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WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO? Billie Eilish (Universal) by RYO ISOBE
MARI HAGIHARA
KENTA TERUNUMA
May 14, 2019
WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?

青すぎる海の水圧に押し潰されそうな闇の奥底で鳴らされた呟き
誰にも届かないはずのサウンドが取り結ぶ「無数の1対1の関係」

ビリー・アイリッシュの〈コーチュラ〉におけるライヴ・パフォーマンスをソウルで観た。何のことはない、家族旅行中、宿泊していたホテルで娘を寝つかせた後、ちょうど再配信が始まったからなのだが、部屋の冷蔵庫に入っていたカスビールを飲みながら観るそれは、東京という定位置と少しだけずれている分、現代のポップ・カルチャーのグローバル性とリアルタイム性をいつもよりも意識させてくれた気がする。

ライヴは特に、観客の熱狂を当人が真正面から受け止める姿が印象に残った。ちなみに、そこで鳴らされていた音楽に関して言えば、デビュー・アルバム『ホエン・ウィー・オール・フォール・アスリープ、ホエア・ドゥー・ウィー・ゴー?』の発表より1ヶ月が経ち、議題は大方出揃っていると言っていいだろう。「トラップとダブステップを通過したゴス・ポップ」「メンタル・ヘルスの時代のティーン・ポップ」「分裂的な歌詞やおどろおどろしいヴィジュアルでは若者の危うさが表現される一方、芸能一家で共に育った兄のフィネアス・オコンネルとつくるサウンドは高い技術と明確なコンセプトに裏打ちされている」……というように。

ステージで飛び跳ねるビリー・アイリッシュはとても健全に見えた。彼女自身は神経系疾患だということを公表しているわけで語弊があるが、例えば、同時代のいわゆるエモ・ラップと違うのは、ドラッグの快楽目的での使用を明確に否定しており、そのメタメッセージは、2017年後半から昨年前半にかけて、リル・ピープとXXXテンタシオンというふたりの重要人物を失った(後者の死因は銃殺)ムーヴメントへのカウンターとなっている。

筆者はリスナーとして、『ホエン・ウィー・オール・フォール・アスリープ~』には当事者というより「女の子」の親という――遊び疲れてベッドで大の字になり眠っている娘はビリー・アイリッシュにハマるにはまだ幼な過ぎるものの、その音楽は、やがてやってくるだろう不安定な時期を生々しく想像させる――距離感でもって接しているのが正直なところだ。その点、ビリー・アイリッシュの場合、子供が影響を受けてフェイス・タトゥーを入れたり、ドラッグを過剰摂取することはない、親にとって安心出来るポップ・ミュージックなのかもしれない(髪は青く染めるかもしれないが)。もしくは、エモ・ラップが、近年のアメリカにおけるティーンの自殺率の急激な増加とリンクしてモラル・パニックを引き起こしているのだとしたら、当事者の、心の闇の奥深くに入り込みながら出口を示唆するビリー・アイリッシュは、同国が陥っているスーサイド・クライシスを治癒する表現だと言える。

また、彼女のライヴは、暴れまわりながらもレコード作品の特徴であるウィスパー・ヴォイスをキープしていたことにプロフェッショナリズムを感じさせた。ラップ・ミュージックとの比較を続けるなら、やはり低いトーンで殺伐とした世界観を表現する21サヴェージが、昨年の〈コーチェラ〉のライヴでは他のラッパーと同じように声を張り上げていたことが記憶に残っていたのだろう。一方、ビリー・アイリッシュの場合、躍動的なパフォーマンスをしても内省的な世界観が崩れることはないし、観客はそこに引き込まれ、その場には言わば彼女と自分という1対1の関係が無数に出来ることになる。

その観点から『ホエン・ウィー・オール・フォール・アスリープ~』を聴き直してみると、このアルバムはスピーカーよりもやはりヘッドフォン/イヤフォンを通して再生する方がしっくりくるように思う。ヴォーカルだけでなくスナップやノイズも含め、オコンネル兄妹のサウンドに特有の、耳元で鳴るようなつくりに関して、〈ピッチフォーク〉は「ビリー・アイリッシュは如何にしてASMRのアイコンになったのか」という記事で、新しいフェティッシュ・カルチャーとの同時代性を論じていたが、それは、スマートフォン並びにbeatsやAirPodsといった商品のヒットを通して、ヘッドフォン/イヤフォンで音楽を聴く機会が増加した時代に適応したサウンドでもあるのだ。1920年代に、クルーナー唱法がメディアや技術の発展によって生まれたのと同じように。

もしくは、オコンネル兄妹のサウンドについて、度々、サブベースの過剰さも指摘されるが、ヘッドフォン/イヤフォンで聴くその低音はASMRの効果とは反対に、むしろ耳が詰まるような息苦しさを味わわせる。その中で、ビリーのヴォーカルは深海の水圧に潰されそうになってもがいているように聴こえる。それは確かに、2019年のムードを見事に表現したサウンド・デザインだろう。

文:磯部涼

ファン・カルチャーの申し子として現れた17歳は
いまを生きる不安を、夢と現実が混ざる不穏を体現する

ビリー・アイリッシュでいちばん好きなのは、ジャスティン・ビーバーの大ファンだというところ。ビリーが初めてジャスティンに会ってめちゃくちゃ感激していた瞬間が、〈コーチェラ 2019〉のハイライトなんじゃないでしょうか。と、そこから始めたくなるほど、彼女はファン・カルチャーの申し子。ビリー自身がファンガールであるところにティーンは絶大な信頼を置いているし、3年前に“オーシャン・アイズ”が発表されてから、楽曲やヴィデオのメッセージを通じて、SNSやDMを通じて、ビリー・アイリッシュは同年代のキッズとともに育ち、とても特別でパーソナルなファンダムを築いてきたのです。そしてストリーミングで何十億回と曲が再生され、ライヴに世界からファンが集まるようになってはじめて、このデビュー・アルバムをドロップ。普通のティーン・アイドルのブレイクとは様相が違う。

ビリーはファンの熱狂も、求めるものも、その毒や危険も身をもって知っています。なにせ彼女自身、ビーバー熱がいちばん高まっていた時期の自己嫌悪を「毎日泣いて、惨めだった」と語るのだから。そんな思いをいま、自分がファンに与えていることに心を痛めてもいる。キッズはその正直さを信用しているし、まるで入れ子のようにそこに自身を見ています。〈ファイア・フェス〉以降、インスタグラマーやインフルエンサーの商業ベースな薄っぺらさが露呈したいま、「でもビリー・アイリッシュだけは自分の気持ちがわかっている」と。

つまり、大人以外はみんな知っていたビリーの存在と表現が、いまアルバムが各国のチャートで1位となり、大人の目にも見えるところに出てきただけ、と言えるかもしれない。兄のフィネアスと共作するその音楽はジャンルレスで、ダークで、ポップで、EDM的にナスティなプロダクションと繊細なピアノ・バラッドが共存している。そして甘く毒のあるメロディ、それをささやくように歌うビリーの声。明晰夢、ナイト・テラー、潜在意識――さまざまな「夢」がモチーフとして出てきて、現実の悪夢と溶け合います。フィーリングとして大きいのは、気候変動も、気になる男子の無関心も、同様にエモーショナルなクライシスとして受け止めてしまう10代の不安。リード・シングル“ブリー・ア・フレンド”ではベッドの下に棲む怪物と自分がひとつになり、ステージでこの曲をやるとき、ビリーは病院のベッドの上でひとり歌いはじめ、曲の半ばでベッドとともに空中に吊るされてみせるのです。

同曲のヴィデオでは、彼女は映画『シックス・センス』の少女の幽霊のように、『ババドック』の怪物のように、ベッドの下の暗闇にうずくまっている。そう、このアルバムはちょっとインディ・ホラー映画のようでもあります。予算はなくても鋭いセンスとアイデアがあり、親密なムードが恐怖を倍増させ、「いまを生きる恐ろしさ」を体感させるポップなエンタテイメント。音楽だけでなく、ヴィデオやファッション、ビリーを取り巻くすべてのイメージが、どこまでも個人的でありながら意識的で、扇動的でもある。ぶかぶかのバギーな服を着て、ブラックのラッパーみたいに話し、「私は女の子だけど、女の子っぽくはなりたくない」とジェンダー・ロールを突き放す彼女。曖昧な部分を残しながら、本心をさらけ出す彼女。それもすべてファンのため、ファンとともに。ビリー・アイリッシュは未来のスター? そうじゃない、彼女こそ現在なのです。

文:萩原麻理

この20年の一つの終着点、あるいはオルタナティヴの始まり

デジタル・デヴァイスの性能向上とコモディティ化により、音楽制作における音色選びは、空間的・時間的・金銭的制約をほとんど受けなくなった。もはや大音量でコードを鳴らすためにギターとアンプに手を伸ばすことも、ビートを刻むためにドラムセットを叩くことも必要ない。むしろ、時間をかけて技術を習得して演奏され、高価なマイクやミキサーを通して録音される、生楽器の豊かな響きが、デフォルメされた合成音よりも人々の耳を引かないというケースが日常茶飯事なのは、このテキストにたどり着いた大半の読者はすでにご存知だろう。

スタジオ設備やその技術の衰退は別として、そうした傾向自体は何も嘆くべきことばかりではない。ハリウッド映画が俳優の毛穴まで見えるような超高精細映像や現実そのものの色彩を目指すのではなく、非現実的な色調やフィルム・ライクなノイズを後加工することで作品の世界観を表現しているように、音楽もハイレゾリューションやハイフィデリティであることがその表現にとって正義とは限らないのだ。

さて、ここで少し仮定してみよう。

仮定1:あなたは「曲を作ろう」と思った。
仮定2:あなたの中には、鳴らされるべき感情あるいはイメージがある。

そこであなたは曲を作るべく、何となくギターを手に取った。もしくはDAWのライブラリからギターを選択したとも仮定しよう。

…しかし、それはなぜだろう?

どうして数ある楽器からギターを? その曲にギターが必要だと思った理由は? コードを鳴らそうと思ったのなら、ピアノではどうしてもダメ? あるいはシンセをいじることで、よりあなたのイメージに近い音を作れたのでは?

………。

いったんそのギターを置いて、次の仮定に進もう。

仮定3:ここには、あなたの脳内からそれを一切のロスなく音声データとして取り出せる装置がある。

よし、この装置を使おう。

さて、そんな便利なデバイスを使い、あなたが自分の中から純粋に取り出した音声データは、いったいどんな音楽だろう? 想像してみてほしい。あなたの内側から湧き出る音楽を。

おそらくそこにはピアノやギター、ドラムなど、特定の楽器は鳴っていないはずだ。ましてや、始まりも終わりもあるか分からない、心象風景あるいはノイズ、コラージュの類となるのではないだろうか。それはあまりにとりとめもなく、光や風、あるいは塵や汚物のようなものと同等かもしれない。(エイフェックス・ツイン『セレクテッド・アンビエント・ワークス・ヴォリューム2』がいかに意識と無意識、作為と無作為の狭間をせめぎあいながら作られた作品であるかに気づくことだろう)。

まどろっこしいシミュレーションだったかもしれないが、このプロセスを経てみれば、リズム、メロディ、ハーモニー、そして言葉によって構成され、3~4分間程度にまとめられる「ポップ・ミュージック」が、いかに聴き手とコミュニケーションを図っている音楽であるかということが再認識できるだろう。そして、このビリー・アイリッシュのデビュー・アルバムが、いかに優れたサウンド・プロダクションを我々に提示しているかにも。

もはや音楽を奏でるためにバンド編成が必要だった時代ではない。ビートルズがリッケンバッカーやヘフナー、ラディックを手に取った時代とも訳が違う。ギターやドラム、あるいはTR-808などの特定の楽器には(もちろん音色としての特性や魅力は健在ながらも)イメージがべったりと張り付いているのだ。ヒップホップの楽曲で、自らが現代のロック・スターであることを表現すべく歪んだギターが使われるのを聴いたことはないだろうか? そう、もはや生楽器だとしても、そこにはサンプリング性が多分に含まれている時代なのだ。

本作で使われている「サウンド」は大きく3つに分かれている。

1. 手術音や人体を叩く音をサンプリングしていたマシュー・ハーバート『ボディリー・ファンクション』を連想させる、吐息やクラップ、心臓の鼓動を模したであろうキックなどの生理的なサウンド(冒頭の“バッド・ガイ”が最たる例だ)。

2. 記号性を纏いながら、時にデフォルメされる楽器やサンプリング音(切実な感情をメロドラマ風に客観化された”ウィッシュ・ユー・ワー・ゲイ”など)。

3. 各パートを融合させ、楽曲世界に定着させるためのサウンドやエフェクト(“ザニー”ではビリーの歌声とベースを同時に細かく震わせるなどして、ヴォーカルとビート、デジタルとアナログの区別が曖昧になっている)。

本作はこれらの融合によって、イマジネーション豊かな音世界を展開しながらも、まるでモノラル録音かのように全てが渾然一体となったトータルなサウンド・プロダクションを実現している。これは「ビート」の上に「ヴォーカル」あるいは「ラップ」が乗る、ある意味では「本物の音源ですらカラオケ状態」だった近年のメインストリーム・ポップとエクスペリメンタル・ポップ、その両方に対して投げかけられた強烈なオルタナティヴだ。

トラップ以降のフィーリング、スクリュー、ポストEDMの楽曲構成、ミニマルな音数などの極めて現代的なサウンドをベースとしながら、そこにビートルズ・ライクなコード・プログレッションを融合させていることも含め(ポール・マッカートニーやデイヴ・グロールなどのベテラン受けが良い理由のうち半分くらいはここにあるだろう)、本作は00年代~テン年代ポップの一つの終着点あるいはターニング・ポイント的な作品と言えるだろう。

文:照沼健太

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