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MORNING PHASE Beck (Hostess) by JUNNOSUKE AMAI
YUYA SHIMIZU
February 25, 2014
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MORNING PHASE

ベックに訪れた新たなミッド・ライフを告げる、
その穏やかなる序章

この何年間かベックがケガで体調を崩していたことは、本作のリリースに関してインフォメーションを目にするまで知らなかった。3年前に『ミラー・トラフィック』でベックのプロデュースを受けたスティーヴン・マルクマスから、レコーディング機材やマイクロフォンを大掛かりに設備投資してプロデューサー業に専念つつある、とインタヴューで聞いていたので、2008年の『モダン・ギルド』以降アルバムのリリースが途絶え、シャルロット・ゲンスブールやサーストン・ムーアとプロデュース作が続いたのも、そういうことと理解していた。ジャック・ホワイトの〈サード・マン・レコーズ〉からや去年配信&12インチでリリースされた単発的なシングルを除けば、この間の目立った仕事として、セイント・ヴィンセントやデヴェンドラ・バンハート、MGMT、ウィルコやトータスらの面々とヴェルヴェット・アンダーグラウンドやレナード・コーエンの名盤を丸々一枚カヴァーした企画「レコード・クラブ」も、ベックの役割はソロ名義での自作自演的なそれとは異なり、キュレーターというか、ある種のプロデューサー的なものだったと言えなくない(そういえばソニック・ユースの『EVOL』を全曲カヴァーするという話はどうなった?)。

そうした近年の動向を踏まえたとき、2年前に楽譜という形式で発表された『ソング・リーダー』のリリースも、自然の流れだったように思えてくる。一連のプロデュース業とカヴァー企画との間に共通点を挙げるとすれば、それはともに「他人の作品」に関わるという態度だ。そして、楽譜である『ソング・リーダー』も、それを聴くためには実作者ではない誰かの手を借りて初めて完成する作品である(後にベック自身によってもライヴで演奏されたが)。「曲の精神は楽譜に宿るんじゃない。それは誰かの手を通じてもたらされるべきものなんだ」と『ソング・リーダー』のリリース時のインタヴューでベックは語っていたが、実際に楽譜が演奏され、それが人々の間を渡ることで初めて音楽は命を吹き込まれるというメッセージは、それこそ「レコード・クラブ」で過去の名盤を再現させたセッションにも通じるものだったに違いない。

そもそも楽譜で作品を発表するアイデアは、20年近く前にある出版社が勝手に制作した『オディレイ』の楽譜版が送られてきたことがきっかけで、あの複雑にミックスされたサウンドがピアノ演奏用にすっかり抽象化(=カヴァー)されてしまっていたことに衝撃を受け、逆に楽譜用に曲を作ってみたら? と、以来温め続けられてきたものだったという。ベックは『ソング・リーダー』について、楽譜通り再現するのではなく、コードを書き換えたり好きな楽器を使ったりして自分流のアレンジで楽曲を作ることを奨励し、実際に演奏した動画をファンが投稿できるサイトまで用意した。その一連の(リ)アクションは、デルタ・ブルースやトラディショナル・フォークのレコードを聴き漁り、そこから学んだ作曲術や歌唱法の構造の中に様々なサウンドやアイデアを反映させることでオリジナルな作家性を獲得していった、ベック自身のキャリアの出発点も思い起こさせるものだろう。そして、まさしくブルースやフォークの歴史がそうであるように、人々の間で演奏され歌い継がれることを目的とした『ソング・リーダー』は、19世紀にアメリカで教則本の類いとして出版された楽譜帳/ソング・ブックを彷彿させるものだった。

一方、『ソング・リーダー』が興味深かったのは、それがベックにとって自身のソングライティングを再考する機会を促したことだった。『ソング・リーダー』が19世紀アメリカのソング・ブックを彷彿させたように、それは実際にジャズやフォークをベースとしたスタンダードでクラシックなアメリカン・ソングを意識して曲作りが行われたのだが、その意図した通り多くの人々に聴かれ歌い継がれるためには、世代を問わず楽曲に興味を持ってもらい、かつ、特別な技術がなくても演奏しやすいものにする必要がある。それこそ『オディレイ』に代表される複雑な構造のサウンドは排され、ある種これまでの手癖を禁じた上でメロディやコンポジションを吟味し、歌詞もプライヴェートな内容ではなく共感を得やすいユーモアや感傷を誘うものが選ばれた。そこでは何より「universality(普遍性)」が意識されたといい、そのプロセスは「自身のソングライティングをX線でスキャンして、拡大鏡で覗き込むような作業だった」と語っていたのが印象深い。

つまり、『ソング・リーダー』とはベックの伝統的な作曲術を「編集/(アメリカン・ソングの伝統的な作曲術と)折衷」する試みともいえ、さらに、その楽曲は他者に演奏/カヴァーされることで、いわば今日の伝統的(大衆的)な作曲術へと敷衍されることが期待されている、という。その入れ子構造のようなプロセスの中に、古のアメリカン・ソングが辿った歴史とベック自身の姿が重ね写されていた。

カリフォルニアの音楽の伝統に影響を受けた云々といった趣旨の発言が本作の発表とともに伝えられ、そこにはバーズやグラム・パーソンズ、ニール・ヤングといった具体名もベックの口から挙げられていた。さらに、本作のレコーディングにはかつての『シー・チェンジ』の制作陣が集められたということで、そのサウンドはある程度予想通りだったと言われれば否定できない。はたして『シー・チェンジ』と姉妹関係とまで言えるかどうかはさておき、たとえばダスト・ブラザーズを再招集して『オディレイ』をやり直した2005年の『グエロ』と並べてみれば、本作でベックがやりたかったことは明白だろう。アコースティック・ギターとドラムがたっぷりと間合いを取りながら進み、エコーをかけたりハーモニーを重ねられたヴォーカルがゆったりと流れる――いわゆるソングオリエンテッドな作風であり、逆に、ビートやリズムのプロダクションに目立った特徴は乏しい。そういう意味では、収録されなかった昨年のシングル群、とくに鋭いエディットを効かせた“デフレンデッド”や“ギミー”と本作ではサウンドの志向が異なることがあらためてわかる。ただし、単にオーガニックな歌ものというわけではなく、アンビエントな揺らぎをたたえた音響処理、やや大仰なきらいもあるが美しいストリングス・アレンジメントは、それこそ『シー・チェンジ』やペイヴメントの『テラー・トワイライト』におけるナイジェル・ゴドリッチの仕事も思わせて耳を引く(本作のプロデュースはセルフなのだろうか?)。

しかし、本作を『ソング・リーダー』との連続性で捉えたとき、やはり目が留まるのはカリフォニア・ミュージックの「伝統」という部分だろう。実際に本作のサウンドと、たとえばベックが名前を挙げたバンドやミュージシャンとの間にどの程度の相応関係があるのかどうかは問わない。そうした影響は、あらためて認識するまでもなく分かち難く染み付いたベックのソングライティングのルーツにも等しく、その種のソングオリエンテッドな作曲術やサイケデリックな感覚は『ミューテーションズ』や前作の『モダン・ギルド』でも存分に聴くことができた。いや、そもそもロスのダウンタウンの文化的/人種的にも雑多な環境で育ちながら、むしろその雑多性にまみれて同化することでアイデンティティを獲得し、やがて思春期の終わりにブルースやフォークと出会いアメリカン・ソングの伝統性に触れるも、どうしたって抗えない自身の、音楽家としての混血性と向き合い続けてきたのがベックだった。それが、どうしてこの機にあらためて「伝統」を意識するようになったのか。本作を聴きながら、それだけが気になった。

ベックは『ソング・リーダー』の完成後のインタヴューで、優れたソングライターとは、かつてのブルースやフォークのように聴き継がれて歌い継がれ、あらゆる時代を通じて“真実”を掴むような曲が書ける才能のことである、と語っていた。そして、そうして生まれた音楽は、社会が変わろうと、政治が変わろうと、人々が変わろうと、カルチャーの一部となり共鳴を呼ぶはずだ、と。ベックにとって『モーニング・フェイズ』は、果てしない理想を見据えた局面に新しく立った、その始まりを告げる作品だと思いたい。

文:天井潤之介

三世代に渡るアーティストとしてのルーツに敬意を払った
“リターン・トゥ・ザ・シー”な原点回帰作

前作『モダン・ギルト』から、実に6年ぶりの新作である。もちろんその間もサーストン・ムーアやスティーヴン・マルクマスのプロデュースに、過去の名盤を全曲カヴァーする“レコード・クラブ”のセッションにと休みなく活動していたわけだが、そんなベックがもっとも力を入れていたのが、ほぼ全曲を書き下ろし、演奏&プロデュースまで手掛けたシャルロット・ゲンスブールの2009年作『IRM』だったのではないだろうか。

ご存知の通り、シャルロットの父親であるセルジュ・ゲンスブールが、当時の妻だったジェーン・バーキンをフィーチャーした1971年のコンセプト・アルバム『メロディ・ネルソンの物語』は、ベックが2002年にリリースした『シー・チェンジ』に多大な影響を与えている。『メロディ・ネルソンの物語』のジャケットに写るジェーン・バーキンは、抱えたヌイグルミで妊娠中のお腹を隠していたというエピソードもあるぐらいだから、そのお腹の中にいたシャルロットとの共演は、ベックにとっても特別感慨深かったことだろう。だからこそ彼が、運命が一回りするという12年の周期で、再び『シー・チェンジ』と同じミュージシャンたちを集めてレコーディングし、同じフォトグラファーによるカヴァー・アートをあしらった新作をリリースすると聞いた時も、驚いたというよりは、妙に腑に落ちたことを覚えている。

もうひとつ連想されるのは、昨年逝去したルー・リードが1972年にリリースした『トランスフォーマー』と、そのジャケットをリメイクした1982年の『ブルー・マスク』の関係だ。フルクサスのメンバーだった祖父と、アンディ・ウォーホルのファクトリーに出入りしていた母親を持つベックにとっても、ルー・リードとの因果は浅からぬものがあるのだが、その『トランスフォーマー』や、(昨年『ヒーローズ』のリメイク・ジャケットでカムバックを果たした)デヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』でベースを弾いているのが、『メロディ・ネルソンの物語』にも参加しているハービー・フラワーズだったというのだから、運命の巡り合わせというのは恐ろしいものだ。

とはいえ、ここには『メロディ・ネルソンの物語』や『トランスフォーマー』に漂うシリアスで退廃的なムードはなく、本作でもストリングス・アレンジを担当しているベックの父親、デヴィッド・キャンベルが70年代に手掛けたウェストコーストのシンガー・ソングライターたちにも通じる、どこかレイドバックした作品になっている。もしかしたら彼は、三世代に渡るアーティストとしての自らのルーツに、本作で敬意を示したかったのかもしれない。

ただし、これは本作に限ったことではないのだが、様々な音楽を読み解く“ソングリーダー”としての素質と比べて、“ソングライター”としての彼の才能は、スフィアン・スティーヴンスやアイアン・アンド・ワインといった下の世代のアーティストたちと比べても、若干見劣りしているような気がしてならない。ストレートに捉えれば、腹を据えて“うた”と正面から向かい合ったようにも思える本作だが、年内にはまったくサウンドの異なるもう1枚のアルバムのリリースが控えているそうで、それが彼の音楽性の幅広さを証明すると同時に、「これもひとつの側面に過ぎないのだ」という逃げ道を、あらかじめ用意しているような印象を与えてしまうのだ。もっとも、メジャー・デビュー作となった『メロウ・ゴールド』と、同年にインディーの〈K〉レーベルからリリースされた『ワン・フット・イン・ザ・グレイヴ』のように、彼自身はいつもそうやってバランスを取ってきたのだろう。そういう意味ではまさに“表”と言えるのが本作なのだが、それだけに“裏”の作品が早く聴きたくなってしまうのは、自分だけではないはずだ。

文:清水祐也

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