8月18日、アジアのポップ・カルチャーを大きく変えることになる2つの重要な出来事が起こったのをあなたはご存知だろうか?
一つは、ハリウッド製作で初の、アジア系がほぼオール・キャストを務める画期的な映画『Crazy Rich Asians』が全米で公開された日。この作品は、中国系一族を主役にした原作小説があるにもかかわらず、ハリウッドからキャストを白人に変えるよう勧められるという、レイシズム的屈辱を味わいながらも中国人のままで通し、その結果、予想を大きく上回る全米三週1位の大ヒットを記録。『ブラック・パンサー』が黒人映画史を大きく更新する記念碑的ヒットになったのと同じ年に、アジア人からも奇跡が起きた。
そして同じ日、Mitskiこと、日系人ミツキ・ミヤワキが、彼女にとって5枚目となる本作『ビー・ザ・カウボーイ』を発表。するとそれは、〈ピッチフォーク〉で今年のロックで最高級の8.8ポイントを獲得したのをはじめ、英米の大手音楽サイトや新聞、音楽誌で満点レヴューが続出。その影響もあり本作は、良質ながらもまだ商業実績のないアメリカの小さなインディ・レーベル〈デッド・オーシャンズ〉からリリースされた作品であるにもかかわらず、イギリスで64位、彼女の拠点ニューヨークのあるアメリカでも52位を記録。K-Popボーイ・バンドのBTSが6月に記録した全米ナンバー1に比べると、スケールは小さいかもしれない。だが、チャート集計がストリーミング中心になったことで、若年層のポップやヒップホップのリピート回数にロックが完敗して低迷、さらにラジオでの後押しも期待できない今の状況で、商業的な実績のない、どインディ・レーベルのリリースがここまで健闘したのはやはり快挙。さらに、アメリカ、そしてイギリスのインディ・ロック史において、アジア系の、しかも日本人の血を引くアーティストがシーンにおいてここまで大きな寵児になったのも、少なくとも僕の記憶の中にはない。やはりこれは「変革の年」という時代の彗星までも味方した、宿命的なドラマでさえあったのだ。
ただ、最近のインディのシーンを見るに、そのようなことが起こりそうな伏線はあった。それは昨今の、とりわけUSのインディ・ロックの有望アーティストの大半が女性で会ったこと。そして、その中で、「マイノリティの女性」が一つのシーンとして注目されつつあったことだ。それはミツキのレーベル・メイトでもあるジャパニーズ・ブレックファストのミシェル・ザウナー(韓国系)であったり、フィリピン移民のジェイ・ソム、カメルーン移民のヴァガボンといったところだが、とりわけミツキはその流れをリードする存在だった。キャラクターがもっとも理解されやすかったのだ。
そうなった理由には彼女の作詞能力がある。彼女は一貫して、「疎外感」や「愛の孤独」を歌にする。それは、幼い頃から言語も全く違う様々な国(そこに日本も含まれる)で生活し、自分のアイデンティティを見出せない状況ゆえだったというが、その典型例として有名になったのが2016年の前作『ピューバティー2』の“ユア・ベスト・アメリカン・ガール”。「あなたに見合うベストなアメリカン・ガールになれないの」。巨大なメルティング・ポット、アメリカにおいて、ただでさえマイノリティなのに、そこでもどこに属していいかわからない彼女から発せられたその思いは、とりわけ強い共感を呼び、それが彼女を有名にした。
そうしたこともあり、現在、ネット上の彼女のファンページを見てみると、歌詞にもっとも思い入れを抱いている人が多く、お互いの好みのリリックを言い合いするような姿も見られる。そこにいるのは女性が多いが、国境を越えて様々な人が存在し、とりわけアジア系アメリカ人が多い。彼女がどういう人たちを勇気付けてきたかがすぐにわかる。
そして、それは今作『ビー・ザ・カウボーイ』でさらに成長した姿を見せている。今回のアルバムでは、「自分の居場所のなさ」を理由に孤独を訴えている場面はかなり減っている。ただ、その代わりに「自分の一つの恋愛」をより深く定点観測し、そこに愛の倦怠や、諦め決めない終わった関係などを巧みにドキュメントし、一貫して「キスしてほしい誰か」を求めている。
だが、彼女の魅力は歌詞だけではない。その変幻自在の楽曲を聴くだけでも、彼女が時代の寵児扱いされるのは十分にわかる。
とりわけ、このアルバムは、クリシェになりつつあるロックの楽曲パターンを冒頭からかなり裏切り続けている。例えば1曲目の“ガイザー”は最初のサビが終われば曲が終わってしまい、続く“ホワイ・ディドゥント・ユー・ストップ・ミー”はAメロとBメロのみの楽曲構成で、間奏部分のソロが長い、ピクシーズの彼女なりの解釈のような曲だ。いずれも2分少々の楽曲。そして、これ以降も変則的な楽曲が目立つ。とりわけ2コーラス目以降の展開を省略しているものが多い。それで14曲で収録時間はわずか32分。かなり短い上に、予想がつかない曲展開ながらもメロディック。サウンドも前二作に顕著だったジーザス&メリー・チェインやニルヴァーナなどを思わせるディストーション・ギターの楽曲からアコースティック、軽めのエレクトロなど音色による表情も豊かになっている。
中でもハイライトと言えるのが、“ノーバディ”と“トゥー・スロウ・ダンサーズ”だ。これまでになく軽妙でキャッチーなディスコ・ナンバーであるこれらの曲は、そのポップさだけでも彼女の代表曲になりうるが、「地球温暖化は人々の欲望は多すぎるから? でも、私は愛してくれる人が欲しいのにそれがいない」と、クレヴァーなユーモアも光る。そしてクロージング・ナンバーの後者は、エレクトリック・ピアノに導かれる文字通りのロマンティック・バラードで、長年の恋人同士が過ぎて帰らなくなった日々をビートルズの“イン・マイ・ライフ”の如く振り返りつつ、変わらぬ愛をしみじみ確認し合いながら、本作に甘い余韻を残しながら幕を閉じる。同時にこの曲は、彼女の現在のツアーの重要なクライマックス・ナンバーにもなっている。
これが、「アジアから生まれたUSインディの希望」の最新の姿だ。アジア人や日本人だからこそ共感できるところも、グローバルなロック・リスナーとして愛せるところもどちらもある。いずれにせよ、海外の彼女のリスナーがそうしているように、そろそろ日本人のリスナーも多面的な魅力を持つミツキの音楽を自分なりの解釈で聴くべきだ。
シンズ、モデスト・マウス、アーケイド・ファイアといったバンドが全米チャートを席巻し、北米のインディ・ロックがポップ・シーンにおける栄華を極めたのは、2007年のこと。それから約10年の時が経ち、ユース・カルチャーの主役はすっかりラップ/ヒップホップに取って代わられた。インディ・ロックは今やすっかりポップ・シーンの傍流へと追いやられ、小さなサークルの中で細々と慎ましやかに生き永らえているだけのようにも見える。
ただ、メインストリームに対するカウンターというインディ本来の出自を思えば、今の状況は元いた場所へと回帰しただけだとも言えるだろう。インディ・シーンは長い間、マジョリティの“常識”や“普通”に馴染むことのできないはぐれ者たちの居場所でもあった。2000年代以前はナードやギークやスラッカー達が集っていたその場所に、今は女性やLGBT、カラードといった人々が集っている。
その中でも現在、ひときわ活躍が目立つのは、白人でも黒人でもラテン系でもない、アメリカにとっての第三世界に出自の一端を持つ女性の一群だ。韓国系アメリカ人のジャパニーズ・ブレックファスト、フィリピン系の血を引くジェイ・ソム、カメルーン生まれの移民であるヴァガボンといった気鋭のアーティストがインディ的表現に行き着いた理由は、インディという磁場の本来の在り方とも無関係ではないだろう。
そういった潮目の変化を決定づけたのが、他ならぬミツキだ。日本とアメリカのハーフとして日本に生まれ、親の仕事の関係で世界各国を転々とする生活を送っていた経歴を持つ彼女は、2016年にインディの名門〈デッド・オーシャン〉からリリースした『ピューバティー2』で世界的なスポットライトを浴びた。パーソナルかつエモーショナルな筆致で、寄る辺ないアイデンティティの漂流を描いた彼女の歌は、アメリカへの恋慕と非アメリカの憂いをアンビバレントに伝えるものでもあった。
それから約2年。ロードからオファーを受けてアリーナ・ツアーのサポートに帯同するなど、ポップ・シーンの大舞台へと歩を進めたミツキがリリースした最新作『ビー・ザ・カウボーイ』は、彼女の内面をより深く複雑に突き詰めた作品となっている。
『ピューバティー2』の基調となっていた90年代USオルタナ譲りの激しいギターはいくらか鳴りを潜め、代わりに教会音楽、フォーク、カントリー、ディスコと、サウンドは一気に多様化。パーソナルでエモーショナルな歌世界は、ストレートな表現から、より入り組んだものへと進化を遂げた。例えば、“ガイザー”では教会音楽を思わせるオルガンの響きがグリッチ・ノイズで分断され、結婚をテーマにした“ミー・アンド・マイ・ハズバンド”では冒頭から大きなため息が聞こえるなど、ステレオタイプな美や幸福の背景に必ず一ひねりが加えられている。ここで彼女が歌うのは、正と負に引き裂かれた単純なアンビバレンスではなく、その中に横溢する、一言では言葉にできない複雑な感情だ。
アメリカという国に愛憎入り交じる思いを抱えながら生きてきたはずのミツキが、アメリカの自由を象徴する存在でもあり、同時に父性主義的なアメリカの典型でもある「カウボーイ」をタイトルに掲げているのもとても象徴的だ。イエスかノーか、ゼロかイチか、二極に分断されていく現代社会で、彼女はそのどちらにも属することなく、その間にあるグラデーションに身を委ね、答えを出さないまま漂流し続ける。私的でありながらオープンで、思慮深く慈愛に満ちた彼女の姿は、2018年におけるインディの最良の在り方を指し示している。