2020年4月下旬、夕方の路上で、彼は誰かに突然腕を掴まれた。相手を見ると身なりの良いスーツに身を包んだ30代後半~40代前半くらいの男だった。緊急事態宣言下ということもあり、知らない人に話しかけられるということ自体にひどく驚かされたが、どうやら道を知りたいようだったので案内をすることにした。
だが、彼は道の説明しているうちに、相手の言動がおかしいことに気が付いた。道に迷っているという話は嘘であり、男はゲイで、本当の目的はナンパだったのだ。
彼は嘘をつかれたことに対し怒りがこみ上げると同時に、そんな時期にも関わらず抑えきれない相手の性欲に嫌悪感と恐怖を覚え、無言で一瞥しその場を後にした。
しかし、彼はすぐに2つの考えに取り憑かれた。それは、この国の多くの女性が、男性からのこのようなナンパをされ、自分と似た気持ちになったことがあるであろうということ。そして「もし相手が美しい女性だったなら、自分は今と同じ気持ちになっただろうか?」という疑問だ。
彼はパフューム・ジーニアス『セット・マイ・ハート・オン・ファイア・イミディエイトリー』を聴くと、そのときの出来事について考えずにいられなくなる。
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ほとばしるイマジネーションと色彩豊かなサウンドコラージュによる前作『ノー・シェイプ』は、自分だけの大聖堂を築くような“創造的なエスケーピズム”を実現した大傑作だった。それに対し、パフューム・ジーニアスことマイク・ハドレアスを中心に名うてのセッション・ミュージシャンたちがスタジオに集まりレコーディングした本作『セット・マイ・ハート・オン・ファイア・イミディエイトリー』は、その制作スタイルも含め、聴き手を暖かい部屋に招き入れるようなオープンな作品となった印象だ。
言うなれば“2020年の室内楽”。収録曲の多くは、基本的なバンド編成に、ストリングス、フルート、オルガンなどクラシック音楽の要素を加えたタイムレスなものだが、そこに音響上の工夫で新しさが与えられている。この手法は前作からプロデュースを手がけるブレイク・ミルズのソロ最新作『ミュータブル・セット』とも共通しているが、実際にマイク・ハドレアスはブレイクの起用を念頭に置いてソングライティングを行ったと語っており、本作におけるブレイクの影響は想像よりも深いところに及んでいることが窺える。
そして本作を語る上で外せないのは、それらクラシック音楽の要素と同時に、ルーツ・ミュージックとしてのアメリカーナを多分に含んでいる点だ。これについては〈TURN〉のインタヴューにおけるマイクの発言が、雄弁なサブテキストして機能してくれる。
「ソウル・バラードの名曲や教会音楽は僕が影響を受けてきた音楽だから僕にとってすごく大切なものだけれど、自分とは離れたところにあるものだという感じが常にあった。クィアーな僕にとって、教会は入れない所だし、例えばエルヴィス・プレスリーの曲を聴いても、彼が歌っている物語に僕のような存在は決して含まれていなかった。でも僕はそういう音楽に共鳴したし、音楽を聴くたびに魔法にかけられたような感覚を味わっていた。今までもそうだけれど、今回のアルバムでは特に、自分も含まれているような物語を書いたり、僕と同じような人たちも共感できるような内容にして、そういう人にもその魔法のような感覚を味わってもらいたいと思った。昔の名曲のような、ノスタルジックで暖かみが感じられる音楽を作りたいと思ったと同時に、それは僕のための音楽で、新しい音楽であり、良いところだけでなく悪いところも全て含んでいる音楽を作りたかった。」
つまり、ヘテロセクシュアルであることを前提とした教会音楽やロックンロールに疎外感を覚えながらも親しんできたマイクは、パフューム・ジーニアスとして自らと似た境遇のクィアたちに向け、彼らを排除しない新たなバージョンの“クラシック”を提示しようと試みているのだ。またそれは同時に、マジョリティにとってのこのレコードは、パフューム・ジーニアスの視点を通してクィアの人生を覗き、かつてマイクが教会音楽やロックンロールを聴いていたときに感じていた違和感と共鳴の追体験にもなりうるということでもある。
そしてリリックに目を向ければ、本作はこれまでになく私小説的な要素を多分に含んだアルバムと言える。「僕の人生の半分は終わった」。そんな語り出しとともに始まるオープニング・トラック“ホール・ライフ”において、パフューム・ジーニアスはこれまでの人生を振り返り、同性愛者であることによって受けた迫害を思い出し、それを許そうとする。“ジェイソン”では、ついに見つけたはずの愛が相手にとっては一晩の過ちでしかなかった悲しみを最小限の言葉で詩的かつ写実的に描いてみせる。
だが、決してドキュメンタリーにはしないのもまた本作の特徴だ。そしてアルバムが進むにつれ、具体と抽象の境界は次第に曖昧なものとなり、聴き手はより深みに誘われていく。“ユア・ボディ・チェンジス・エヴリシング”で綴られるのは、恋人とのセックスの体位の描写か、あるいは自分の無意識あるいはダークサイドとの融和か。猟奇的なイメージと耽美な世界が交錯する夜想曲”ムーンベンド”、そして野太く低い男性的な声と女性的な声が重なるポエトリー・リーディング”リーヴ”では、ついにすべてが溶け合ってしまっているかのようだ。そこで描かれるSM的なモチーフは、トラウマのリフレインによる自虐なのか、実際に相手がいるマゾヒスティックな官能なのかはもはや判断がつけられない。
本作の構造はまるで入り口は広いのに出口がない罠のようだが、そこで生じる曖昧さや混乱は、それこそがこのレコードが正しくアートである証拠だ。
当人たちからすれば甘美なSMも、遠くから眺めれば一方的な加虐にしか見えないかもしれない。何も知らない子どもが両親のセックスを目撃し、それを暴力と見間違えるという話も珍しくない。同じポルノも、人によってはナメクジの交尾のようにグロテスクに、あるいはナメクジの交尾のように神々しく感じられることだってあるだろう。いずれにせよ確実なのは、時と場所、当人たちの関係性や意思など、数々の文脈が整って、初めて愛の交歓が実現するということだ。そして、そこには多数派も少数派もない。ひとりひとりすべて違い、すべて実在しているのだ。
甘い香りを放つ美しいメロディに誘われ、美しさとグロテスクさを同時に孕んだ両義的な歌詞を噛み締め、サウンドやニュアンスに言外の感覚を呼び起こさせられる。本作が提示するそんな体験は、とてもクラシカルでありながら、今なお新しきものだ。そしてその先には常に無数の可能性が広がっている。
マイク・ハドレアスはかつて、自身の身体への嫌悪を歌っていた。トラウマや混乱や自己否定がおもなモチーフだった初期のパフューム・ジーニアスの脆さや壊れやすさは、いつの間に、どのように変化したのだろう。デビュー作『ラーニング』(2010)のボロボロの録音によるピアノ・バラッドの痛ましい響きは、当時のハドレアスにとっての身体にほかならなかったはずだ。だからこそ彼はそれをさらけ出し、自らの痛みを可視化することで身体との和解を試みようとしていた。『プット・ユア・バック・イントゥ・イット』(2012)のシングル“フッド”のミュージック・ヴィデオにおいて、ゲイ・ポルノ俳優アルパッド・ミクロスと裸体を見せていたハドレアスは、「何も飾らない」ことで自分を表現しようとしていた。
だが、『トゥー・ブライト』(2014)以降のハドレアスは、むしろ「飾る」ことで自分の身体に対する信頼を快復しているようなのである。同作におけるシンセ・ポップ、『ノー・シェイプ』(2017)におけるオーケストラル・ポップの意匠/衣装はパフューム・ジーニアスの甘いポップスに華麗な彩りを与えることとなった。ある種のクィア・アンセムとなっている“クイーン”などに顕著だが、『トゥー・ブライト』以降はとくにアレンジが凝られているほど、ハドレアスそのひとの自己肯定の度合いが増しているように見える。ゲイとしての性や生は彼にとってかつて向き合うのが困難なことだったが、音の幅が広がるとともに彼のエロスも解放されていったのだ。
いつになればこれが洗い流されるの?
いつになれば僕の身体は安心できるの?
いつになれば僕は光のなかを歩けるの?
いつになればこの心は自分のものではなくなるの?
(“オン・ザ・フロア”)
5作目となる『セット・マイ・ハート・オン・ファイア・イミディエイトリー』はこれまででもっともアレンジが多彩で華やかな作品で、テーマのひとつをまさに身体としているという。この作品の前にハドレアスはケイト・ウォーリックの振付によるバレエ作品『ザ・サン・スティル・バーンズ・ヒア』に音楽を提供しただけでなく、自身もダンサーとして参加しているが、そこでの経験が直接的にアルバムに影響している。自分の肉体を音楽に合わせてコントロールすることによって、精神が解放されることを経験したのだ。本作の先行シングル“ディスクライブ“ではハドレアスがミュージック・ヴィデオを監督し、そして彼自身が踊っているが、そのしなやかな振る舞いには見惚れずにいられない。同曲はシューゲイズ風のギター・ノイズがアンビエントへと溶けていく挑戦的な構成のナンバーで、はっきりと新しいパフューム・ジーニアスの姿を示すものだ。ヴィデオのなかで彼は自分自身の身体を謳歌するばかりか、クィアを含めた多様な人びとの身体を肯定するように美しく見せる。理想化された身体なんてものは本当はなくて、それぞれが自身の精神性と同期したときこそ輝くのだと。
チェンバー・ポップ、オーケストラ、シンセ・ポップ、ドゥワップ、ミニマルなど様々な音楽的要素を散りばめながら、何よりもパフューム・ジーニアスらしい甘く優しいフィーリングでまとめあげているのは、たしかにプロデュースを務めたブレイク・ミルズの手腕によるものだろう。けれどもそれ以上に、ハドレアス自身がアレンジの多彩さにこれまで以上にオープンになり、まるで踊るようにそれらを軽やかに乗りこなすことで過去最高に明るいトーンがもたらされている。このしなやかなサウンドは現在のハドレアスの身体そのものだ。“ユア・ボディ・チェンジス・エヴリシング”――文字通りの意味で、身体性こそが新しい喜びをこの音楽に与えている。
自身のセクシュアリティを肯定できなかったひとりの青年が、やがてそのエロスを獲得していく――それは、はるか昔から繰り返されてきた典型的なゲイの表現者の物語なのかもしれない。けれどもだからこそ、パフューム・ジーニアスが徹底的にパーソナルに自己に向き合ってきた足取りは、やがて手に入れたその温かい歌は、彼だけのものではない。ひとつの音楽に合わせて踊っているうちに、あなたとわたしの身体はひとつに混ざり合っていくだろう。このアルバムは、聴く者すべての身体と官能をゆっくりと目覚めさせるような響きをしている。
きみが何と言おうと 僕はもう知っている
僕たちの身体は崩れ落ちる
ひとつのビートに合わせて
(“ナッシング・アット・オール”)