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WOMEN IN MUSIC PT. III Haim (Universal) by KENTA TERUNUMA
KOHEI YAGI
August 24, 2020
WOMEN IN MUSIC PT. III

ウイルスに満ちた世界、清浄なインターネット
それとは無縁に、地球は高速で宇宙を移動し続けている

〈Ableton Live〉時代のインディ・ロック。ハイムのデビューはそう呼ぶべき鮮烈なものだった。クラシック・ロックと80年代ポップを思わせるフィーリングとメロディを、90年代後半~00年代ポップ・アクト的なクラブ・ミュージックを土台としたループ・サウンドに落とし込んだその音楽性は、かつてインディが体現していた“ヒップ感”とポップ・ミュージックとしての“王道感”を両立させた稀有なものだったからだ。そして彼女たちは瞬く間にスターダムにのし上がり、テイラー・スウィフトやチャーリー・XCXらとインディ/メインストリームの垣根を超えたコネクションやコラボレーションを果たすまでになった。そう、あらゆる意味でジャンルの壁が融解した2010年代におけるロック・バンド/インディ・バンドにとっての“成功”のロール・モデルを示したのは、彼女たちハイムとThe 1975だと言ってもいいだろう。

だが、一見華やかなYouTuberやインスタグラマーが、その撮影の裏側には極めて地味な労力を要し、ネタ切れや仕様変更に苦しみ怯える神経質さを伴うように、The 1975とハイムも単純に“成功”を謳歌することは許されなかった。The 1975のマシューは(兼ねてからその傾向はあったものの)薬物中毒に本格的に苦しみ、ハイムの3人は身内の病気やツアーによる疲弊に伴う鬱に苦しむことになってしまう(思い返せば、筆者がThe 1975デビュー時のマシューにインタヴューした際、“共感する同世代のバンド”として唯一その名を挙げたのがハイムだった)。

そんな苦境に立ったハイムが作った3作目のアルバム『ウーマン・イン・ミュージック パートIII』は、タイトルが示す通り彼女たちの経験が詰まった最もパーソナルなアルバムに仕上がった。歌詞は叙情性を、演奏はドキュメンタリー性を強め、アレンジも前作『サムシング・トゥ・テル・ユー』の緻密さと比べずいぶんと直感的だ。これまでの2作品を支えていた「ラップやR&Bを通過したバンド・サウンドなんて当たり前」といった感じのパワフルでモダンなプロダクションも、ここでは大きくレイドバックした。意地悪な言い方をすれば、冒頭で「〈Ableton Live〉時代のインディ・ロック」と評したような、時代の最先端を行くヒップさはここにはもはや存在しない。しかし、これは彼女たちのディスコグラフィにおいて、その音楽性と主題、そして社会がシンクロした、現時点で文句なしの最高傑作だ。

レゲエを取り込んだピースフルな楽曲に乗せ「このところ全くうまくいかない」と歌い、LAというホームタウンに対する愛憎に似た気持ちを吐露するオープニング・トラック”ホームタウン”が象徴するように、本作の多くの楽曲はその歌詞において“移動”をモチーフとしながら、どこにも行けないこと、あるいはどこに行っても憂鬱からは逃げられないという息苦しさや無力感を扱っている。しかし、サウンドはその正反対で、ホーム・スタジオでラフにレコーディングされたようにリラクシンで、演奏も表情豊か。そんな“陰のリリック”と“陽のサウンド”がコントラストを描くという本作の基本的構造は、バンド自らが本作の制作を「セラピーのようだった」と語る通り、彼女たちが抱える不安や自らの状況を、生活の中で思わず口ずさんでしまうような音楽に昇華したという図式そのものでもある。

そして、そんなほろ苦くも甘い音楽は、図らずもパンデミック下の世界とシンクロした。ミュージシャンの女性として生活する彼女たちが感じた居心地の悪さ、生きづらさは、ハイムのフレンドリーなキャラクターも相まって“ポップ・スターの憂鬱”としてではなく、何一つ正しいと思えない2020年に暮らす私たちにとって身近なものとなったのだ。

パンデミックが起ころうが、水害が起ころうが、SNSが炎上しようが、鬱になろうが、生活は続く。窓の外に輝く陽光、陰鬱とした自室、不穏な予感に満ちた電話。あなたはそんな状況から逃げ出そうと車のキーを握りしめる。しかし、外にはウイルスの恐怖だけでなく熱中症の不安があり、ガソリンはほとんどない。いや、そもそも車なんて持っていない。それならばとNetflixやSpotifyを起動させたとしても、無限に広がるコンテンツの前に立ち尽くしてしまう。何をしても気が紛れない。漠然とした不安が心を満たし、あなたはため息をつきながらベッドに倒れ込んでしまう。エアコンの効いた部屋で目を瞑れば、思い浮かぶのは無視できないトピックばかり。外出自粛、政府による補償、布マスク、BLM……。あらゆるトピックに対して憤っているのはあなたも同じ。しかし、自分以上に誰かが苛烈に怒っている。そして彼らを前に躊躇した瞬間「無言でいるのは賛成と同じだ」というプレッシャーが押し寄せる。あなたは、子供時代、そろそろ夏休みの宿題に取り掛かろうと腰を上げた瞬間に「いつまで遊んでるの! 宿題しなさい!」と怒られたときのことを思い出す。ああ、もううんざりだ。数分の昼寝後、気分転換にUber Eatsでタピオカ・ミルクティでも頼もうかと思えば、SNSで誰かがまた「Uber Eatsを使うことは格差拡大の助長だ」と怒っている。さらには、タピオカ・ミルクティは原価の面から情弱の飲み物なんだとか。分かりました、分かりましたよ。グローバリズムの象徴であるナイキのスニーカーを窓から投げ捨てます。どこかの国で劣悪な環境で働かせられている少女が作ったユニクロのフーディを買ったことをインスタ・ライヴで懺悔しながら手首を切ってやりますよ。そう思い、疲れ果て、あなたはまた眠りに落ちる。つけっ放しのエアコンは眠るあなたを熱中症から守りながら、地球の気温を上げ続ける……。

誰もがすべてを同時にこなすことはできない。でも、自分からはみんなが全てを実現しているように見えてしまう。そんなあなたに、少なくともこのレコードだけはこう語りかける。「このままあなたのことを愛し続けるわ」。そして、こうしてる間にも、地球は高速で自転し、太陽の周りを公転し、太陽系もろとも宇宙を高速で移動し続けている。

……ちなみにハイムの3人は本作を「WIMPIII(ウィンピー)」と呼んでいるという。ウィンピー! かわいくていいじゃないか。

文:照沼健太

時代との接点で産まれる音楽のふくよかさ
類いまれなインテリジェンスがもたらすロック・バンドの煌めき

クリエイティヴィティの総合力。この点において、今のハイムは世界でトップ・クラスのロック・バンドだろう。音楽、リリック、アルバム・ジャケット、MV、そのどれもが圧倒的に魅力があり、ハイムを世界屈指のロック・バンドに押し上げている。その総合力の高さを支えるのは何だろうか。クレヴァーで、抜け目のない、そして凄まじい精度のスタッフの人選が大きな要因のひとつだろう。

『ウーマン・イン・ミュージック Part III』だけ見ても、人選の充実ぶりは明らかだ。プロデューサーには、ハイムの活動に長く付き合ってきたアリエル・レヒトシェイドと、前作『サムシング・トゥ・テル・ユー』からハイムと仕事をしているロスタム・バトマングリのふたりを呼んだ。前作ではアリエルが軸になっていたが、本作ではアリエルとロスタムのパワー・バランスが、少なくともクレジット上ではほとんど拮抗している。これまであったハイムの魅力をアリエルが継承しつつ、ロスタムという新風を入れる。このバランス感覚が本作では吉と出た。前作は、カーリー・レイ・ジェプセンやカルヴィン・ハリス、チャーリー・XCXとも仕事をしてきたアリエルの意思が全体に行き渡っており、メインストリーム感のあるポップ・ソングが揃っていた。本作では、ロスタムが持ち込んだであろういかにもインディ的な捻りのあるアレンジメントが導入されると共に、ハイムの元々のルーツであった70年代ロックやフォーク、カントリーのフィールが前面に出てきている。この絶妙なバランス感覚を踏まえたうえで本作を聴くと、サウンドの輪郭が明確になってくる。

Q・ティップによるトラックかと疑ってしまうような快楽的なドラムが響く“ロサンゼルス”を耳にしたとき、この曲と先行シングル“サマー・ガール”(ウーマン・イン・ミュージック Part III』にはボーナストラックとして収録)との繋がりに気づかされる。90年代ヒップホップ的という点で、“ロサンゼルス”と“サマー・ガール”はサウンドの方向性が明らかに似ている。また、“サマー・ガール”がルー・リード“ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイド”を引用しているからか、この曲のアートワークでア・トライブ・コールド・クエストにオマージュを捧げていた。

また、キャス・マックームスがギターで参加しているというだけで胸が熱くなる”ザ・ステップス“で、印象的なアルペジオに導かれるように現れる70年代の薫りを含んだスライド・ギターの心地よさに触れていると、ハイムがシェリル・クロウのカヴァーをしていたことの重要性に改めて思いがいく。ポップスとしてのカントリー&ウェスタンの継承。思いもしない、様々な形のバトン・タッチを経て歴史は紡がれてゆく。70年代という点でいくと、ハイムとフリートウッド・マックの繋がりは本作でも重要だ。例えば“リーニング・オン・ユー”のギター・フレーズが、『ルーモアズ』収録の“ネヴァー・ゴーイング・バック・アゲイン”を連想させるものであることからもそれはうかがえる。

『ウーマン・イン・ミュージック Part III』におけるロスタムの力を知りたければ、MVが話題になった“アイ・ノウ・アローン”に耳を澄ますと良い。中盤以降で現れる奇抜なシンセ・フレーズには彼の魔法がかかっている。おそらく奇妙なチェロの旋律なども彼のアイディアではないだろうか。ロスタム『ハーフ・ライト』を聴いた後で本作を聴くと、このような捻りの効いた細部の煌めきはだいたい彼がやったのだろうと思えてくる。ほかにも“ガソリン”におけるメロトロン、“ドント・ワナ”のマンドリンなど、色彩豊かな音色のささやかなスパイスが彼の本領だ。『ウーマン・イン・ミュージック Part III』のサウンドは基本的にシンプルにスタートして、中盤以降でアレンジに大きく膨らみをもたせる展開が多いが、その部分でロスタムがかなり力を発揮していると思われる。

サウンドの特徴についてもうひとつ。反復的なギター・フレーズがフックになっている楽曲が多いことである。“ザ・ステップス”、“ガソリン”、“ドント・ワナ”、“リーニング・オン・ユー”、“FUBT”。どれもが印象的でシンプルなギター・フレーズがサウンドの軸になっており、これはこれまでのハイムのアルバムの方向性にはなかった要素だ。『ウーマン・イン・ミュージック Part III』が、ハイムのディスコグラフィの中で、最もロック・バンドを感じる作品だと思う人がいたら、それが理由の一つだろう。ある意味ではトラディショナルなアプローチだが、それだけに、それをモダナイズさせるべくプロデューサーやエンジニアがハード・ワークしなければいけない。ミキシング・エンジニアとして暗躍しているデイヴ・フリッドマン(MGMT、ザ・フレーミング・リップス、インターポール)やトム・エルムハースト(マギー・ロジャース、スリーター・キニー、ノラ・ジョーンズ)の技が節々で効いているのだろう。洗練された部分と、ラフでざっくりした部分を両立させるという手際の良さが伺える。

人選の話をここでもう一度。ハイムの人を選ぶ目の確かさは、音楽スタッフ以外にも及んでいる。MVはもはやここで改めて紹介する必要のない映画監督ポール・トーマス・アンダーソンや、カニエ・ウェストやフランシス・アンド・ザ・ライツのMVも担当しているジェイク・シュライファーが担当している。ポール・トーマス・アンダーソンはこれまでも何度かハイムと仕事をしてきたことでも知られており、今回はアルバムのカヴァー・アートも担当している。彼が撮った写真は、何本ものソーセージがぶらさがった、ソーセージ・ショップ(デリカテッセン)の中にメンバーが並んでいるもので、一見特に何の変哲もないものだ。ただ、このアルバムのタイトルが『ウーマン・イン・ミュージック Part III』であることを忘れてはいけない。なんともえげつない、批評的で毒のあるユーモアに満ちたカヴァー・アートだ。また、ジェイク・シュライファーが担当した“アイ・ノウ・アローン”は、メンバーそれぞれがソーシャル・ディスタンスを保ちながら踊っていることで話題になった。クリエ―ションと社会情勢を結びつけ、タイトな状況でありつつもどこかユーモラスなアウトプットを出してくるその手際の良さとセンスには拍手を送りたい。優秀な人材を集めるだけでスペシャルなバンドができるわけではないし、傑作がつくれるわけではない。ハイムが圧倒的に優れているのは、自分たちの音楽活動、そして世界に、今、何が必要なのかを掌握する、その知性だ。世界と自分を在り様を捉えるインテリジェンスがずば抜けていることこそが、ハイムが抜きんでている理由だ。

『ウーマン・イン・ミュージック パートIII』。音楽における女性、その立ち位置。それについての様々な話題は日々提供されている。最近では、ラナ・デル・レイが「虐待を美化している」という自分への批判に対する反論として、ビヨンセやアリアナ・グランデをはじめとした、多くのトップ・アーティストの名前を挙げながら長文をしたためた(その内容が人種差別的だとされ、再批判&再応答もされている)という話題あった。一方で、ドリーム・ワイフがレコーディング・スタッフを女性のみにし、新作を作りヒットを飛ばしたという話題もある。このトピックについてのあらゆる言説には様々な分岐点が存在し、すべてが複雑だ。『ウーマン・イン・ミュージック Part III』にも、女性であるということで差別的な扱いを受けたことについて書かれた、ジョニ・ミッチェルを彷彿とさせる“マン・フロム・ザ・マガジン”という楽曲がある。また、本作のリリックは全体的に、パートナーとのすれ違いについてのテーマが多い。どれも秀逸な情景描写や気の利いたアイディアがあり、読ませるものばかりだが、やはりどこか陰鬱なムードに満ちている。ダイレクトにリリックに示されてはいないものの、前述したカヴァー・アートのことと合わせて考えると、ある種の時代のムードとの関連性に、つい、思いを馳せてしまう。ただ、やはりそこだけにフォーカスしてはいけない。アートは総合的に捉えなければいけないから。リリック、サウンド、MV、その他諸々を含めてこそのポリティカルなメッセージであり、ハイムなのだ。ポジティヴなオーラやユーモアも毒もシリアスなメッセージに織り込まれることでエモーションが重層化され、安易に消費されない、豊かな表現へと昇華される。

音楽に同時代性がかぶさると、音楽は、音楽よりもほんのすこし大きく、ふくよかなものになる。これはジャンルにもマーケティングの大小にも、本質的には関係が無い。ハイムはそれを意思の力、コンセプトの力を信じることで、時に自身の傷を見せながら達成しようとしているのだ。そんな思いを抱きながら、メンバーが頻繁にMVの中でずんずん歩いているのを見ていると、頼もしさと愛おしさを同時に感じ、なんともいえない気持ちになる。そこには真っ暗闇の中で歌を歌い、音楽を奏でながら、前に向かって進むことの尊さを感じることができる。

文:八木皓平

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