、簡単に物語は進まない。と言うより、なかば執拗なまでにケネス・ロナーガン監督による脚本と演出は「うまく進まないこと」を繰り返す。急いでいるのに前の車がどん臭くて進まない。車をどこに駐車したのか思い出せなくて見つからない。鍵が見つからなくてドアが開かない。早くセックスがしたいのに親が邪魔してできない。兄の埋葬の仕方が決まらない……。そうして映画は、ひとりの労働者だったリーを襲った悲劇と、彼(ら)の人生が「うまく進まない」ことを丹念に映し出していく。喪失はあるとき容赦なくやってきて、そしてひとはそれを乗り越えることができない。だが、それでも人生が続いていくことの残酷さと、あるいはなにか福音のようなものが、静かな町の風景のなかに漂う。主演のケイシー・アフレックはここで、彼にしかできなかっただろうと思わせる疲労感を伴ったペーソスをまとっている。
アフレック兄弟の、こちらは兄ベンの監督/脚本/製作そして主演作。すでに「ポスト・イーストウッド」なんて言われるベンだが、本作が『ミスティック・リバー』(イーストウッドにより2003年に映画化)で知られるデニス・ルヘインの小説の映画化だという時点で何より本人がそのことを意識しているのがビンビン伝わってくる。過去のスキャンダルもあっていろいろと言われることも多いアフレック兄弟だが、兄に関してはおそらくそのわかりやすいまでの野心こそが彼のチャームになっていて、本作でも気合いが入ったショットの連発。物語については、禁酒法時代のアメリカのギャング映画(舞台はボストンとフロリダ州タンパで、とくにタンパのときの衣装がとても良い)、とだけ言っていればいいだろう。つまり当時のセットと衣装、そして「空気」が必要な映画で、ベンの「俺こそがアメリカ映画の伝統の後継者だ!」という叫びが聞こえてくるようだ。とはいえベンの独壇場とはせず、エル・ファニングに倒錯したお嬢様役で画面にのさばらせるなどきちんと「いま」を感じさせる一本となっているのも見事。
昨年他界したイランの巨匠アッバス・キアロスタミの助監督を務めていたことでも知られるジャファル・パナヒだが、それ以上に政府への反体制的な活動を理由に映画制作を禁じられた監督として有名になってしまったように思える。とくに『これは映画ではない』(2011)はタイトル通りに「自分は映画を作っていない」とうそぶきながら、どこまでもタフな「映画」が立ち上がってくるというねじれた知性に貫かれた快作であった。本作『人生タクシー』もまさにその路線で、パナヒ自身が運転手を務めるテヘランを走るタクシーを舞台に、乗ってくる乗客たちとの姿と交流を描きつつ、なぜイランでは自由な映画制作が禁じられるのかを問う。ややメッセージが作劇に影響しすぎているようにも見えるが、ドキュメンタリーとフィクションの間のどこか、現実と映画の間のどこか、怒りと不屈さの間のどこかをドライヴする知性には変わりない。パナヒの「映画」――彼が「映画ではない」と言い張っても――では映画制作は企画でも商業活動でもなく、もっとなにかこう、生きることそのものに関わっているのだ。
これは……すごい映画だ。不敵に逸脱していくオリヴィエ・アサイヤスの映画を観ているといかに世の映画が特定の話法に縛られているかを思い知らされるが、本作はアサイヤス映画の自由における最高峰とすら言いたくなってくる。この映画のおもな軸はふたつあって、まずは主人公のモウリーンは「パーソナル・ショッパー」としてセレブの代わりにブランドの服やアクセサリーを買いつけたり借り入れたりしており、自らの欲望に引きこまれていくうちにある事件に巻き込まれていく、というもの。もうひとつは、モウリーンは霊媒師でもあり、パリで漂っているであろう死んだばかりの双子の兄の霊と交信しようとしている(!)というものだ。つまり物質主義的な世界と精神主義的な世界をまたぐ存在として彼女はいて、映画はティピカルなホラー映画の演出をしたかと思ったらヒッチコック風スリラーを導入し、かと思えばバッサリと決定的な状況をカットしたりと、地に足をつけないまま観客を複雑な領域に連れて行ってしまう。『クリーン』(2004)や『レディ アサシン』(2007)のように女が移動によってひとりでどのようにサヴァイヴしていくかについての映画であり、また、この世を去った存在の気配とどのように生きていくか、というきわめて現代的なテーマをも孕んでいる。
その『パーソナル・ショッパー』に説得力を与えていたのは主演のクリステン・スチュワートの危うい美しさ、しなやかさと脆さの揺らぎだったわけだが、ウディ・アレンの新作でも見事にミューズとして輝いている。『カフェ・ソサエティ』はもはや80歳を過ぎたウディ・アレンの長編……えーと、何作めだ? とまれ、もはや膨大な量のアレン映画だが、そこではある意味ではずーっと同じようなことを描いているわけで、だから毎回舞台と役者の選択を見るのが楽しむポイントとなる。その点、今回は1930年代のハリウッドとニューヨークの対比、そして主演がいま面倒な男をやらせたらピカイチのジェシー・アイゼンバーグというのはなるほどよくハマっていて、どこからどこまでもアレン節。誰の胸にもある、人生にたった一度の恋……を切なく描きつつ、華やかさの裏にべったりとはりついた虚無感はまさにウディ・アレンだ。恋も人生も惨めで虚しいが、だからこそ彼の映画はそれを軽妙にシニカルに飾りつけ、そして笑ってみせている。ちなみに次回作はジャスティン・ティンバーレイクが出演するそう。