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SHANGRI LA Jake Bugg (Universal) by SOICHIRO TANAKA
AKIHIRO AOYAMA
December 05, 2013
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SHANGRI LA

鈴懸のなんちゃら、このジェイク・バグの新作を何度か聴いた後で
俺なりに2分ほど考えた上での相も変わらぬ退屈な結論のようなもの

俺は労働階級の出身なんかじゃない。無知と貧困はいつも自分の側にあったものの、大した話じゃなかった。母親の記憶はないし、小学校を卒業する前に父親は亡くなって、遺産らしきものは一銭も残らなかったが、食うものに困ることはなかった。明日は明日の風が吹く。トヨタの孫請けという父親の仕事を引き継いだ叔父貴の援助もあって、中学も高校もきちんと出たし、大学の入学費はしっかり出してもらった。自分なりに感謝もしてた記憶はあるものの、当たり前だとも思っていた。金は天下のまわりもの。あるとか、ないとか言ってるやつらはどちらも馬鹿だと思っていた。大学に入った年にテレキャスターを1本買うために学生ローンから借金した10万そこらの金のせいで、それから10年近くもその利息を払い続ける羽目になるほど、いつも手元にかたまった金はなかったけども、やはり食うものに困ることはなかった。当時は高円寺の街を3時間も歩き続ければ、コーラの1リットル瓶を何本かくすねることが出来たし、その金で一日一食くらいは食えた。面倒見のいい友達にはいつも世話になりっぱなしだったし、女の子たちはいつも呆れていて、当然のごとく何度か見限られたけども、その頃には次の女の子がいたから、特に困りもしなかった。忌野清志郎の本を読んで、便利女というひどい言葉も覚えた。本やレコードは友達からも図書館からも借りれたし、時には万引きすれば、どうにか事足りた。金は天下のまわりもの。俺のことを認めてくれた最初の大人だった大学教授は、学費が払えなくて除籍になりかけていた俺に、3年分の学費を学部の奨学金からぽんと払ってくれただけでなく、「先立つ金がないから、院には行けない。取りあえず就職する」という俺に「それだけが僕の不満ですね」と卒論ゼミの最後の面接で言ってくれさえした。俺の卒論は、目次にはあるが、何も書かれていない章が腐るほどあったにもかかわらず。だが、俺が卒業した年の夏には癌でぽっくり逝ってしまって、俺は見事に戻る場所がなくなった。仕方ない。明日は明日の風が吹く。時代はバブル全盛期で、しがない広告代理店で働き始めた俺は、「21世紀の日本はネオ貴族化社会」なんて嘘臭い企画書を書いたり、撮影の仕事で行ったニューヨークで、会社の金をくすねてリッケンバッカーの12弦を手に入れたりした。世の中はそれなりに浮かれてはいたけども、いつも苛々していた。どいつもこいつも馬鹿だと思っていた。社会がどうなろうと関係ない。俺は俺だ。そう思っていたーーもし仮に、そんな男がいたとしたら、ジェイク・バグの音楽をどんな風に聴くだろう。

野田努が訊いてくる。「これから日本は必ず経済的に衰退していくわけじゃない?」。酔っ払いは面倒臭い。もう二度目だ。「だとしたら、アメリカ型の社会の方がマシだと思う? それとも、イギリス型の社会の方がマシだと思う? いや、俺は絶対にイギリス型の方がいいと思うんだよね」。俺は答える。「いや、日本は絶対にイギリス型の社会にはならないって。アメリカ型だよ」。野田はまた性懲りもなく尋ねる。「なんで?」。俺はしぶしぶ答える。「だって、日本には労働階級って概念が存在しないから」。野田はしつこく訊く。「いや、だって、現にこんな風に格差社会なわけじゃない?」。しらふの俺はすっかり嫌気が刺しながらも答える。「だって、誰もが『俺だけは違う。その格差社会ってやつからは逃げきれる』って風に思うんだよ。イギリスの労働階級の連中みたく、自分の境遇を呪っていながらも、そこに何かしらの誇りを持ったり出来ないからさ」。野田は言う。「そうかー。じゃあ、大変だなー、日本も」。いや、大変なのは日本じゃない。お前だよ。俺は社会がどうなろうと、知ったこっちゃない。関係ない。俺は俺だからーーもし仮に、そんな退屈極まりない会話が日本のどこかで交わされていたとしたら。は! 俺なら鼻で笑うね。だが、果たして、今、この国ではジェイク・バグの音楽はどんな意味を持つのだろう。

何かしらの含みを持っているのかと思ったら、『シャングリ・ラ』というのは、単にマリブにあるリック・ルービンのスタジオの名前だった。勿論、そこから意味をくみ取ることは出来る。十二分なくらい。お前がいる場所こそがシャングリ・ラなんだ、どこに行ったって理想郷なんかないんだ。とかね。いずれにせよ、ジェイク・バグはバンドのギタリストと連れ立って、ロスに行き、そこで出会った人たちとこのアルバムを作った。コンボ・スタイルのバンド・アレンジされた楽曲が格段に増え、アルバム全体の印象はとてもカラフル、かつ、パワフルになった。では、今後、彼のアルバムは次第にバンド・ベースのものになっていくのか。ありえない。今回、この『シャングリ・ラ』というレコードがたまたまそうなっただけ。

もしかすると、陰気くさいイギリスから少し離れて、陽光が降り注ぐ場所に行きたかっただけかもしれない。ロスにはリック・ルービンという、いい生音を取るセッティングにかけては右に出る者はいないが、基本的に何もしないということにかけてはさらに右に出る者のいないプロデューサーがいるから、まさに好都合だった。その程度のものだろう。ボブ・ディランがひとりでナッシュビルに行って、『ブロンド・オン・ブロンド』を録ったのと同じ。どうしてもこのサウンドが必要だった。というわけではない。偶然。成り行き。大した理由はない。次はどんなレコードを作るかわからない。

ディランという男もそうだった。前回がこうだっったから今回はこうだとか、そんな辛気臭い因果律とは無関係。育った環境だの、歩んできた道だの、本当の名前だの、すべてどーでもいい。その時のディランがディラン。昨日のディランとまったく違っていようが、知ったこっちゃない。俺は俺。ディランはディランだ。明日のディランがどうなるか、誰にもわからない。ディラン本人にさえわからない。明日は明日の風が吹く。ジェイク・バグも同じ。ひとつ前のレコードとは大して関係もない新しいレコードを次々と作っていくだろう。ディランと同じく、時には凡作を、時には不可解な迷作を、時には信じられないような大傑作を作るだろう。このジェイク・バグのアルバム『シャングリ・ラ』は傑作の部類だ。だが、そんなことは、ジェイク・バグ本人にはどーでもいいことだろう。作った本人にとって、レコードなんて、その程度のもの。誰かに何か認めてもらう必要なんてない。結局のところ、俺は俺。その時々に、やれることをやるだけだ。

それにしても、このアルバムを「労働階級のなんちゃら」なんて枠組みに追いやるという、やや気恥ずかしい結論のようなものを導き出すのは至極馬鹿げている。話題狙いのやたらクソ長いだけの、下らない曲タイトルと同じくらい馬鹿げている。だとすれば、今、この国ではジェイク・バグの音楽はどんな意味を持つのだろう。

ブレイディみかこの原稿は最高だ。だが、俺はそんな風には聴かない。俺には俺の聴き方がある。何故なら、これは俺のレコードだから。もしかすると、英国の労働階級の連中が「お前ら日本人には、ジェイク・バグの音楽はわからない」と言うかもしれない。なるほどな。多分、そいつらには、労働階級だの何だの、誇るべき帰属意識があるんだろう。帰る場所があるんだろう。だが、俺にはそんなものはない。生まれ育った境遇をリプリゼントするつもりもない。生まれ育った境遇は与えられたものではなく、いつだって「選んだもの」だった。少なくとも自分にそう言い聞かせ続けた。俺がリプリゼントするのは俺だけ。俺がリプリゼントするのは、俺が選んだ音楽と映画と本と服と髪型だけだ。何よりも恵まれたことに、俺には最高の音楽があった。映画があった。本があった。いかした友達も、優しい女の子たちもいた。他に何もいらなかった。今もそうだ。

あんたがこのアルバムをどんな風に聴くのか、俺は知らない。出来ることなら、何かしらの意味を持ってくれればいい。とは思う。迷った時に、落ち込んだ時に、あんたのケツをしこたま蹴り上げてくれればいいな。とは思う。だが、別にどーでもいい。俺には最高のアルバムだ。このアルバムには、与えられた境遇から逃げ出そうとする連中のことが歌われている。中には、逃げそこなった連中もいれば、自分で何も選ぶことの出来なかった連中もいる。選んではみたものの、結局、どこにも行けなかった連中の歌もある。どの曲もこの世の中と同じ程度には残酷で、やはりどれも悲しい。だが、結局のところ、俺にはこう聴こえる。「でも、別にどーでもいいんだよ。俺は俺だから。お前はお前だから」。だからこそ、このアルバムを聴く度に俺は最高の気分になれる。おそらくこれは、ジェイク・バグ自身が意図したこととは違っているだろう。だが、そんなことは別にどーでもいい。知ったこっちゃない。これは俺のアルバムだ。俺が選んだ。誰にも奪えない。

気がつけば、我ながら随分と不思議な人間になった。出会った人たちや音楽や映画や本が俺を変えた。少しも望まなかった形に変えた。気がつけば、愛というもっとも嫌悪し続けていた言葉の本当の意味についてばかり考えるようになった。このアルバムと同じように。だが、それでも相変わらず、俺は俺だ。今もどいつもこいつも馬鹿だと思っている。社会がどうなろうと関係ないと思っている。俺はこれまでもずっと笑って生きてきたから。どんな時も腹の底から笑って生きてきた。勿論、泣きたい時には泣く。このアルバムを聴いて、何度か泣いたかもしれない。だが、誰にも見せない。

あんたがこのアルバムをどんな風に聴くのか、俺は知らない。だが、出来ることなら、何かしらの意味を持って欲しい。心の底からそう思う。だが、結局のところ、別にどーでもいい。何故なら、俺の名前はジェイク・バグ。これは俺のアルバムだ。俺が作った。その時々に、やれることをやるだけだ。

文: 田中宗一郎

劇的な人生の変化に伴う成長痛を、性急かつヘヴィに形にした
ジェイクにとっての『フェイヴァリット・ワースト・ナイトメア』

2014年以降に、どこまで大きいムーヴメントへと発展していくかはまだ読めないものの、現在の英国ロック・シーンが10代~20代前半という若さの新世代の登場によってにわかに活気づいてきているのは確実だ。そして、仮にこの若い世代による新たな時代の到来が現実のものとなった時に、その最初の発火点として記憶される出来事は、間違いなくジェイク・バグによるデビュー・アルバム『ジェイク・バグ』の全英1位獲得だろう。実際に、当時わずか18歳だった彼が作り上げた全14曲39分のデビュー・アルバムには、新たな変化の機運を感じさせるサウンドと歌と言葉が詰まっていた。

それから1年1ヵ月という急スピードでリリースされたこの2ndアルバムで彼が描くのは、そのわずかな期間で直面した劇的な人生の変化そのものだ。たった1分40秒の性急なアコースティック・サウンドに乗せて、「奴らはにっこり笑うけど本物じゃない」「奴らはみつけるだけで何も探し求めようとしない」「美しさの全てを蝕む野獣がいて奴らはみんなそいつに餌を与えてる」と歌われるオープニング・トラック“ゼアーズ・ア・ビースト・アンド・ウィー・オール・フィード・イット”は、ゴシップばかりを追いかけるメディアをこき下ろす歌。この曲や同様のテーマを扱った“オール・ユア・リーズンズ”には、自身が急激にゴシップを嗅ぎ回られる存在になった実体験がなければ出てこなかっただろう辛辣な言葉が込められている。その他、故郷の外側に広がる世界を知った自分と知ろうともしない友人が対比される“スラムヴィル・サンライズ”や、地方に蔓延する退屈と貧困と絶望を切り取った“メスド・アップ・キッズ”では、閉塞した街で生きるキッズの日常を外側の眼から描写。ここでの彼の筆致は、当事者の側だった前作とは異なり、深い悲しみを湛えながらもどこか冷静で、ある意味残酷なほどに他者の視点で貫かれている。

サウンド面では、リード・シングルの“ホワット・ダズント・キル・ユー”や、ニール・ヤングの面影がよぎる“オール・ユア・リーズンズ”、ナッシュヴィルでのブレンダン・ベンソンとの共作作業がそのまま音に反映された“キングピン”等に顕著となっているヘヴィなエレクトリック・ギターの音が今作における新機軸。しかし、それは大きな方向転換というよりも、一筆書きのようにシンプルだった前作のフォーク・サウンドにさらなる色彩を加えた、実直で堅実な成長と言うべきだろう。核となる音楽フォーマットは受け継ぎながら、更なる加速化・ヘヴィ化を図ることでジェットコースターに乗り込んだようなこの1年の劇的な変化をレコードに刻み込んだ本作は、いわばジェイク・バグにとっての『フェイヴァリット・ワースト・ナイトメア』。故郷を離れて世界を飛び回る生活を経験したことで身につけたさらに冷徹でシニカルな視線や、その奥底に滲む新たな怒りや不安といった感情も、子供と大人の間を揺れ動いていた時期のアークティック・モンキーズを髣髴させる。

乗りに乗ったアーティストにしか出せない猛烈な勢いを背中に受けて、性急なスピード感で成長に伴う痛みをありのまま露わにした本作の出来は、間違いなく十二分に素晴らしい。しかし、2nd以降のアークティック・モンキーズの目を見張るような変貌を思うと、長い目でみれば、このアルバムもジェイク・バグにとっては過渡期的な作品と言えるんじゃないだろうか。

文:青山晃大

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