この映画を観ている間は、これが同世代で最大の巨匠となった映画監督の新作であることを忘れてしまってもいい。主演のひとり、クーパー・ホフマンに他界した父の面影を探さなくたっていいし、1973年のロサンゼルスの文化風土のことをまったく知らなくてもいい。だってこれは、いまこの瞬間に始まる何かについての映画だから……それは不格好な恋だったり、得体のしれない新興産業だったり(ウォーターベッドとピンボール)、どこか危なっかしい政治活動だったりするのだけど、その度に若者たちはその勢いに任せて街を走り抜ける。カメラはひたすらそれを収める。その躍動が若さであり、映画だと言わんばかりに。……だけど僕は同時に、やはり、この映画がポール・トーマス・アンダーソンの新作だということを噛みしめてしまう。その街にいる、胡散臭い商売をしている胡散臭い大人たちがいちいち愛らしいのは紛れもなくPTA映画だし、クーパー少年を見ていると『ブギーナイツ』(1997)でタンクトップを着ていた若き日のフィリップ・シーモア・ホフマンをどうしたって思い出す。そのノスタルジーとセンチメントに溺れそうなギリギリのところで――70年代のLAの輝き――、もうひとりの主演のアラナ・ハイムがこれまでのPTA映画にまったくいなかったタイプの女性キャラクターとしてスクリーンのなかを駆けていることに胸を突かれる。アメリカの西海岸を舞台にして人生に失敗する大人ばかりを描いてきたポール・トーマス・アンダーソンは、自らの過去を振り返りつつも、いまこそ若者たちを主役にしてそれでも新たに始まる何かを描こうとしたのだ、と。アメリカ的青春劇の眩しさ(ジョージ・ルーカス『アメリカン・グラフィティ』、1973)とアメリカ的群像劇の円熟(ロバート・アルトマン『今宵、フィッツジェラルド劇場で』、2006)の間のどこかにあるような、奇跡のようなきらめき。
主人公の女性ユリアは優秀で、医学の道を志している。だが世に溢れる情報の多さに気が散ってしまい、やがて人間の内面を知りたいんだと心理学に興味を持つ。のだが、その過程でより観察的になるべきだとフォトグラファーになり、その過程で出会ったモデルと性的な関係を持ったかと思えば、パーティーで出会ったグラフィック・ノヴェル・アーティストのアクセルと出会って恋人となる――。ここまでが序章。……え? そう、この情報量の多さがそのまま、この映画が描こうとしていることを端的に示している。そこから始まる彼女の12章にわたる物語は、選択肢が多すぎてあちこちをフラフラ旋回するしかない現代を生きるわたしたちの姿を映し出したものだ。そしてユリアはインターネットのバズや家族との複雑な関係や別の男との出会いに翻弄されながら、膨大な選択肢のなかにあってなお自分の意思で選択することのできない人生の不条理と直面することになる。その苦さ。それでもここには、誰かと出会って関係を築くことの高揚と痛みが封じこめられていて、その狭間を右往左往するユリアの姿をハラハラと見つめるわたしたちは、自分自身のままならない人生を少しだけ肯定するのである。主演のレナーテ・レインスヴェがまったくもってチャーミング。
韓国からは女性たちの生を複層的に描く一本が届いた。経済的な困難と家族の問題を抱えた長女、理想的な家庭を守ることに必死の次女、自堕落な日々を過ごす三女をからなる三姉妹の生活の行き詰まりを交互にスケッチしながら、やがて彼女たちが抱えてきた過去の記憶へと向かっていく。それは韓国における家父長制の横暴を示すものでもあるのだが、映画はあくまで個々のドラマを織り重ね、ポリフォニックな体験として見せることで、家族たるものの禍々しさをゆっくりと暴いていくのだ。その描写の積み重ねの先にある、多数の人物が一堂に会するシーンの殺伐としたカタルシスは恐ろしくも可笑しい。そこでは壊れてしまった人生の破片が散らばっているが、それをかき集めてしまうのもまた人間なのだと。そして、そこには女性たちの緩やかな連帯が自然に立ち上がってくる。監督は本作が長編3作目となるイ・スンウォンで、本作を足がかりにして世界に知られる存在となっていくだろう。
ヌーヴェルヴァーグの遺産をゆるやかに受け継ぐ映画を韓国でたんたんと撮ってきたホン・サンスの新作が2本同時上映される。ますますミニマルになっていく作風には呆気に取られるばかりで、何しろ『イントロダクション』に至っては66分しかない。モノクロの奥ゆかしい映像と断片的な3章構成で、ある青年の逡巡を迂回しながら語る『イントロダクション』。ある中年女性が自らの過去と向き合う一日を会話劇で余白たっぷりに見せる『あなたの顔の前に』。限定的な時間を切り取りながら、むしろ映画のなかで「描かれないこと」を観客に強く想像させる作りには舌を巻くばかりで、この映画作家がひとつの高みに到達したのだと感嘆させられる。しかも、どこか飄々とした佇まいは崩さずに。僕としてはとくに、いくつかの味わい深い会話と長回しのショットで人生の広がりを豊かに浮かび上がらせる『あなたの顔の前に』に猛烈に感動したが、監督の引き算の美学が円熟の域に入ったことを目撃するという意味で、2作併せて観ることを強くお勧めしたい。
いまこの瞬間も世界で生まれ続けている難民の現実について、「問題」としてではなく個人の記憶として語るドキュメンタリー。アフガニスタン難民のアミン(本人や家族の安全のための仮名)の子ども時代からの友人だったヨナス・ポヘール・ラスムセン監督は、彼が家族や過去についてはじめて語る様をアニメーションでここに再現するのだが、それはそのまま、これまで世界で「語られなかったこと」を伝えることである。(アミンいわく)「同性愛者が存在しないとされる」アフガニスタンでゲイとして生まれ、自分や家族の生命がどうなるかまったくわからないまま亡命することになったという彼の個人的な体験は、個人的であるからこそ観る者に深く染みわたっていく。亡命の記憶だけでなく、現在はデンマークで暮らし同性の婚約者との結婚を控えている彼が未来に踏み出していくことの葛藤もここでは語られているが、そのパーソナルなディテールがあるからこそ、難民が亡命先でどのように安心できる暮らしを獲得しうるかを考えさせられる。ドキュメンタリーとアニメーション表現の枠を広げる傑作だ。