マイケル・ムーアはミシガン州フリントの生まれで、かつて鉄鋼や自動車産業で栄えたこの地域は60年代から衰退の一途を辿っている(スフィアン・スティーヴンスの『ミシガン』を聴き直そう)。五大湖周辺のかの地はやがてラストベルト(錆ついた工業地帯)と呼ばれるようになり、そして、そこに住み貧困に苦しんでいる労働者たちがトランプ支持に回った層だと分析されている。彼ら労働者の側に立ち続けてきたムーアは本作で、トランプ政権が実際は労働者を救っていないことをはっきりと提示するが、同時にオバマやクリントン(夫婦とも)への怒りも露にする。つまり、旧来的な民主党がもはや庶民を見捨てているのだと。だから、本作はアンチ・トランプは前提として、ポスト・サンダース時代を象徴するものだと言えるだろう。これまでの民主党の路線に異を唱え、国民皆保険や大学無償化などきわめて社会主義的な政策を唱える庶民の出の政治家が現れ始めており、また、銃規制や人種差別反対や女性の権利を訴えるデモが巻き起こっていることをムーアは強調する。それが次の時代を創っていくのだと。ムーアの直截的な政治的主張に満ちた作品を「映画」と呼ぶかどうかは意見の分かれるところだろうし、率直に言って自分も躊躇ってしまうほうだが、ここで描かれていることがアメリカン・ポップ・カルチャーの現在と緊密に結びついていることは間違いない。
そう、たとえばこの映画にもアメリカの現在がよく反映されている。米墨の国境付近の麻薬密売の抗争をスリリングに描いた『ボーダーライン』(2015)の続編だが、あくまで麻薬戦争にフォーカスしていた前作と異なり、組織が取り扱う「商品」が不法移民になっていることが本作の重要なモチーフである。トランプ政権下で移民が制限される分、その「商品」の値段が上がっているという台詞はショッキングだが現実なのだろう。が、そのシリアスな題材をエンターテインメントとして見せていくのが本シリーズであり、またテイラー・シェリダンの巧みな脚本だ。若い女性が主役だった前作に対し、ベニチオ・デル・トロとジョシュ・ブローリンという渋い中年親父俳優を中心に据えているし、さらにマフィアものを得意とするイタリア人監督ステファノ・ソッリマの演出も相まってなかなかに重々しい仕上がりだ。フロンティアにこそその国の本質的な問題があるとするテイラー・シェリダン(『最後の追跡』脚本、『ウインド・リバー』監督)の目線はブレていない。
どうしてもラース・フォン・トリアーの甥ということが強調されがちなヨアキム・トリアーだが、執拗に女性を痛めつける映画ばかりを撮り続けてきた叔父ラースと違い、1974年生まれの気鋭は若い女性が性愛の自由を得ようとする姿を瑞々しく描き出す。主人公のテルマは厳格な両親のもと田舎町で育ったが、首都オスロの大学に通い、そこで出会ったアンニャと心を通わせるようになっていく。だが同性同士の恋愛は、彼女が両親から与えられてきた宗教的な戒律に反することになる……と、ここまではオーソドックスな同性愛テーマだが、本作がユニークなのはそれを『キャリー』ばりの超能力ものとして語ったことである。それは旧態然とした世界では「忌むべき資質」だが、そこに立ち向かっていく力ともなり得るのである。つまり、じつにいまらしい女性映画。北欧映画独特の冷たく凛とした映像も素晴らしい。ヨアキム・トリアーは前作『母の残像』(2015)も傑作なのでぜひ。
これもまた、少女失踪ものというよくあるモチーフを「捜索」と「検索」(=search)に引っかけることで現代的にしてみせた一作だ。売りは、すべてPCの画面上で展開すること。ワン・アイデアと言えばそうだし、語られるストーリー自体はそれほど真新しいものではない。だが、スクリーンを通してPCで開かれるSNSの情報を見続ける観客は、これが自分たちの日常生活そのものであることに気づくだろう。わたしたちはもはや、PCあるいはスマートフォンの画面からしか世界を知ることができない……。映画の構造自体が現代のライフスタイルに対する批評になっているのである。何かを見つけたければクリックとタップを続けることを強いられている現代人への痛烈な皮肉であり、同時にエキサイトさせるエンターテイメントだ。メイン・キャストをアジア系俳優とし、インド系アメリカ人が監督を務めているアメリカ映画であるという現代性も見落とせない。
あるいはインド本場からは、インドらしさを見せてくれるこんな小さな珠玉作も届いた。死期を悟った父がガンジス河のほとりの町バラナシに息子と赴き、そこで心を通わせていく様をじっくりと描いたドラマだ。旅情に満ちた一本だが、本作の背景はむしろ急激に近代化し変わりゆくインド社会にある。息子ラジーヴは仕事に忙しく携帯電話が手放せない典型的な現代インド人であり、家族や人生と向き合うことを忘れている。ある意味、日本人と変わらない。彼は父とガンジス河に訪れることで、インドの伝統が育んできた死生観や精神性をようやく知ることになるのである。小津安二郎の『東京物語』と比較するメディアがあるほど滋味深い作品だが、監督はなんと1991年生まれの青年だ。ただ、「若いのにこんな渋い映画を」と言うよりは、生と死、そして人生を知る喜びに満ちた瑞々しさはその若さゆえに得られたものだろう。変化し続けるアジアから響く、新しい世代からの声のように思う。