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R.Y.C Mura Masa (Universal) by YUYA WATANABE
RYUTARO AMANO
May 04, 2020
R.Y.C

すべての音楽家がベッドルームに回帰する2020年
予期せずしてその始まりとなった一枚

すでに各所で語られているように、ムラ・マサの2ndアルバム『R.Y.C』は70年代以降のパンク、そして00年代のインディ・ロックを想起させる作品だ。細部を見ていけば、この作品はグライムやディスコ・パンク、フィルター・ハウスなども含めた広義の00年代再解釈でもあるのだけど、少なくともサウンド面の最も特筆すべき点が「ギター」にあることは間違いないだろう。

ただ、そこで改めて留意しておきたいのが、あくまでも今作の大半はプログラミングによって構築されているということだ。生ドラムは一切使われていないし、その他のインストゥルメンタルもすべてムラ・マサ自身の手によるもの。ゲスト・ヴォーカルを除けば、他者とのセッションもなし。肝心のギターもどうやらアンプを通さずにすべてラインで録音されているようだ。あくまでも制作工程としては、『R.Y.C』もこれまでと同様にエレクトロニック・ミュージック然とした作品といっていい。

一方、〈インタヴュー・マガジン〉に掲載されているクレイロとの対談で、ムラ・マサはこんなことを述べている。「エレクトロニック・ミュージックのシーンでは個人の脆弱性(personal vulnerability)が軽視されていると思う。でも、いま求められているのは自分の感情に正直なアートなんじゃないかな」。ビリー・アイリッシュしかり、今作にも参加しているクレイロしかり、メンタル・イルネスが社会問題化している昨今において、たしかに脆弱性はポップ・ミュージック全体のキーワードだ。そして、どうやらムラ・マサはこれまで自分が足場としてきたシーンにはその視点が欠けていると認識しており、そこで彼が手を伸ばしたのがギターだった、ということのようだ。

『R.Y.C』で確認できる限り、彼のギターの腕前はお世辞にも達者とは言えない。たとえばアルバム冒頭“ロウ・ユース・コラージュ”で延々とループするギター・リフにしても、フレーズ自体は非常に単純なのだが、どうも押弦が甘いせいで音がビレてしまっているし、その他にも、もう少し良いテイクが録れたのではないか、あるいは編集で整理できたのではないか、と思えるような瞬間が今作にはいくつかある。だが、むしろ当人からすればここで過度なエディットを施さないことが重要だったのだろう。その拙さも含めて自分自身をそのまま晒すこと。それが『R.Y.C』のテーマだったのだと思う。

『R.Y.C』に収められた拙い演奏からは、デビュー作におけるスタイリッシュなイメージとのギャップも感じるし、リリース当初はそこが本作に対する評価の分かれ道にもなった。しかし、世界的パンデミック下にある現在ではどうだろう。エレクトロはもちろん、ロックさえもベッドルーム・ミュージック化しつつある2020年。もしかすると『R.Y.C』は、そんな時代の始まりを告げた作品としてのちに記憶されるのかもしれない。

文:渡辺裕也

「希望のない世代」、10代の青春、ギター・ロック
アイロニカルなダンス・パンクでようやく手に入れたムラ・マサらしさ

ムラ・マサの音楽を聞いて感じていたのは、まずなによりもそのつかみどころのなさだった。その点、ムラ・マサことアレックス・クロッサンがイギリス海峡チャンネル諸島のガーンジー島という、極東の島国に住むわたしたちにとってはあまり聞き慣れない地で生まれ育ったという事実は示唆的だ。というのも、ガーンジーは英領ではあるものの、地理的には英国とフランスの間に位置している(どちらかといえば、フランスにかなり近い)。ヴィクトル・ユゴーの亡命先であり、英仏独の血塗られた争いの痕跡をのこすという、地政学的にも複雑なガーンジーという地――かなり大雑把に単純化してしまうと、英国と欧州の狭間にある島でクロッサンは育ってきたのであり、そのどちらの文化にも属さないまま、属することができないまま、彼はムラ・マサとしての音楽や自身のヴィジョンをつくりあげてきた、ということになる。

だから、なのだろうか。彼の最初のアルバムである2017年の『ムラ・マサ』を聞いたときには、ムラ・マサというひとがいったいどんな作家であるのかがわからない、その顔がはっきりと見えてこない、とむずがゆく感じていた。ジェイムス・ブレイクやジェイミー・xxといったプロデューサーたちの系譜に連なるのだろうが、彼らにとってのUKベース・ミュージックのような寄って立つもの、ルーツ、歴史との淡い連続性のようなものが、『ムラ・マサ』からはほとんど嗅ぎ取れない。

「ポスト・ジャンル」なる言葉が流通するようになったのも、ちょうどこのころだろう。『ムラ・マサ』にはUKベースもあれば、ヒップホップとトラップもあるし、R&Bやインディ・ロック、フューチャー・ベースからトロピカル・ハウスまで、一時的に流行した音も詰め込まれていた。エレクトロニックなだけではないアナログな感触やざらついたテクスチャーは、ディジタル・エイジらしいあえて汚した加工や演出のようにも感じられた。エア・ホーンやスティールパンやハープやエレクトリック・ギターの音、あらゆるサンプル、そのどれもがAbleton Liveという彼のパレットのなかにある「素材」のひとつとしてフラットに並んでいるのだろうと。

一貫性が感じられない客演ボーカリストたちの並びもふくめ、きびしい言いかたをすれば、そこにはポスト・インターネット的な、きわめて2010年代的なたくみさや器用さ、あざとさがあった。まるで、なにかを断定してしまうことをおそれるような、どっちつかずな態度。色がない、という作家性。ポジティヴな見かたをすれば、ムラ・マサの音楽はあらゆる党派性や地理性、歴史性から自由で、どんな波でもうまくサーフしてみせる、とても軽やかでクールなものだった。それと同時に、歴史の連続性のうねり、そしてそこに切断線を引いてしまう大胆さというふたつのダイナミズムにこそ興奮させられるポップ・ミュージックの聞き手としては、『ムラ・マサ』に飽き足らないものを感じていたのではあるが(そして、こうした音楽がこの国もふくめて、多くの国と地域のリスナーから称賛を集めていたことに、違和感をおぼえなくもなかった)。

歯切れの悪い議論になった。

が、この『R.Y.C』はまったくもって事情がちがう。ここでムラ・マサ=クロッサンは、軽薄な器用さをかなぐり捨てて、ストリップト・ダウンした不器用で不格好でエモーショナルな素顔を見せている。ギターを弾き、ベースを弾き、歌い、ビートをサンプリングし、それらを組み上げる。そんなクロッサンの姿が、このレコードからは容易に想像できるのだ。

『R.Y.C』でムラ・マサは、ついに彼が寄って立つものを見つけた。彼は、10代のころに夢中になったギター・バンドたちの音楽を再訪する。ニュー・オーダー、ジョイ・ディヴィジョン、スロウダイヴ、アメリカン・フットボール、トーキング・ヘッズ……。〈ザ・フェイダー〉のインタヴュー記事に掲げられた「ムラ・マサは前へと進むために後ろを振り返る」という題は、彼のそうしたモードを端的に伝えている(そして、現在の関心はブラック・ミディやスクウィッド、ブラック・カントリー・ニュー・ロードといったバンドたちの7インチ・シングルをリリースしてきたレーベル、〈スピーディ・ワンダーグラウンド〉に向けられているとか)。

だから、『R.Y.C』はムラ・マサがロックに転向したレコードだ、と受け止める向きがある。しかし、彼がここでやろうとしているのは、ポスト・パンクやインディ・ロックとエレクトロニック・ダンス・ミュージックとのむりやりな調停、すなわちダンス・パンクであり、そのふたつの音楽のなかにいかにねじれた調和を見出すか、ということであるはずだ。

というのも、『R.Y.C』で聞けるビートは、ほとんどがダンス・ミュージックにぎりぎり寄せたリニアでモトリックなものであるから。さらに、“ロウ・ユース・コラージュ”やティルザが客演した“トゥデイ”、エリー・ロウゼルが歌う“ティーンエイジ・ヘッドエイク・ドリーム”などで聞けるように、ギターやボーカルのロウな音の上にシンセサイザーのシークェンスや過剰にひずんだベースといったエレクトロニックなレイヤーをいくつも重ねていることにも、そうした意図が汲み取れる。生々しい音と電子音とが重なりあって溶け合い、ときにぶつかりあって変調され、エディットされていくことで、エレクトロニック・ダンス・ミュージック的なユーフォリックなムードと上昇していく感覚をうんでいる。がむしゃらにギターを弾き、つんのめったビートを無軌道に走らせているようで、その実、プロデューサーとして音へと向き合う一貫した、はっきりとした姿勢が打ち出されている。

そうしたティーンエイジャーの青春めいた不格好さとプロデューサーとしての客観性とのツイストした同居は、リリックにも表れている。“ノー・ホープ・ジェネレーション”の「希望のない世代」は、ベタにとるのも、ネタとして消費するのもまちがっているだろう。重要なのは、そのあとにつづく「この国を覆う新しい、ヒップなセンセーションの熱狂」というラインを見逃さないこと。そして、「現実をすぐ近くで見るなら/ぜんぶジョークだってわかるだろう」という辛辣さから目をそらさないこと。『R.Y.C』でのムラ・マサのアティテュードは、怒りからくるパンク的な否定と反骨ではなく、諦観と知性に衝き動かされたポスト・パンク的なアイロニーであることは、指摘しておかなければならない。

かつて夢中になったギター・ロックへと向けられた視線と相似形で、“ロウ・ユース・コラージュ”のリリックにおいてムラ・マサはティーンエイジャーの「古きよき日々」を思い出す。「ぼくたちが昔住んでいた場所/かつてやったこと/まだそこにある?/恋しいよ」。「あの家はもうぼくのものじゃない/あのベッドルームも」。ノスタルジー? いや、ムラ・マサはノスタルジーをノスタルジーとして、過去の「コラージュ」にすぎないとして客観的に見つめる。そして現代/現在に目を向け、ディジタル・エイジのリアリズムとニヒリズムを切り取ってみせる。「それはすぐそこにある/RGBで/LCDで/0と1で/5.1(ch)で」。それでも、「『よき日々』はこれから先にもある、そう思うよ」と力なくつぶやく。

ギター・ロックの懐古、過ぎた日々への郷愁、どこにも属せない寄る辺なさ。それらを客観視したダンス・パンクを鳴らすことで、ムラ・マサはついにツイストした個性と作家性、そして歌うべき言葉を手に入れた。

文:天野龍太郎

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