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ULTRAVIOLENCE Lana Del Rey (Universal) by AKIHIRO AOYAMA
MARIKO SAKAMOTO
July 09, 2014
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ULTRAVIOLENCE

女優のように様々なペルソナを演じ分けながら、
人生の複雑なアンビバレンスを歌う個性が際立った最新作

先月発売された『ローリング・ストーン』誌のカヴァー・ストーリーの中で、ジャック・ホワイトはラナ・デル・レイをエイミー・ワインハウス以降の系譜に連ね、ダフィやアデルと並べて語っていた。確かに、2011年末世界に見出された当時のラナ・デル・レイは、エイミー・ワインハウスの世界的なブレイク以降、次々と登場するモダナイズされたレトロ・ソウルの新たなフィメール・アイコンとしても魅力的な存在に見えたのは間違いない。しかし、ワールドワイドで700万枚を売り上げた2012年のメジャー・デビュー・アルバム『ボーン・トゥ・ダイ』を経て、2年5ヵ月振りにリリースされたこの2作目『ウルトラヴァイオレンス』で際立って聴こえるのは、現在のシーンにおいて他の誰にも似ていないラナ・デル・レイの孤立した個性だ。

70年代以前のソウルやジャズを受け継ぐオーセンティックなソングライティングと歌唱を、ヒップホップ以降のプロダクションを用いてアップデートした音楽性が「エイミー・ワインハウス以降」を大まかに特徴づける要素だとすれば、前作『ボーン・トゥ・ダイ』は確かにその系譜に連なる点が見出せる作品だった。ただ、そのヒップホップ・ビートへの目配せが、最大の魅力であるシルキーな歌声とリリックに上手く適しているとは言い難く、『ボーン・トゥ・ダイ』にはどこか散漫でフォーカスが絞り切れていない印象があった。しかし、この『ウルトラヴァイオレンス』では、大半の楽曲でブラック・キーズのダン・オーバックをプロデュースに招聘。ビートの主張を最小限に抑え、ギターやピアノのミニマルなサウンドにサイケデリックな音響処理を加えることで、人生の残酷さと美が混じり合う歌世界が一点の曇りなく引き立つ結果となっている。

“ボーン・トゥ・ダイ”や“サマータイム・サッドネス”といった楽曲のタイトルに象徴されるように、ラナ・デル・レイはこれまでも常に「生と死」や「金と幸福」といった人間の持つ多様なアンビバレンスに惹かれ、それらをモチーフとして歌ってきた。本作でも、前作と同様多くのアンビバレントな女の生き様が歌われている。沈鬱な音楽とパーティの情景を描く歌詞が対比されることで「残酷な世界」の意味が浮き彫りにされる“クルーエル・ワールド”。「彼は私を殴り、それはまるでキスのように感じられた」と歌われる、マゾヒスティックな暴力と愛についての“ウルトラヴァイオレンス”。金持ちの愛人の悲しみをテーマにした“サッド・ガール”や「私は金と権力と栄光が欲しい」と繰り返す“マネー・パワー・グローリー”は、前作収録の“ナショナル・アンセム”や“ミリオン・ダラー・マン”と同じく、裕福な男に寄り添う女の幸福と満たされない心についての楽曲だ。

ラナ・デル・レイのアプローチは、例えば自身の壮絶な恋愛経験を明け透けに描いたエイミー・ワインハウスやアデルとも、若々しいカジュアルさで拝金主義に唾を吐きかけたロードとも全く異なる。彼女の描くストーリーには、パーソナルな熱や感情も、強いメッセージもほぼ存在しない。むしろ彼女は、曲ごとに異なるペルソナを被り、女優のように様々な女の生き方を演じ分けることで、白黒や善悪といった二元論に分けることのできない人生の複雑なニュアンスを表現していると言える。彼女の歌は、銃と薔薇、すなわち人生の残酷さと美しさの両方に光を当てて影を形作ることで、聴き手に戦慄と癒しを与える。ポップ・ミュージックの華やかな表舞台でこんな芸当をやってのけるシンガーは、少なくとも現代においてはラナ・デル・レイ以外に見当たらないだろう。

文:青山晃大

囚われのディーヴァ

百花繚乱なモダン・フィメール・ポップ界において、紫陽花や月下美人を思わせるしっとりとした妖気で異彩を放つラナ・デル・レイ。全世界でマルチ・ミリオンを達成した前作『ボーン・トゥ・ダイ』以降もEP、映画挿入歌他様々なアウトレットを通じ作品を発表してきた彼女だが、正式に「第二のフェーズ」を記すのが本作になる。

音楽的にはヒップホップ/R&B路線を潔く離れ、情緒たっぷりなギター・ソロも含むロック/ジャズ/ソウルに寄ったアプローチが何より耳を引く。“『ボーン』以降のアクト”として新星ロードが台頭する中、二匹目のドジョウはそうそう簡単に狙えないか……と考えるのはうがち過ぎだろうが、LDRを名乗る前の彼女はジャズ系のシンガー・ソングライターだったと言うし、“ヴィデオ・ゲームス”や“ライド”でも聞こえていたこのレトロ・モダンな方向性にまったく違和感はない。

主格プロデューサーであるダン・オーバック(ブラック・キーズ)も、繊細なトレモロ・ギターやリヴァーブ、ディープなグルーヴ、ストリングス、サブリミナルな音響他を通じて熾火のようにくすぶりチラチラ燃えるサウンド・スケープを見事に演出。時にマジー・スターのホープ・サンドヴァルすら思わせる歌声にクラッシーな釉薬をかけるそのディレクションはもちろん、難航していたレコーディングに中途参加した彼とのセッションを発展させ、この作品へと漕ぎ着けた彼女の決断/ヴィジョンも鋭いと思う。

「ミッド~スロー・テンポなトーチ・ソングの繰り返しで、変化に乏しく単調」との意見も目にする。確かに作品後半は若干停滞するものの、作曲/プロデュースに実に10人近くが寄ってたかった『ボーン』――「多国籍チーム・プレイ」は、今どきのポップ・アルバムではごく普通の話で驚くに値しないが――に較べ、「アルバム」としての統一感~フロウは遥かに勝っている。シングル向け曲に欠けているわけでもなく、①②③④⑤のじわじわ沁みるソングライティングのソリッドさは否定しようがない。

そこで、本作を「LRDことエリザベス・グラントが真の意味で“手綱”を握ったアルバム」と捉えたくもなる。周知の通りLDRはジギー・スターダストあるいはレディ・ガガとさして変わらぬペルソナ/コンセプトであり、ブランド・パワーを維持すべく多くの人間が関わる。ゆえに前作で「ヒット請負いチーム」が援用されもしたわけだが、成功をバネに彼女自身のLDR持ち株が増えた、というか。たとえば本作は、本来得手な声域=ソプラノをより多用している。声量に乏しいのでパワーには欠けるものの、唱法やダブル・トラッキングの工夫でサイケデリックかつ儚い幻想性を醸しているのは上手い。アルトを主要レンジにしたのは「ムーディな音楽性に合わせて」だったというし、ここからも型からはみ出し、本人にとってより自然な表現へ手を伸ばした様が伺える。

しかし音楽的にこれまでより遥かにシンパシーを抱ける作品ながら、歌詞=サッドな世界観は過去のまま――というか、より闇を増しているのは気になる。かつて「ギャングスタ版ナンシー・シナトラ」を自称したように、LDRはパワー&マネーを誇るワルな男と、彼に支配され操られながらも離れられないロリータ情婦という、いささか古くさい図式をよく使う(ナンシーの引用は父フランクおよび義父的存在:リー・ヘイゼルウッドと彼女の関係がヒントだろう。③も音楽的に“007は二度死ぬ”を下敷きにしている)。

彼女が棲息するインスタグラム風なレトロ・フィルターをかけた世界は「呪われた/不毛な恋愛」へのロマンと分ちがたく結びついているわけだが、『ウルトラヴァイオレンス』はよりリスキーな「従属」の図をチラつかせる。銃を持つBFに扇情的な赤いドレスをまとって酒を勧める①、ムーディな恋人をなじりながらもその冷たさに惹かれる③、妾/愛人の悲しみを綴る⑥⑪。カルト集団のリーダーに永遠の愛を誓う(「ファミリー」の女性メンバーすら思わせる)②ではクリスタルズの“ヒー・ヒット・ミー(アンド・イット・フィールズ・ライク・ア・キッス)”の一節を引用しており、「彼が殴るのは自分への愛の証し」型の相互依存イメージはうそ寒い。

彼女の歌詞はどこかで聞いたフレーズや小説/歌の題名、ポップ・アイコンを継ぎ接ぎするもので、“ヒー・ヒット・ミー(アンド・イット・フィールズ・ライク・ア・キッス)”も同様のオマージュに過ぎないかもしれない。ハリウッド女優(ラナ・ターナー)×自動車(シボレー社のデルレイ)という究極の大衆商品を想起させる芸名からして、彼女は「ポップというゲーム」――④や⑨の皮肉な歌詞はユーモアを感じさせるし、男を堕落させる⑧のギャング・モルは自身のパブリック・イメージのパロディとも言える――のプレイヤーなのだから。しかし音楽性が発展・変化したにも関わらず「幸薄い女」像と悲しみのデカダンな美化は揺るがず、映写される極端なメロドラマに酔うファンは「LRD劇場」に足を運び続ける。だが、28歳の大の大人で、成功した才能あるアーティストが「あなたを待つわ、ベイビー/それしか私にはできないの」とバンビを思わせる虚ろな瞳で繰り返す姿に、ペルソナの「檻」に閉じ込められた女性を嗅ぎ取り、少々やるせなくなるのは自分だけだろうか?

文:坂本麻里子

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