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REFLEKTOR Arcade Fire (Universal) by AKIHIRO AOYAMA
JUNNOSUKE AMAI
November 26, 2013
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REFLEKTOR

アメリカ的なるものの探求を過去にして踏み入れた、次の領域
リズムを主体とした全く新しいアーケイド・ファイア・サウンド

全米2位を獲得し、インディ・シーンに留まることのないバンドのポテンシャルを世界中に知らしめた2007年の2nd『ネオン・バイブル』と、グラミー賞の主要部門であるアルバム・オブ・ザ・イヤーを勝ち取った2010年の3rd『ザ・サバーブス』。カナダのモントリオールに拠点を置くアーケイド・ファイアがこの2作品で主たるテーマとしてきたのは、大きく言えば「アメリカ」である。キリスト教福音派を巨大な支持母体に持つジョージ・W・ブッシュ政権の末期に発表された『ネオン・バイブル』では、キリスト教を連想させるモチーフが散りばめられ、盲目的な信仰心に対する疑問符をアウトサイダー的な視点から提示。続く『ザ・サバーブス』ではテキサス州の郊外で育ったバトラー兄弟の幼少~青年期までを私小説的に描き、今度は広大なアメリカの大半部を占める郊外の在り様を内部の視点から描いてみせた。

それから3年の時を経て届けられた最新作『リフレクター』で彼らが目を向けたのは、前2作のように「アメリカ」ではなく、その外側に広がる非アメリカ、非アングロサクソン、非西洋史観の中で息づく様々な音楽と文化だ。本作リリース前の8月に世界各地で展開されたゲリラ・プロモーションには、公私に渡るウィンのパートナーであるレジーヌの両親が生まれた国、ハイチの土着信仰=ヴードゥーのシンボルを模したグラフィティ・アートを使用。1st『フューネラル』や『ネオン・バイブル』における葬儀や教会、聖書といった詩的/ビジュアル的なモチーフがどれもキリスト教に準じたイメージだったことを思えば、そのアート・デザインは本作におけるバンドの視座の変化を初手から端的に象徴していたと言える。

『ザ・サバーブス』ツアーの終盤に行われたハイチでの初ライヴをインスピレーションの発端として、レコーディングの地にジャマイカを選び、お馴染みのマーカス・ドラヴスだけでなくジェイムス・マーフィーをプロデューサーとして招聘した事実にも顕著なように、核となっているのはメロディやハーモニーというよりも、ビートやグルーヴ。“ユー・オールレディ・ノウ”や“アフターライフ”など、アーケイド・ファイアらしいエモーショナルで壮大なメロディを湛えた楽曲もあるものの、そのバックで印象深く鳴っているのはシンコペーションの効いたディスコ・ベースやドラム・ビート、パーカッション、シンセサイザーといった音の反復であり、過去のパブリック・イメージを決定付けていたストリングスやアコーディオン、オルガン等の楽器の存在感は限りなく薄い。オーケストラ、バロック・ポップ、アメリカーナといった要素はハイチのカーニバル音楽やレゲエ、あるいはポスト・プロダクションの効いたダンス・ミュージックに取って代わられ、2枚組・全85分の大ヴォリュームの中で、多種多様なリズムを主体とした、全く新しいアーケイド・ファイア・サウンドが展開されていく。

頻繁に引き合いに出されるU2のディスコグラフィで例えるならば、アメリカの内部にまで深く入り込み、ルーツと正面から向き合うことで大きな成果を形にした前作『ザ・サバーブス』は、アーケイド・ファイアにとっての『ヨシュア・ツリー』だった。そして、アメリカ的なるものを探求し終えた後で、巨大な成功を生んだそのフォーマットを自ら過去のものとし、新たな領域、新たなサウンドへと果敢に足を踏み入れたこの『リフレクター』は、多くのクリティックも指摘している通り、彼らにとっての『アクトン・ベイビー』と言っていい。アーケイド・ファイアはきっと、このアルバムを皮切りにして、これから更に誰も見たことがないような進化を遂げていくだろう。

文:青山晃大

はたして本年度ベスト・アルバムの最右翼は、
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ウィン・バトラーが本作『リフレクター』についてコメントした「スタジオ54・ミーツ・ハイチのヴードゥー・ミュージック」という形容は、まさにその有名ディスコ・クラブがニューヨークにオープンした70年代末、トーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』のプロデュースを控えていた当時のブライアン・イーノが「クラフトワークとパーラメントを合体させたような音楽を作ったら面白いんじゃないか」といった構想を常々語っていたというエピソードを連想させた。

こう切り出すのは少々飛躍が過ぎるかもしれない。ただ、その背景や動機はひとまず置くとして、身も蓋もなく括ってしまえばアフリカ由来~非西洋音楽への具体的なアプローチという点で、両ケースの間にはアナロジーを認めることができる。そしてそれは、ディスコにせよポスト・プロダクションにせよ、ともにエレクトロニックを媒介とした、ある種のプリミティヴィズムへの傾倒を象徴した。

事実、バトラーの中で『リメイン・イン・ライト』は本作の青写真の一枚として意識されていたらしく、それこそ当時のイーノ以下がリズムやコード、旋律に関するアフリカン・ミュージックの概念や伝統の理解と演奏技術の習得に努めたように、実際にハイチを訪れて現地の文化に触れ、さらに本作のレコーディングではジャマイカに滞在したことも、バンドにとって実りの多いものだったに違いない。

その成果は、さながら〈オン・ユー〉がミックスしたニュートラル・ミルク・ホテルのような“フラッシュバブル・アイズ”のダブ・サイケ、あるいは“ヒア・カムズ・ザ・ナイト・タイム”の阿洋折衷とでも言うべき音階/リズムやパーカッション・サウンドを聴けば明らかだ。そもそも、彼らみたいな複数のギター/ストリングス奏者を揃えてブラスやホーン・セクションまで擁したスタイルは、たとえばハイライフに代表されるコンボ形式のアフリカン・ダンス・ミュージックと相性がいいのだろう。もっとも、デヴィッド・バーンとの共作『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ』も挟んだ一連のプロデュースを通じて「第四世界の音楽」なる構想にいたったイーノの射程と本作を並べることは、やはり性急さを否めないとしても、とくにレイドバックした作風だった前作の『ザ・サバーブス』と比較したとき――ヘッズにおける『サイコ・キラー'77』から『モア・ソングス』へ、ではないが――、そのリズムやグルーヴの追求に見られる創造性は際立って感じられるのではないか。

なるほど、本作はアーケイド・ファイアによる初めてのダンス・レコードなのだろう。その初期においてはニュー・オーダーからの多大な影響を自覚した彼らは、デビューEPに収められた“ヘッドライツ・ルック・ライク・ダイアモンズ”をはじめダンス・ソングを作ったことはあったが、全曲とは言えないまでも、ひとつの作品を通してダンス・ミュージックがその音楽的な中心に据えられたことはこれまでなかった。ハイチ人ドラマーとのセッションをインスピレーションの出発点に、旧知のプロデューサーであるマーカス・ドラヴスを伴ったジャマイカでのレコーディングをへて、そしてニューヨークのジェームス・マーフィーへと渡り完成された本作には、バトラーが形容したように、いわばモダンとトライバルの出会い、それを繋いだダンス・ミュージックへの情熱が表現されている。

ただ、いってしまえば「〈DFA〉がリリースするアーケイド・ファイアのダンス・レコード」以上の期待を本作に寄せていたのも、また偽らざる本音だ。前述の楽曲しかり、まるで“ウェイク・アップ”・ミーツ・ニュー・オーダー“テンプテーション”といった趣の“アフターライフ”、何よりオープニングを飾るアーケイド・ファイア史上最長の官能的なディスコ・ナンバー“リフレクター”をはじめ、それらは本作のバック・ストーリーを知らずとも十分に感動的だが、それこそバトラーのコメントが想像させたものを超える、目の覚めるような音楽的な驚きはそこにはなかった。モダンとトライバルの出会い以上の何か。もっともイーノの「第四世界の音楽」ではないが、ディスコとヴードゥーを止揚して生まれるような新たな何か。もちろん、彼らの音楽的な主眼が、そうしたわかりやすい革新性の追求にないことは理解している。ただ、それでも、たとえば白人植民者が持ち込んだ賛美歌や軍隊音楽のブラス・バンド、逆に植民地軍への入隊兵が持ち帰ったカリプソ、あるいはレコードやラジオを通じて輸入されたラグタイムやスウィング・ジャズ、ソウル・ミュージックが現地の祭儀や舞踏音楽と交わりハイライフやジュジュが生まれたような、彼らなりの解釈が提示された混成音楽の一端でも期待していた自分は、欲張り過ぎなのだろうか。

そして、やはり指摘されるべきは、そのエスニックな音楽へのアプローチが与える既視感について、だろう。彼らがデビューして今日までの時間とも重なるこの10年間、いや、たとえ2000年代の後半の数年だけでもインディ・ロック・シーンの趨勢をそれなりに追いかけてきたリスナーであれば、こうしたいわゆるトランス・エスニックな振る舞い自体が、仮にコンセプトとしてはすっかり消費され尽くしたトレンドであるということを知っている。それこそヴァンパイア・ウィークエンドのアフロ・ポップやギャング・ギャング・ダンスのパーカッション・サウンドといった、2000年代にブルックリンで隆盛した文化横断的なスタイルはまだ記憶に新しいだろうし、たとえばイェイセイヤーが「Middle Eastern psych pop snap gospel」と冗談で自称したコピーが思惑に反して浸透してしまうほど、その当時でさえ状況はすでに爛熟の兆しを見せていた。あるいは、オマール・スレイマンら〈サブライム・フリークエンシーズ〉がリリースするアフリカや中東南アジアの辺境音楽が(フリー・フォークの余勢も駆って)インディ・ロック・シーンで話題を集めるようになったのもその頃だったか。

彼らとハイチとの繋がりは、3年前の大地震に際したチャリティー活動や、メンバーでバトラーの妻のレジーナ・シャサーニュのルーツであるといった必然性が前提にあり、ましてやエキゾチズムへの憧憬などとは無縁であることは言うまでもない。それを承知の上で、しかしそうした彼らの物語の枠からいったん離れて本作を眺めたとき、あくまでインディ・ロック的な文脈においてはそれが音楽的な趣向として時計の針をやや巻き戻したものであること、さらに言えばマーフィーのディスコティックなプロダクションと相まってどうにも鮮度を欠いたところに、そのひとつの作品としてのトータルな評価とは別に違和感を覚えてしまうのは、これも自分だけだろうか。今年を代表する、いや、2010年代を代表する一枚として評価されるだろう本作に、思いがけず2000年代の記憶を読み取ってしまった。むしろ、こっちの連想にこそ、良くも悪くもリアリティを感じてしまう。

文:天井潤之介

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