2022年の年明け早々、嘘をついてしまった。それも、半永久的に残る可能性もあるポッドキャストで。突如、「ザ・ウィークエンドの好きなアルバムを3枚選んでください」と振られたのだ。最新作『ドーン・FM』を巡っての鼎談中のこと。パンガトリー(煉獄さん)で鳴り響くラジオ、というコンセプトをどう的確に話すかだけで頭がいっぱいなのに、ふつうに訊かれても1週間くらい悩む質問の答えを60分強で出せ、という。ミスター・タナカこそ煉獄の番人なのでは、と思いましたね、私は。苦しまぎれの答えは〈the sign podcast〉S4-E2を聞いてもらうとして、ここ10年強の週末さんへの思い入れを織り交ぜつつ最新作をレヴューを記す。
ザ・ウィークエンドことエイベル・テスティファイは、00年代後半からにわかに盛り上がった「オルタナティヴR&B」ブームの最中に出てきたシンガーソングライターだ。いまでこそネオソウルもカウントされるようになったが、当初は既存のR&Bの様式から外れながらも、確実にR&Bの香りが強い音楽をまとめてぶっ込む、便利だけれど「オルタナティヴ」という言葉が元々持っている弱点がはっきりと出たカテゴリーだった。ミゲルやジェネイ・アイコ、そしてザ・ウィークエンドなど、「これ、R&Bだよね? でもコーラスとかブリッジとかお約束の構成を無視しているよね?」な曲が得意なアーティストが代表選手。ザ・ウィークエンドの曲だと、たとえば『ビューティー・ビハインド・ザ・マッドネス』の1曲目“リアル・ライフ”がわかりやすい。R&Bの新女王メアリー・J・ブライジの“リアル・ラヴ”をうっすら敷いて、「本物の愛を探しているの」と92年に絶叫しながら出てきた女王と想いをリンクさせつつ、新しい質感のR&Bに仕上げていた。
それ以前にR&Bを昇華させて自分なりのポップを極めたのが、マイケル・ジャクソンである。ザ・ウィークエンドは、声質が似ているマイケルを強く意識してきた人だ。だいたい、ビヨンセ、カニエ・ウェスト、ドレイクなど2010年代を制したアーティストの多くは、2009年に亡くなったMJの存在感と喪失感、影響の強さと闘ったり、憑依したり、参考にしたりしてヒットを出し続けてきた。2010年代のブラック・ミュージックは20世紀の終わり頃から君臨した亡霊にゆっくりと別れを告げ、ステップを踏みながら喪に服した10年ともいえる。
そして、2020年代。「俺、イケてるぜ!」と強気なリリックが多かった『スターボーイ』から一転、『アフター・アワーズ』は初期のもの憂げなムードに戻ったリリックに、ダンス・ミュージックへ大きく舵を切りながらサウンドを組み合わせてファンを驚かせた。マイケルがもっとも輝いた80年代からの引用も目立った。ただし、“ブラインディング・ライツ”のPVでちらっとデヴィッド・ボウイの“チャイナ・ガール”(1983)をオマージュするなど、イギリスの80’sヒットも参考にしているが。運命に導かれるように引っ越したハリウッドは肌に合わず、ラスベガスへと逃げ出して命を落とすギリギリまで放蕩のかぎりを尽くすというコンセプト。その過程全体が「パーティーの後=アフターアワーズ」であり、心からも体からも血を流している様子を見せつけた。PVでは自ら死体になっていたが、生と性への執着が強い作品でもあった。
『ドーン・FM』はその延長線上にある。アートワークでは老人になったエイベルがこちらを見つめ、煉獄で流れるラジオ「夜明けのFM」のホストはジム・キャリーが務める。ハリウッドで多くのブロックバスター作品を放っているキャリーは、カナダのオンタリオ州の出身の俳優だ。アメリカのエンタメ界で大成功しつつ、言いたいことを発言する同じカナダ人の彼を、ザ・ウィークエンドが神にちかい立場に置いているのがおもしろい。死後の世界で聴く設定だけあり、「うっかりODで死んだら遺体にガソリンをかけて燃やしてくれ」と歌う1曲目の“ガソリン”からして、いままで以上に死の匂いがの濃厚である。大事な彼女とドラッグのあいだで揺れうごく、おなじみのテーマから(“サクリファイス”、“レス・ザン・ゼロ”」)、首絞めセックス(“テイク・マイ・ブレス”、“ガソリン”)まで。“テイク・マイ・ブレス”のPVでは酸素マスクとも人工呼吸器とも取れるマスクを装着して、Covid-19と共生している現状を風刺しているのは、鋭いのか悪趣味なのか。
サウンド的にはスウェディッシュ・ハウス・マフィアやイタリアのDJデュオ、エージェンツ・オブ・タイムをプロデュースやリミックスに起用してダンスフロア映えを意識しているのが大きな特徴だろう。“アウト・オブ・タイム”で亜蘭知子×織田哲郎の“Midnight Pretenders”をそのまま使ってシティポップを大胆に取り入れて話題になっているが、ザ・ウィークエンドは元々、親日家である。大ヒット中の“サクリファイス”のビート(←あえて)がマイケル風味であるうえ、PVでは“ビリー・ジーン”(1983)の光る石畳を踏みながら踊る様子をまねしている。さらに、『スリラー』と『バッド』でマイケルと歴史を刻んだクインシー・ジョーンズのモノローグをインタールードに入れるダメ押しぶりだ。
物騒な言葉を挟みながらも、あいかわらず全編がラヴ・ソングだ。ただし、毒もある。歌詞がヒップホップ・マナーの“ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン”はふたたび恋に落ちる曲なのに、タイラー・ザ・クリエイターが婚前契約書をもちだしてムードをぶち壊しているし、カルヴィン・ハリスが作った“結婚したんだってね(邦題)”ではリル・ウェインが「新郎は俺が殺すから!」とオチをつけている。ラッパーに自分の本音を代弁してもらうあたり、策士である。“レス・ザン・ゼロ”は80年代に一世を風靡したブレット・イーストン・エリスの小説、および映画からの引用だろう。金持ちの道楽息子とドラッグ、恋愛を絡めた世界観はいかにもエイベルさんの好み。
ハリボテ感のある煉獄ではあるが、些細なことで大喜びしたり死にそうになったりする恋愛の醍醐味を描きつつ、ドラッグやパンデミックを匂わせて「いつ死んでもおかしくないから、怖がるのはよそうよ」とのメッセージは本気だ。12曲目のインタールードでドイツの詩人、リルケ『ドゥイノの悲歌』の冒頭の4行を引っ張り出していて、対訳を担当した私も死んだ。プロデューサーのOPN(ワンオートリクス・ポイント・ネヴァー)の趣味らしいのだけれど、今年、バレンタインデーの2日後に32歳になるザ・ウィークエンドが、自分なりの死生観を示した本作にぴったりはまって見事。このエレジーの第1歌を書いたとき、リルケは36才。全部で10ある悲歌を書き上げるまでさらに10年を要したのだが、エイベルさんもしばらく「死に際」をテーマにするかもしれない。2016年に「君のためなら死ねる」(“ダイ・フォー・ユー”)と歌っていたところから5年半、自分の音楽で人々を天国に導く役割を買ってでた彼は大きな視点で生と死に向き合うようになったのだ。
ということで、ザ・ウィークエンドで好きなアルバムは「全作」です。
誰もが知るように、『ドーン・FM』はワンオートリクス・ポイント・ネヴァー(以下OPN表記)ことダニエル・ロパティンを中心的なプロデューサーとして起用している。OPNの前作『マジック・ワンオートリクス・ポイント・ネヴァー』(2020年)のエグゼクティブ・プロデューサーはザ・ウィークエンドことエイベル・テスファイであり、スーパーボウルのハーフタイム・ショーにおけるザ・ウィークエンドのステージではOPNが音楽監督を務め、OPNが音楽を担当した映画『アンカット・ダイヤモンド』にはエイベルが(主役のアダム・サンドラーに殴られるシンガーとして)出演していた。エイベル・テスファイとダニエル・ロパティンはここ数年近い距離で制作に励むパートナーであり、『ドーン・FM』は『マジック・ワンオートリクス・ポイント・ネヴァー』と近似した作品として語られている。二作ともラジオのコンセプトを持ったアルバムであり、ゼラチンのような透明さを誇るシンセ・サウンドも似通っているのだから、『ドーン・FM』と『マジック・ワンオートリクス・ポイント・ネヴァー』を連続的なものとして捉えるのも至極道理であろう。しかしながら、この二作は全く異なる作業を行っている。
OPNの『マジック・ワンオートリクス・ポイント・ネヴァー』は、エレクトロニクスの録音作品における生々しさを表現していた。ジャンルもスタイルも異なる楽曲が矢継ぎ早に現れては消えていく断片感と、ノイズの混じるラジオ・プログラムの統一感がぶつかることで、今この瞬間に音が生成されるような「リアルタイム」の感触が生じていた。対して『ドーン・FM』は、今この瞬間の生々しさを志向しない。時が全く停止したかのような、朽ち切った廃墟のアルバムとして存在している。
2018年の年末、渋谷の松涛美術館で企画展「終わりの向こうへ:廃墟の美術史」を観た。この展示は、18世紀ヨーロッパで「廃墟ブーム」が起こり、そこから生まれた芸術が明治期に日本に輸入され、現在の日本の絵画にも廃墟の想像力が生きていることを示すものだった。
廃墟とは、時間の止まった感覚を人間に知らせる装置である。18世紀中頃にポンペイなどの遺跡が発掘され、ギリシアとローマの廃墟に注目が集まり、イギリスの裕福な貴族は廃墟を周遊する「グランド・ツアー」を開始する。廃墟に刺激を受けたユベール・ロベールやジョバンニ・バッティスタ・ピラネージといった画家が描いたのは、過去の朽ちたローマと現在のイタリアをひとつに重ねることで現れる、「時間のない空間」だった。
野又穫や元田久治といった現代日本の画家が描くのは、廃墟化した東京のイメージである。未来に対する恐れや不安を具現化するように、渋谷駅前の交差点や表参道の街並みといったランドマークの廃れた姿を、細かくモノクロで描く。壊れた未来と現在の東京を二重写しにすることで、「時間のない空間」を表した。
ザ・ウィークエンド『ドーン・FM』の奇妙な点は、時間芸術である音楽で無時間性を表したことにある。本作を聴いた誰もが、80年代のポップを連想する。シンセやドラムののっぺりした音色はデペッシュ・モードやヤズーを彷彿とさせるし、スタッカートするエイベルのブレスは即座にマイケル・ジャクソンを思わせる。“アウト・オブ・タイム”においては、亜蘭知子“Midnight Pretenders”(1983年)を思い切りサンプリングしている。これまでのザ・ウィークエンドのアルバムにも80年代オマージュは溢れていたが、今回ほど「80年代まんま」なサウンドはなかった。そんなサウンド・キャラクターが、ダニエル・ロパティン、マックス・マーティン、オスカー・ホルター、スウェディッシュ・ハウス・マフィアといったプロデューサー陣の手によって、今の音質へと快楽的に彫琢されている。一切の無駄を感じさせない、ギリシア彫刻のごとき滑らかさ。過去と現代が、音の上で重なる(この特徴は、70年代ソウルと現代のサウンドが奇妙に重なるシルク・ソニックのアルバムとも共通している)。
視覚イメージにも目を向けてみると、本作のジャケットを飾るのは年老いて皺まみれになった白髪のエイベルの顔であり、“ガソリン”のMVでは現在のエイベルが補聴器をつけた老エイベルに容赦なく何度も暴行を加える。壊れた未来の男と現在のポップ・スターが出会って衝突する。つまり本作では、サウンド面で80年代という過去と現在を重ね合わせ、ヴィジュアル面で壊れた未来と現在を重ね合わせているのだ。この二段階の作業によって、「時間のない空間」が時間の中に生まれる。過去と未来という時間感覚を無効にする『ドーン・FM』は、かくして「時間の存在しない」音楽となる。
この世と天国(あるいは地獄)の境目、神学用語でいうところの「煉獄」に流れるラジオというのが本作のコンセプトであり、本作の無時間性は現世から離れるときのスピリチュアルな感覚を表しているといえる。しかしながら、ザ・ウィークエンドが演出する世界は神聖さとは程遠い。人間関係の苦しみに塗れており、ひたすらに俗っぽい。アルバムの最後でラジオDJジム・キャリーが「痛みを抱え、後悔の幻影に囚われているあなたは、まだ死ぬことができない」と告げて天国の扉を閉ざすことからもわかるように、本作にはエモーショナルな苦痛の表現が溢れている。“テイク・マイ・ブレス”では、ディスコ・ビートに乗せて首を絞めあうセックスへの憧憬と怖れが描かれる。“アウト・オブ・タイム”では、元ネタの亜蘭知子が一度カーネルの音を強調した落ち着いたヴォーカルを示すのに対し、エイベル・テスファイは情緒的な六度カーネルの音で時間切れになった恋を嘆く。高音域ではりつめるヴォーカルは、日本語の原曲以上に90年代のJ-POPと近しい(90年代は、甲高い歌に溢れた時代だった)。本作を聴いているうちに、なんだかミスターチルドレンの『深海』(1996年)っぽいなと思うようになった。スターダムと恋と性の苦しみを描く楽曲(具体的には“虜”は“テイク・マイ・ブレス”だし、“手紙”は“アウト・オブ・タイム”だ)、痛みと自己愛の過剰な表出、エモーションに傾く高音のヴォーカリゼーション、シーラカンスや深海などの無時間的なアイテムを散りばめたコンセプト性。音の参照先は異なれども、ポップ・スターの苦悩を情緒的かつ生真面目に描く気恥ずかしさを、ザ・ウィークエンドとミスチルは共有している。“レス・ザン・ゼロ”のシンセ・フレーズはおそらくデヴィッド・ボウイ“ザ・マン・フー・ソールド・ザ・ワールド”の引用だが、これも「自分自身との対話」というテーマを引き出すのにベタベタな選択だ。
音は一つの美学に沿って完璧に構築されているのに、含まれるエモーションは恥ずかしくて暑苦しい。「煉獄」より「廃墟」を感じるのは、おそらくそのせいだ。当然のことだが、廃墟は無時間的であると同時に、人間たちが作ったただの有限な建築物でもある。元々は俗な物質のかたまりであるにもかかわらずそこに超越を見出してしまう点において、『ドーン・FM』には廃墟がふさわしい。
カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』の言葉が正しければ、物理科学の研究で時間の流れは否定されている。つまりこの世界のすべては「無時間」であり、時間は、人間の認識内だけで発生する「錯覚」でしかない。しかし、たとえそうだとしても、私たちが時間感覚を手放すには相当の歳月が必要だろう。過去を悔やまない自分なんて、今は全く想像できない。時間のなさを知識としては認識できても、実感するのは極めて困難に思える。『ドーン・FM』という名の廃墟は、存在しないはずの時間の流れに感情を縛られて生きている、私たちの現在地を反映している。